希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

「素」をさらけだすのは良いことではないという件〈再掲〉

人は場面に応じて様々な顔を使い分けている。

「本当の自分」なんてあってないようなものである。

人の「素」の部分を詮索することなんて無意味である。

 

初出 2016/12/22

 

僕は「素」の自分をさらけ出すことに強い抵抗がある。

「素」をさらけ出すという行為ははしたないもので自己満足に過ぎないのではないか、と思っている。

それぞれの場面に応じたフィットする仮面をかぶっていればよいと考えている。

僕は「素」の自分にはとても醜悪な部分があって人さまには見せられない、と思っている。その醜悪な部分を受け入れてくれるような友人の前ではちょっとだけ素を出すことはあるけれども、それはあくまで限定的、例外的なものである。

同時に僕は他者の「素」の部分なんてあまり見たくはない。僕の経験から、人の素の部分を見せられていい感じを抱いたことが少ないからだ。

 

いつの頃からがテレビ番組、特にバラエティー番組でタレントが「素」をさらすこと、「素」の部分を詮索されることが多くなった。ぶっちゃけキャラというカテゴリーらしきものもあるようだ。

僕のあくまでも個人的な意見なのだけれども、僕たちはタレントの「芸」を見たいのであって「素」の部分を見たいのではない。確かにタレントの「素」や私生活にちょっとは興味があるけど、それらを沢山見せられると辟易としてくる。自分の私生活を切り売りして無理にぶっちゃけているタレントを見るとなんだか哀れに思えてしまう。

 

僕の最もお気に入りの芸人は鳥居みゆきなのだけれども、彼女は一時期執拗に「素」を詮索されていたことがある。彼女は今に至るまで自身の「素」の部分を出してはいない。と言うか一見素をさらしているように見せかけて、いつの間にか彼女の世界に引きずり込み笑いへとつなげている。鳥居みゆきがメジャーになった頃は精神障碍者発達障害を負ったかのようなキャラだったが、これはキャラづけをしているわけではなく、彼女が持っている「変な」部分を増幅させていたものである。彼女はとても常識的であり、芸にストイックであり、才能豊かであるが、ただ変人なだけなのである。

 

このエントリーは鳥居みゆき論を語るところではないのでこのくらいにして。

「素」をさらけ出す、ということはどこかで「本当の自分」があってそれを追求することが正しいという思い込みにつながっているように思われる。

「素の自分」をさらけ出すことは「本当の自分」はこんな感じですよ、と他者に伝えるということなのだ。

そもそも「本当の自分」なんて本当にあるのだろうか。仮にあるとしてもそれを他者の目に触れさせることがいいことなのだろうか。

人はそのシチュエーションごとに自身の役割を果たし続けることで他者と関わり合い、自分の存在意義を確かめるものではないか、と僕は思う。その役割を演じている自分が「本当の自分」なのではないか。

 

「本当の自分」なんてそもそもが幻想に過ぎないものである。

人は「自分語り」をしたがるものであるけれども、その自分語りもある種のフィルターを通さなければ聞く人に不快感をもたらすものである。つまり、「素」の自分を語ること、ありのままに語ることは人の心の奥底に押しとどめておくべきものを白日の下にさらすことであって、心地よく目にし耳にするものではない。特殊な条件のもとで、例えば心理療法等で用いられることはあっても、僕たちの日常生活の中では避けるべきものである。

 

「素」をさらけ出すことが良い、という風潮(そんなものがあるのかイマイチ分からないが)は良いことではない。

「本当の自分」なんてものは実はどこにもない、と開き直った方が生きづらさが軽減されることが多い。

「素」をさらけださなくても人と十分に関わり合っていけるし、「素」の自分なんて意識をしない方がスムーズにいくことが多い。

 

 

  

働きすぎて死ぬ、ということが異常だという意識を共有できないこの社会、という件

過労死や過労自殺のケースが未だに頻出している。

怖いのはその報にふれた僕たちが鈍感になり、なんとなくやり過ごしてしまうことである。一時的に過労死を出した会社に対するバッシングは起きるが、そもそもなぜ過労死・過労自殺が起きるのか、という根本的な原因究明がなおざりにされてしまう。

極端な言い方をすれば、この社会では過労死・過労自殺をある一定程度許容しているのである。過労死をした人たちはたまたま運が悪いだけだと。相変わらず多数の労働者は異常な「働かされ方」には目を瞑り、多くの経営者は従来の「働かせ方」を続けて搾取量の極大化を図るのである。

 

冷静に、あるいは常識的に考えて「働きすぎて、死ぬ」なんてことはありえないことである。太古の昔の奴隷であれは一日中こき使われて死ぬまで労役を強いられることはあったかもしれない。その太古の昔の奴隷にしても死ぬまで働かされることはレアケースだったのではないか。奴隷が死んでしまえばその主人は労働力を失ってしまい自分が損をする。「生かさぬよう、殺さぬよう」に使役していたはずである。

ならば過労死の脅威にさらされているサラリーマンの一群は太古の昔の奴隷以下の境遇にあることになる。

 

過労死や過労自殺が起きるとその原因を労働者に帰するような言説が巻き起こる。たまたまその社員が弱かっただけで、他の社員は同じような労働環境下で働いているのに何ともないといった類の物言いである。あるいは休もうと思えば休めたはずだとか。

この手の詭弁を経営者が弄するのはまあ当然と言えば当然である。責任逃れの常とう手段である。

しかし、立場を同じくするべき労働者からも時として過労死した人に責めを負わせて、まるで自分が経営者かのような見方を取ることがある。過労死が起きた職場で上司や同僚が過労死認定の調査に非協力的な態度を取ることがしばしばある。

 

実は「働きすぎて、死ぬ」ということがかなり異常事態だという意識がこの社会では共有できていない、と感じることがある。

紋切型の報道姿勢もそうだし、実際に過労死・過労死事案が一向に減らないこともそうである。

労働至上主義的イデオロギーに毒されたままなのである。

大多数の人たちが勤勉が美徳というイデオロギーを疑いもせずに受け入れているのである。

まともな社会人ならば、働きすぎるほどに働くのが当然だとの考えに固執し、その考えに異を唱えると「社会人失格」「怠惰な奴」「使えない人間」などといったレッテル貼りをするのである。

 

いくら政府が音頭をとって「働き方改革」なるもの(実態は「働かせ方改革」であるが)を押し進めても無駄足に終わるだけである。

小手先の改革では何も変わらない。

根っこにある「働きすぎるほど働いて一人前」という歪な労働観が払しょくされない限り悲劇は繰り返される。

そして、「働きすぎて、死ぬ」ということがありえないこと、人として絶対に受け入れられないこと、といったような意識を共有できない限り悪夢から覚めることはない。

 

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「正しい生き方」なんてこの世には存在しないという件

人の生き方は千差万別である。

どのような生き方を選択するかは人それぞれの自由であり、他者にとやかく言われる筋合いのものではない。

何を当たり前のことを言っているのか、と思われるかもしれないがこの当たり前のことが蔑ろにされがちなのである。

 

僕たちは幼いころから学校教育を通して「~してはならない」とあるいは「こうあるべきだ」といった類のことを強いられている。同時に親の価値観の強要にもさらされ続けている。

確かに社会に出てからスムーズにその一員となるためには最低限のルールやマナーを身に付ける必要がある。場面に応じた挨拶や言葉遣い、立ち居振る舞いなどはどんな職業に就いていても必要なものである。

 

自分がどのように生きていくか、どういったことに重きを置くかといった価値観・人生観はひとりひとりが自由に形作っていくものである。

仕事中心の生き方を選んでも良いし趣味三昧の日々を送っても良い。カネ儲けに邁進しても良いし、家族や友人との関わり合いを大切にしても良い。

 

今は生産労働人口の8割以上の人たちが雇われて働いている。会社員(僕は労働者と呼ぶべきだと思うが)中心の、会社員がマジョリティの社会となっている。

そうなれば、大抵の人たちは雇われて働くことが当たり前との認識を持つことになる。雇われて働いている人たちの多くは自分の働き方や生き方に疑問を持つことなく、さも当然のことだととらえることになる。

どっぷりと会社に依存した状態が続くと、自分の生き方が「正しい」と思い込むようになる。

サラリーマンが自分の生き方こそが正しいと思うことは構わないし、それは自由である。なにせこの社会のマジョリティなのだから。

 

僕がなんだかなぁ~、勘弁してくれよ、と思うのは自分が信じる「正しさ」を押し付けてくる輩がいることである。

僕はサラリーマン的生き方を拒んでいる。傍から見ればフラフラとしている。決して真っ当といわれる生き方をしていない。

さすがにこの歳になれば、正面切って僕の生き方を否定されることはない(肯定されることも滅多にないけれども)。

若い頃はそうではなかった。例えば、僕が公務員を辞めようとしたとき、当時付き合っていたガールフレンドは僕を強く詰り、母親は強硬に反対した。僕がこれ以上こんな仕事はやってられないといった思いは無視されて、「正しさ」の押し付けをされたのである。

フリーランス的な働き方を選んだときに、一部の知人・友人は僕から離れていった(ついでにガールフレンドも)。

今も交友が続いてる友人連中は自分の「正しさ」を僕に押し付けず、僕の生き方を受け入れてくれた。

自分の正しさを押し付けようとする人たちは、その行為を悪意によってなしているわけではない。殆どが善意からである。しかし、その善意が他者を雁字搦めにし苦しめるという想像力を欠いている。

自分の正しさを押し付けたがる人たちは狭量であり、視野狭窄に陥っていて、そのことを自身で気付いていないのである。

 

絶対的に「正しい生き方」なんかこの世にはないのだ。

正しい生き方を国家が決めるなんてことがあってはならない。そんな社会はディストピアそのものである。

正しい生き方を何となく「世間」が決めて、それに従わないと肩身が狭い思いがするような社会なんて息苦しくてたまらない。

死の間際になって、なんとなく良い人生だった、そこそこ楽しめた人生だったと思うことができれば、それが自分にとっての「正しい」生き方なのである。

 

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国民健康保険がバカ高いのはなぜかという件

国民健康保険料がバカ高いと感じている人は多いと思う。国保料を滞納していて支払に四苦八苦している人も多いだろう。

僕は以前に住民税や国保料の滞納への対処法についてのエントリーを書いて結構な反響があった。それほど多くの人たちが国保料の高額賦課に悩んでいるのだ。

 

国保料が高いのは構造的な問題を抱えているからである。国保加入世帯は自営業と無職の人たち(年金生活者を含む)で大半を占める。勤め人で収入がある人たちは非正規雇用である。比較的に低所得者の占める割合が大きい。

 

高齢者や無職・失業中の人が多いということは医療費が嵩むことになる。

この医療費が嵩むことの要因を個人の責任に帰すことは酷である。人間歳を取れば身体にガタがくるのは自然の成り行きである。また、昨今の労働環境の悪化は心身に悪影響を及ぼしている。

誰もが病気になる可能性があるのである。

政府や自治体は国保料が高額なのは医療費が嵩むからだ、言い方を変えれば病気になって医療機関にかかる人が多いからだ、という言い方をする。

一面では真実であるが、どうもこの物言いは個人に責任を転嫁しているように思えてならない。

 

しかし、個人に責任がないかといえばそうとは言い切れない。ちょっとした病気で医者にかかり、注射や薬を処方されなければ安心しない人が多い。薬のコレクターかと見まがうばかりの人もいたりする。

 

医者も医者で過剰な診療をして(必要のない検査や投薬等)診療報酬を少しでも多く取ろうとする。国は診療報酬の単価を引き下げ、それに対応して医者は数をこなすようになる、というイタチごっこになっている。

 

製薬会社は薬を多く売りさばいて儲けようとしている。医者もそれに加担する。

医者と製薬会社が結託して、時には病気を作り出したり、「健康」の基準を厳しくして「病人」を多く生み出そうとする。メタボリック・シンドロームや新型うつなどはその最たるものである。生活習慣病の判断基準を厳しめにするのもまた然りである。

 

つまり、僕たちの不安や薬依存に乗っかって医者や製薬会社が暴利を貪る構図が成り立っている。それに加えて青天井の出来高払いの診療報酬体系が後押ししている。

この状況では小手先の手立てでは医療費の膨張は抑えられない。

 

僕たちができる医療費抑制のための手立てはある。過剰な診療を拒否することだ。薬の説明を受けて、不要と判断した薬はいらないとはっきり言う。検査や注射も同様にしっかりと説明を受けて、いらないものはいらないと表明する態度を取ることだ。これを嫌がる医者ならば転院すればよい。

 

一方、国保料については僕たちには決める権限が無い。

ひとつの手段としては「無理して払わない」ことだ。全く払わないというのはダメである。自分の払える額を設定して、役所の窓口で交渉して自分の要望を通す。その約束は必ず守る。そうすれば不利益な取り扱い(保険証の取り上げや短期の有効期間にする等)はまず受けない。

よく、保険料の滞納者に対して、きちんと払っている者がバカを見る、迷惑がかかるという物言いをする人がいるが、これは間違っている。国保料の滞納者のほとんどは払いたくても払えないのである。無理して全額を払っている人たちは頭を働かせて、生活に支障に無いように工夫をすべきである。何事も「お上」頼りにし、「お上」の言うことを無条件に受け入れる態度こそを改めるべきである。弱者が弱者を叩く、生活保護バッシングのような愚行をしてはならない。それこそエスタブリッシュメントの思う壺となる。

 

国民健康保険料が高いのは、特定の誰が悪いというのではなく、僕たちや医者や製薬会社や自治体の思惑が交錯しての結果だということである。

ならば、僕たちは医療費抑制のためと国保料の支払において、個人でできることをしっかりと着実にやり続けるしかない。

 

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現場の頑張りに寄り掛かった組織に未来はないという件〈再掲〉

戦いにおいて「戦略」の稚拙さを「戦術」ではカバーできないといわれている。

戦前の軍部が典型的な例である。

戦略はおろか戦術が稚拙な会社で働かされているサラリーマンは不幸である。

 

初出 2016/12/19

 

経営論やマネジメント論、組織論等でよく現場第一主義が唱えられている。現場の声を無視したマネジメントはダメだということだ。

現場にちょくちょく顔を出し、従業員のモチベーションを高めようとする経営者の姿がメディアに登場することがある。現場に顔を出さないような経営者はダメだという言説もよく聞かれる。

確かに現場を無視した組織は立ち行かなくなることが多い。

 

主だった組織である会社や学校あるいは軍隊においてしばしば見受けられるのは、現場の頑張りに過度に寄り掛かっている、ということである。

言い換えれば、組織の上層部がなすべき戦略の策定やマネジメントが稚拙な組織がとても多いということである。

 

戦前の軍の組織は一部のエリート軍官僚とその他大勢の兵隊からなる典型的なピラミッド型の組織であった。

大東亜戦争における軍上層部の無能さは多くの著作で検証されている。現場の声を無視した上に、過度に現場の頑張りに期待する戦略・戦術を繰り返し無残な結果を招いた。挙句の果てに、満州事変のように現場(関東軍)が暴走し、中央の統制が効かなくなってしまい、現場の成した軍事行動を事後追認するような事態に陥ってしまった。

現場の頑張りに寄り掛かりすぎると現場が暴走することもある、という典型的な事例である。

 

企業社会においても、現場の取り扱いを誤ると経営が行き詰ることがある。

経営層は戦略を練ってマネジメントに専念すべきなのだけれども、現場に過度に介入したり、あるいは現場の頑張りのみに期待すると経営が立ち行かなくなることがある。

一般的に戦略を誤ると、個々の戦術ではカバーできないと言われている。

経営戦略を誤ったりあるいは稚拙だったりすると、現場がいくら頑張ってもどうにもならないのである。ろくな経営戦略もないのに過度なノルマを課して従業員を鼓舞したりするのは愚の骨頂なのである。この国ではそのような愚かなことをやり続けている会社が多く、下手をするとそのような会社はブラック化してしまうのである。

 

教育現場の荒廃も教育制度の基本設計がおかしいのに現場の教員に過度にもたれかかり、過度の責任を負わせて、個人の限度を超えた量の仕事を押し付けていることが起因している。

 

組織の現場の頑張りに過度に寄り掛かると、悪しき精神主義や根性論が跋扈する土壌を生成する危険性がある。合理性を無視した精神主義はその組織を根本から荒廃させてしまうことが多々ある。このことは数多くの歴史的事実が証明している。歴史的事実という大きな話ではなくても、僕たちの身の回りにある多くの組織がこの病理を顕にしている。

このような病理に侵された組織の成員、サラリーマンや教師等は過度の頑張りを強制され疲弊する。最悪の場合には過労死や過労自殺に至ってしまうのである。

 

組織に属する個人の頑張りには限度があるし、個人の頑張りでは組織の病理を取り除くことはできない。同時にいくら現場が頑張っても組織の有する病巣を完全に除去することはできない。

そもそも、個人や現場の頑張りに寄り掛かること自体が大きな間違いなのである。

世の中の多くの人たちは「現場」で働く声なき人々である。

これらの多くの人たちは過度の頑張りを強いられたときに自分を守る術を持っておくが必要だし、その理不尽さに抗う気概を持っておかなければならない。また、時には「逃げる」という手段を取ってもいい。

現場の頑張りに寄り掛かった組織に未来はないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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