希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

組織のトップは必ずしも「できる人」を取り立てないという件

僕は常々疑問に感じていたことがある。

それは会社の社長が独裁体制を敷き、そのことによって経営が左前になっているときに幹部は何をしていたのだろうと。確かに独裁的な経営者に異を唱えるとクビを切られることもある。左遷されることもある。しかし、筋の通った正当なことを言えば同調する者も出現してくるはずである。同調者が多数派を形成すれば、独裁をストップすることもできるはずだ。

時々、ワンマン経営者や創業者がその地位を追い出される事態が生じることもある。ただしそれはレアケースである。

 

僕は当然ながら大会社の役員になった経験がないので想像の域を出ないが、どうも役員の人選に問題があるケースが多いのではないかと推測する。

会社の取締役、執行役員たちは「経営」に携わる立場の人たちである。当然に彼ら彼女らは経営手腕を問われなければならない。職務遂行能力が他者より秀でている程度ではダメなのである。

多くの会社ではサラリーマンの「あがり」「ご褒美」的なものとして役員への昇進がなされている。

 

役員への登用が経営能力を見込んでのものならば何も問題はない。別に恩賞でもあがりでも構わない。しかし、実情は社長(あるいは会長)のお気に入りだとか、派閥抗争による員数合わせによることが多いのではないか。

 

ある人を取り立てる際に取り立てる側よりも能力の高い人を取り立てた方が合理的である。組織の発展や拡大をなすためには代を経るたびにさらに優秀な人が次代を担うシステムにした方が良いのは明らかである。会社にしても政治にしてもはたまた官僚の世界にしても同様である。

 

しかし、現実は代を経るごとに劣化している組織が大半なのではないか。

組織のボスが自分よりも劣る人を取り立てる傾向があるからである。

典型的なのはワンマン社長がイエスマンばかりを側に置くケースである。イエスマンとまではいかなくても、差し障りのない人、従順な人等を取り立てる例が多い。その可もなく不可もない人たちの中から後継者が出る場合(世襲ではないとき)、組織のトップが交代するたびにそのトップの劣化が進む。そして劣化したトップがまたまた自分よりも劣った人たちを取り立てる。経営陣の劣化の負のスパイラルが起きることになる。

この負のスパイラルから抜け出せない会社は潰れることになる。たとえ大企業といえども。逆に負のスパイラルから抜け出せた会社ー例えば外部から優秀なトップを据えたり、たまたま経営陣の中に優秀な人がいてその人がイニシアティブを取った場合ーは盛り返すことになる。

 

なかなか自分よりも優秀な人を取り立てることは言うは易いが難しいことである。その優秀な部下をコントロールできる力量を自身が持っていなければならない。下手をすると自分を追い越して自分の立場が危うくなることもある。

自分の権力基盤が強い場合、例えば創業者だったり、創業者一族で大株主だったりしたときは優秀な人の抜擢もしやすい。逆にサラリーマン上がりのトップの場合、どうしても自分の息のかかった部下を取り立ててしまう。ただ、このことは一概には言えない。創業者でも世襲にこだわると、跡継ぎのライバルとなる優秀な部下を排斥することもあるし、サラリーマン上がりのトップでも自分より優れた後継者を作ることもある。

 

結局は自分より優れた者を取り立てるか否かはその人の器量の大きさによってくる。

優秀な人をためらいもなく取り立てる人は器量が大きい人であり、躊躇する人は残念ながら器量のない小人物である。

 

今の多くの大企業、政治家、官僚の世界は人材の劣化の負のスパイラルに陥ってはいないだろうか。

決してそんなことはない、と僕は信じたい。

 

「勉強ができる」ことは才能のひとつであるという件

僕は今でこそ勤労意欲の低いダメ人間であるけれども、小中学校のときは勉強がよくできる優等生だった。

でも、こんな過去の栄光なんて何の足しにもならない。仮に僕が昔は凄かったんだぞ、とか言って自慢すればただの「イタイ人」である。

勉強ができて、世間でええとこと言われる高校や大学に入ったとしても経済的成功や社会的威信を得られることにはならない、と僕は体現している。

 

僕は勉強ができることを自慢することはなんだか品のない行為だと思うし、勉強ができる人たちだけが社会的に成功する社会なんてクソだと思っている。ましてや勉強ができる人たちがそうでない人たちを見下す行為なんて最低で下劣なものだと思っている。

 

ところが、「元秀才」の僕としてはすっきりしないことがある。

勉強ができる人たち、できた人たちを殊更に貶める風潮がなんとなく蔓延しているような気がしてならないのだ。

例えばクイズ番組。中には豊富な知識を持つ人を賞賛するものもあるが、大抵は高学歴者や秀才とみなされた人たちに「こんな問題も答えられないのか」といった感じでバカにするような作りをしている。視聴者も勉強ができる人たちの頓珍漢な回答に溜飲を下げて、「やっぱり、勉強ができてもだめだよねー」なんて言い合いながら悦に入っている。

僕の身近なところでは、僕が講師をしている学習塾でも勉強ができて成績が良い子のことを他の生徒は快く思っていない節がある。極端な場合には勉強ができる子のことをバカにし、「勉強ができる、それがどうした」という感じで自分が勉強をしないことを正当化する。

このような風潮は決して良いことではない。

 

勉強ができることは才能のひとつである。運動ができるとか絵が上手く描けるとか歌が上手い、とかいったことと同質・等価のものである。

野球やサッカー等スポーツのために遠隔地の学校に行くことは批判されない(特待生制度や行き過ぎた場合のみ批判される)が、超難関校に越境入学することは批判される。

スポーツの練習に多くの時間を割いてもさして批判はされないが、長時間の勉強をすることは「可哀想」だとか「やりすぎ」だと批判される。

 

僕が小中学生の頃は勉強ができる子たちはある種のリスペクトを受けていたような気がする。勉強ができることを鼻にかけているような奴は嫌われていたが、そうではなくて他の子に勉強をそれとなく教えたり、学級委員を引き受けたりしてクラスのまとめ役をしたりする秀才は尊敬されていた。勉強ができる子は自分に与えられた役割があることを意識し、その役割に沿った行動を取っていた。

 

勉強ができる人たち、できた人たちをないがしろにすることはこの世の中の一部で蔓延する反知性主義的なものと相関性がある。

確かに勉強ができることが社会的な成功に直結するとは言えない。僕のようにダメ人間となり、社会のレールから外れたような生き方をしている人たちも一部に存在する。

しかしながら、社会の中枢を担う人たちの多くは「勉強ができた人たち」であることも事実である。

 

勉強ができる人たちを蔑ろにすること、勉強ができることを軽視することは社会全体の劣化につながる、と僕は思う。

あるいは少数派である「勉強ができる人たち」を多数派のそうでない人たちが蔑ろにすることは、多数派による少数派の排除という社会病理につながりかねない問題となる。

 

勉強ができることは才能のひとつであり、ある得意分野があるに過ぎない、と客観的に捉えるべきである。

確かに勉強ができる人たちがすべての既得権を握り、権力を掌握し、この社会をすべて動かす、という事態は避けなければならない。そんな社会には全く面白みもダイナミズムもない。

勉強ができることによって、「ちょっとだけおいしいところを得る」といった程度のことは認められても良い。

 

 

定時で退社するのは当たり前だという件〈再掲〉

僕はサラリーマン時代喜んで残業する同僚たちが理解できなかった。

そんなに職場に居残って何が楽しいのだろうと思っていた。

長時間労働によるメリットなんて皆無である。

定時退社が当たり前でないこの社会はどこか狂っている。

 

初出 2016/9/15

 

この社会は時間厳守にうるさい。

電車のダイヤが少しでも遅れると大問題になる。駅でサラリーマンと思しき人が駅員に喰ってかかる光景を何度も目にした。

社会人の心得の第一として時間を守ることが当然のように言われる。時間にルーズな人は信用されない。

 

時間厳守にうるさいこの社会において例外がある。

それは会社である。社員の退勤時間をなあなあにしてルーズな会社が多いからである。定時に退社しようとすると上司や同僚から注意される会社がある。定時退社を繰り返していると「やる気」や「意欲」がない社員との烙印を押されるケースがある。

大方の労働者は勤務時間が労働契約で決められている。その契約通りに退勤時間を守ると非難を浴びる。

僕のサラリーマン(公務員)時代、僕は残業時間を削減して定時退社をするように心がけていた。当たり前の話だが、勤務時間中は集中して職務を遂行し無駄な時間外労働はなくそうとしていたのだ。当時の上司はこの僕の勤務態度が問題だとして、何度も残業をしろ(仕事を作ってまでも)と僕に強要した。僕が公務員を辞める大きな原因となった。

 

今は僕が受けたような理不尽な扱いは減ってきているのだろうか。

成果主義能力主義が会社の人事制度に取り入れられてから久しい。本当の成果主義では労働時間ではなく実績が評価されるはずである。しかしながら、未だに長時間労働サービス残業が蔓延しているところをみるとそうとも言い切れない。労働者の評価基準に意欲ややる気の情意面を重く見る風潮が残っている。やる気があることをアピールするために遅くまで会社に残って仕事をし、会社への忠誠心を見せるような「見せかけの勤勉」がまかり通っているのである。そんな会社では定時退社を繰り返すような社員はたとえ実績を上げていようとも能力が高くてもダメ社員のレッテルが貼られてしまうのである。

 

いつまでも会社に残っているような社員を評価する会社ではある種の社員にとっては歓迎すべきこととなる。家に帰っても居場所がない、仕事以外に情熱を注ぐものがない社員にとっては会社に居残ることによって残業代稼ぎができて時間潰しができる、仕事熱心な人間との評価を得ることができることになる。会社にぶらさがっている生産性の低い社員がぞくぞくと生まれてしまうことになる。さすがにまともな会社ではそのようなダラダラ仕事をする社員には低評価しか与えない人事システムを採用しているが、それが多数派かというとそうではない。

 

定時退社をする社員を白眼視したりするような会社はろくなものではない。また定時退社が当たり前となっていない風潮を受け入れているような社会はどこか歪んでいる。さして重要でもないことに時間厳守を強いて、労働契約の根幹である労働時間にルーズなこの社会は狂っている。

定時退社が当たり前で、残業はレアケースとなるような働き方がスタンダードにならないと労働者の疲弊は解消されない。こんな当然のことをわざわざ書かなければならない点にこの国の会社組織の病理が表れている。

社会的弱者に対するバッシングほど卑劣な行為はないという件

社会的に弱い立場に置かれた人たちに対しては配慮が必要であり、また人に値する生活を保障することは自明のことである。

貧困は自己責任という考え方は前時代の遺物である。

社会構造のひずみによって多くの弱者が生み出され、そのひずみを少しずつでも失くしていく営みを続けなければならない。「革命」や「大変革」「維新」といった大転換ではなく、漸進的な改革を着実に進めていく態度を保ち続けることが肝要なのである。右翼や左翼、保守・リベラル等のイデオロギーに関係なく。

 

社会的弱者に対するバッシングがひきも切らず起こり続けている。

典型的なものとしては生活保護受給者に対するバッシングである。ごく一部に過ぎない不正受給を殊更に取り上げ、さも不正受給が横行しているような印象を与えようとする。生活保護受給者が保護費をちょっとだけ遊興費に充てたりすると、けしからんと憤る。果ては生活保護受給者は「人間のクズ」だの「人生の落伍者」だのとのレッテル貼りをする。

弱者を叩くことによって留飲を下げ、優越感を抱き、自分の不満を解消するような人たちが少なくない数存在することに僕は暗澹たる思いがする。

 

社会的弱者だとカテゴライズされる人たちは殆どがこの社会の少数派に属している。

また、彼らはごく一部のケースを除いては政治的に劣位に置かれ、大きな声を上げることができない。

社会的弱者はふだんは目立たないようにしていて、バッシングに対する反撃を手控えている。反撃できるような基盤を持ち得ていない場合も多い。

特に生活保護受給者はうしろめたさを抱き、スティグマを刻み込まれていて息をひそめて生活している。

 

社会的弱者をバッシングする人たちは、彼らをいくら叩いても彼らから有効な反撃がないと確信しているから、執拗にバッシングをし続ける。

そのような輩は自分よりも強き者に対しては隷従し、対等なものに対しては何も言えないのである。人としての最低限の矜持を持たず、人として有していなければならない「やさしさ」や「思いやり」に欠けた人種なのである。

社会的弱者のような反撃することに対する自制が働いている集団を見つけて、それをバッシングすることはとても卑怯な行為である。端的に言えば、タチの悪い「弱い者いじめ」以外の何物でもない。

 

こんなことを言えば、「弱者権力」があるのではないか、という批判を口にする人たちがいる。確かに被差別部落在日コリアン等の力のある団体が存在し、それらの団体の利権漁りや組織の腐敗もあるだろう。これらの団体が有する問題点に対しては批判も必要だし、問題点をなくすように働きかけることも必要である。しかしながら、弱者バッシングとこれらの問題を混同してはならない。影響力のある弱者権力的な組織があることを理由に弱者バッシングを正当化してはならないのである。

そもそも弱者が連帯し、ある組織を立ち上げたのは生存が脅かされたからである。人としての尊厳を踏みにじられたからである。結果として弱者権力が生まれたからと言って、社会的弱者が手を取り合い、組織化し、自分たちの声を大きくすること自体を全否定してはならない。

 

この社会に生きる大多数の人たちはちょっとしたきっかけで社会的弱者に陥る可能性を秘めている。ごく一部のエスタブリッシュメントやそれに連なる人たちを除いて、殆どの人たちは社会的弱者予備軍だともいえる。

社会的弱者に対するバッシングはまわりまわって自分の首を絞めることになる、という想像力に欠けている。

社会的弱者へのバッシングは卑劣な行為だとの社会的コンセンサスが成り立つ社会が健全で生きやすい社会である。

他者の自由を奪うことは快楽につながるという件

僕は自由に生きること、自由であり続けることを大切にしている。完全なる自由など幻想にすぎないと分かってはいるけれども、限定はされていても自由であり続けたいのである。

 

人は人が大切にしているものを奪うことに快感を覚える、という側面がある。倫理的には良くないことだが、友人の恋人を奪ったり、不倫をしたりするとえも言えぬ快感を得ることがある。

 

僕の全くの個人的な意見なのだけれども(このブログは僕の全くの個人的な意見を発露する場である)、大きな価値を持つとされる自由を奪う行為はとてつもない快楽を得るものだと思っている。

人々を支配し統制することはその最たるものである。

支配ー被支配の関係は他者を隷属させることによって支配者は満足感を得るものであるが、他者の自由をはく奪し、その自由を自己のコントロール下に置くことに快楽を覚えるのである。この快楽は毒性の強い麻薬のようなものである。

 

これも全くの僕の独断なのだけれども、恋愛関係においても相手の自由をコントロールすること、あるいは相手の自由を奪っている状態になると心が燃え上がる。自分のために相手が自由であることを放棄しているさまが楽しくて仕方がないのだ。

建前上は「君のあるがままの姿でいてほしい」とかなんとか言ったりするが、本音では自分の支配下に置いて、自分のために縛られた状態であることを甘受している姿を見て悦に入るのである。

このような状態は対等な関係ではない。

しかしお互いに相手の自由を奪い束縛し合うことで愛情を確かめ合っている面もあることは否定できない。

親子関係においても同様のものがある。

子どものためだと称して必要以上に子どもを抑圧する親が結構な数存在する。ちょっと前に話題になった「毒親」がそうである。子どもが健やかにのびのびと育つことよりも親のエゴ、つまり子供を抑圧する(自由を奪い、支配下に置くこと)快感が上回ってしまうのである。

 

僕は自由を大切にしているので、大抵は僕の自由を奪い、僕をコントロールしようとする様々な言動に対して抗うことになる。恋愛関係でもそうだし、その他の人間関係においてもそうである。

しかし、人は皆自由を希求し、自由を奪うものに対しては抵抗するとは限らない。ことはそう単純ではない。

「支配されたがる人たち」は後を絶たない。「分かりやすい言葉」で人々を扇動する「強いリーダー」に盲従し、自由を差し出すことなんて古今東西数多く見られる現象である。

恋愛関係において束縛されることに喜びを見出す人なんて星の数ほどいる。

 

他者の自由を奪うこと、自分の自由を奪われることは快楽につながる。

とてつもない力を持つ魔力なのである。

これは人の持つ業なのかもしれない。

人の持つ本質的な何かなのかもしれない。

この魔力に骨の髄まで侵されないということはとても困難なことである。

しかしながら、僕たちはこの恐ろしい魔力に抗うことを忘れてはならない。

 

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