希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

「先のことは分からない」という事実を僕たちは看過しているのではないかという件

未来に起こることなんて誰にも分からない。

マクロな視点からの未来予測が困難であること、ミクロな視点からの自分がどうなっているかなんて分からないこと、いずれも同じことである。

 

「先のことなんて分からないよ」といった類の言葉を発すると大抵の人は「そりゃそうだ、何当たり前のことを言ってるんだ」と返してくる。

でも、待てよ、そんな返しをする人の行動様式を見てみると、首をかしげたくなるようなものがいくつもある。

35年ローンを組んで家を買う、なんてことは明らかに今の状態が続く(あるいはもっと良くなっている)ことを前提としている。自分の未来がある程度確定している、ということを自明のものとしている。

生活設計なんて代物は未来の自分のあるべき姿を勝手に決めつけたうえで作られている。こうあるべきだとか、こうなっていて欲しいという勝手な願望を既成事実と置き換えている。

 

よくよく考えてみると、昔に思い描いた未来の姿と現在のそれは大きく食い違っているはずだ。

共産主義社会主義国家が雪崩を打って崩壊するなんて考えられなかった。ソ連が崩壊し、東西ドイツが統一するなんて僕が学生の頃はとても考えられなかった。

自国の話になると、こんなに経済成長が止まって、不景気が続き、格差が広がり貧困問題が顕になるなんて思いもよらなかった。

僕がこんなにダメ人間になって、世間で真っ当とされるレールから外れた生き方をしているなんて想像外である(兆しはあったけれども)。

 

僕たちはみんな先のことなんて分からないさと嘯きながらも、自分の都合の良い未来を思い描き、その願望に過ぎないものをあたかもそうあるべきものと思い込んで時を刻み続けている。

ある意味仕方のないことではある。

誰も暗黒の未来なんて想像したくないし、未来が全く捉えどころのない実体のないものとしてやり過ごすのは酷なことである。

人は誰もが自分に取って不都合なことからは目を逸らせたいものなのだ。

 

人生一寸先は闇である。

僕は人生一寸先は光と言い換えている。

先のことは分からないけれども、分からないからこそ楽しくて面白いと考えるようにしている。

自分の未来が確定していたらこんなにつまらないことはない。生きる意欲が失せてしまう。自分は何者であるか、なんて類の探求心は不要になってくる。

先のことが分からないからこそ僕はもがき苦しみ、その苦しみに耐えることができるのである。

 

僕が「安定」というものを忌み嫌い、「安定」なんて幻想だと断言しているのは、未来は予測不能であり、かつ常に物事は移ろい変化するものなのだと本能的に感じ取っているからである。

この本能的なものは誰もが有しているものである。ただ、これは世間で真っ当とされる生き方を疑いもなく続けていれば錆び付くものではないか、と僕は勝手に思っている。僕はレールから外れたからこそ、この本能が錆び付かなかったか、あるいは甦ったのではないかと思う。

このことは喜ばしいことなのか、僕には分からないけれども、喜ばしいことだ、としている。

「先のことは分からない」からこそ、こんなだめ人間の僕でも浮かぶ瀬がある、と思えるからそれは決して悪いことではない。

「労働」は依存性の高い麻薬であるという件

労働(特に雇われて働く)の本質は、労働者が自分の時間とスキルを会社に提供し、その対価として賃金を得るものだ。労働契約に基づいた契約関係に過ぎない。会社の利益追求のための道具・駒に過ぎない。労働者は常に搾取され、再生産に要する費用として賃金が支払われている、つまり「生かさぬよう殺さぬよう」に会社にいいように使われている存在である。

僕はこれらのことをこのブログで主張し続けてきた。一見マルクス主義的な色合いを持っているが、僕はマルキスト・左翼ではない。労働特に賃労働の本質を考えていくとどうしてもこれらのような結論に落ち着くのである。

 

とすると、労働とは搾取され放題で会社の意のままにコントロールされ、苦痛ばかりが伴う虚しい行為となる。

ところがそんなに単純なものではない。

これまでに述べてきた労働の本質はそのひとつに過ぎないのだ。

 

労働が苦痛ばかりを伴うものならば、資本主義体制は崩壊するし、経済成長は望めない。

一見単調で苦痛と思われる労働にも喜びや楽しみが内在しているのである。

僕も経験したことだし、恐らく殆どの労働者もそうであろうがある仕事を成し遂げたときには達成感を得ることがある。それがたとえ単純作業的な仕事であってもである。特にグループである課題を達成したときの高揚感は言葉では言い表せない快感である。同僚や上司と協働して仕事をやり遂げることは労働の醍醐味であるとさえいえる。

 

つまり、労働の本質には「苦痛」と「快楽」が同居しているのだ。決してカネ(賃金)のためだけに働いているのではない。人と人とのつながりが得られるからやりがいが生まれるのである。

労働は麻薬のようなものである。

快楽も禁断症状もあり、心身を壊すこともある。

頭の良い経営者は労働に内在する「快楽」に着目し、それを上手くコントロールすることによって労働者のモチベーションを高めて利益の増大を図る。名経営者と呼ばれる人たちはこのコントロール技術が卓越していたのである。

 

僕は雇われて働くことがイヤだと広言している。こんな僕でも働きたくなることがある。カネが無くなったという理由もあるが、それだけではなく、働くという行為によって「何か」を得たいという思いがあるからだ。労働に内在する麻薬性の虜になっているのである。禁断症状が出ているのである。

はっきりとした確証は無いが、「労働至上主義」的なイデオロギーは労働の麻薬性と関係があるのかもしれない。

 

労働が麻薬のようなものであるのならば、なかなかに厄介なものである。

完全に労働を忌避することが難しいのもうなずける。人と労働とは切っても切れない関係となる。

 

僕が労働を客体化する視点を持ち続けるためには、労働が麻薬であるとの意識を常に持ち、その常習性や禁断症状に飲み込まれないように注意を払うしかない。

労働という麻薬の常習犯にならないよう、僕は抗い続ける。

 

  

「自己責任」を突き詰めると超人的な人しか生き残れなくなるという件

一昔前は世に自己責任論が跋扈していた。

今は幾分和らいではいるが、それでもなお何かのきっかけで自己責任論が噴出する状況にある。特に「貧困」をめぐるメディアの報道がなされるとどこかしこからともなく貧困は自己責任である、生活保護受給者は甘えている等のバッシングが沸き起こる。 

 

俗に言う自己責任論は支配者層や社会的強者にとっては誠に都合の良いイデオロギーである。

社会的弱者に過度な自己責任を強いれば本来政府がなすべき施策をせずに済むし責任から逃れられる。社会保障所得の再分配という本当は為政者がしたくない政策、社会的強者が歓迎しない施策を後回しにできる(と画策している)。

この国は社会的強者には自己責任を求めずに社会的弱者のみに自己責任を強いる、というとんでもない国である。

 

人は日々の生活を営む上で自分で責任を取らなければならないこともある。自己責任の論理に抗えない時もしばしばある。しかし、それにも限度がある。

 

自己責任論は恐ろしいことに際限なく拡大する代物である。

貧困は自己責任である(イギリスでも19世紀の末ころまではこの考え方が一般的だった)。貧しいのは努力が足りないからだ、怠惰だからだと個人の責任に収斂する。

母子家庭で生活が立ち行かないのも自己責任である。離婚して母子家庭になったのは配偶者の選択を誤ったからだ、辛抱が足りない等の言葉を浴びせかける。

病気になったのは自己責任である。自己管理がなっていないから病気になり、日ごろから蓄えや備えをしていなかったのも個人の責任である。

枚挙にいとまがないが、この世で生きていて遭遇する不慮の事態はほとんどが自己責任になってしまう。

 

自己責任論を突き詰めると、この世でつつがなく生きていくためには病気にならないように徹底した自己管理をし、数年間の生活費を賄えるほどの蓄えを持ち、常に安定した収入を確保できるほどのスキルをもっていなければならず、これらの条件を満たした者だけが生きていける、といったことになってしまう。

こんな「超人」的な人たちしかまともに生きていけない社会はある種のディストピア的な社会である。社会ダーウィニズムや優生思想にもつながる危ない社会である。

 

当たり前の話だが、僕たちは生きているうちに様々なことに遭遇する。良いこともあれば悪いこともある。

ちょっとしたきっかけで収入の途を絶たれてしまうこともある。思いがけない事態に遭ってそれが長引くことなんてざらにある。そのために社会政策があり社会保障があり、互助・共助があるのだ。自助努力だけで渡っていけるほど人生は平らかなものではない。

何か事があると自己責任と言いたがる輩は想像力を著しく欠いたバカなのである。

 

今は小康状態にある自己責任論による弱者バッシングは何らかのきっかけでまた噴出する可能性がある。

人は自己責任云々するほど強くはないし、完璧な生き物ではない。

この当たり前のことを片時も忘れないようにしたい。

 

サラリーマンである限り収入を大幅に増やすことはできないという件

サラリーマン、つまり労働者を続けている限りは収入は大幅には増えない。

労働者が受け取る賃金には天井がある。たとえ勤めている会社が業績をアップさせても殆ど給料は上がらない仕組みとなっている。そうでなければ資本主義システムは成立しないのである。

 

マルクスによると賃金は生産関係であり「分配」ではない。

賃金は①衣食住を満たす生活費に相当する額、②労働者の再生産に要する額、③技術革新に対応する教育・訓練に要する費用によって決まるものである。

①は次の日以降も労働に従事することができるように食事や娯楽や休養等にかかる費用である。②は結婚し子供を持ちその子が労働者となるために要する費用(教育費等)である。③は技術が高度化したときにそれに対応し労働者として賃金を得続けるための費用である。

つまり労働者は常にギリギリの生活を続けることを宿命づけられているのである。

 

サラリーマンを続けながら収入を増やす方法としては以下のものが考えられる。

①目いっぱい残業をする。

残業代が全額支給されることを前提として、月に200時間の残業を続けると確かに給料は増える。しかし、こんな無茶な残業を続ければ心身を壊すことになる。また、残業ができなくなれば元の木阿弥となる。

②出世する。

出世して役員となり経営層に連なると格段に報酬は増える。しかしまともな会社では出世するためには相当の月日を要する。また、出世のための過当競争にも巻き込まれる。「運」にも左右される。

③画期的な発明をする。

画期的な商品・サービスを開発し、その利益が増大すると収入が増える可能性がある。しかし、その増加は大抵は報奨金等の名目で一時的なものである。基本給が数倍にアップすることはない。そしてその報奨金等は利益額に対して微々たるものであることが多い。

④副業をする。

確かに副業をすれば収入自体は増える。しかし、副業の質にもよる。他の会社でアルバイトをしても労働時間が増えるだけで本質的には何も変わらない。フリーランスで副業をするにしても、相当程度の専門知識やアイデアが必要となる。一般のサラリーマンにとっては結構ハードルが高い。

サラリーマンを続けながら大幅な収入アップを目指すことはかなり難しい。

 

収入を格段に上げるためには「労働者階級」から足を洗うしかない。

高額商品・サービスを取り扱う完全歩合給の仕事に就く、起業して成功する、不動産投資や株式投資等によって不労所得を得ることなどである。

これらは上記のサラリーマンを続けながら収入アップを目指す方法よりハードルが高いしリスクもある。リスクを取らないと多くのカネは稼げないのは自明のことである。

 

多くのサラリーマンは一見安定した立場を捨てることに逡巡する。

多くのサラリーマンはリスクを取らずに収入アップの方法がないものかと右往左往している。

はっきり言ってそんな都合の良いものはない。

安定した立場を捨てたくないのなら今の、決められたサラリーに文句を言わずにサラリーマンを続けていればいいのである。

ただし、サラリーマン(労働者)でいる限りはいつまで経っても生活に追われ、諸々の支払いに追われる日々が続くことを受け入れなければならない。資本主義体制を支持し、その体制に順応してそこそこの生活を営むためには当然のことである。

介護職、聖なる職ではなく賤なる職でもない件〈再掲〉

現在でもそうだが、近い将来に介護職員の不足が懸念されている。

求人サイトでは介護職の募集であふれている。

なにゆえにこれほど不人気職種なのか。

待遇の悪さ以外に根源的な理由があるのかもしれない。

 

初出 2016/8/30

 

僕は以前このブログで介護や福祉の仕事は特別なものではなく普通の仕事に過ぎないと書いた。介護職を特別視すると様々な弊害が生じるとも書いた。

今回のエントリーではなぜケアワークが神聖視されたり、逆に卑賎視されたりするのかを考察してみたい。

 

奈良時代から平安時代にかけての頃の話から。

当時、障害や病気等でケアを要する人たちに対しての施策は殆どなかった。社会保障制度が無きに等しい時代であった。悲田院など一部でケアを要する人たちを収容する施設はあった。これは社会保障社会福祉ではなく「お上」からの、ありていに言えば天皇家からの恩恵・施しによってなされたものだった。皇室財産からの寄付によって賄われたのである。皇室からの慈善目的の寄付は戦前まで盛んにおこなわれている。この天皇家からの寄付によって運営された病院や福祉施設は沢山ある。

 

奈良時代光明皇后によるハンセン病患者への施しの伝説にあるように、障がい者や病者をケアする行為は「聖なる」ものとしてとらえられた側面がある。しかし、実際のケアの担い手は「非人」たちであり、非人たちは賤視された人たちであり、被差別民だったのである。同時に障がい者・病者・高齢者等へのケアは「穢れた」仕事でもあったのである。

なぜ「穢れた」仕事・行為だったのか。それは人の生死に直接かかわる行為であったからだとされている。人の「血」や生死に触れる行為は穢れたものだという社会意識が共有され、この穢れた行為・仕事に従事したのは賤視された人たちであり、あるいは穢れた行為に関わったからこそ賤視されたのである。

 

現在介護に直接かかわるケアワーカーに対しては神聖な仕事である、と同時に汚れ仕事であるという見方がある。

後者に関しては排泄介助をしたり(いわゆるシモの世話)するから汚れ仕事だというのは表層的なものに過ぎない。深層においては障がい者や高齢者の生き死にに関わる仕事であるから「穢れ」仕事とみられてしまうのである。生死に直接関わる食事や排泄等のケアを行う仕事であるからこそ、古代から綿々と続く「穢れ」意識にとらわれるのである。

 

同じように人の生死に直接関わり「血」に直接触れる仕事に医者や看護師がある。やはりこれらの職も近世以前は賤視されていた。医者が社会的威信の高い仕事になったのは明治以降であり、看護師の待遇が劇的に改善されたのは最近になってからのことである。迷信的な穢れ意識を超克して「立派」な仕事として医師や看護師が見られるようになったのは、まずは報酬の高騰があり、それに伴う社会的地位の向上があったからである。

 

介護職については未だに神聖視された面と汚れ仕事の面がないまぜになっている。それがゆえに劣悪な待遇が放置され続けている。極論としてはボランティアで賄えとか外国人労働者を受け入れろといった声が絶えない。

北欧諸国ではケアワーカーは専門職として取り扱われ、待遇も良い。おそらく神聖視はされず汚れ仕事として賤視もされず、ひとつの普通の仕事として社会に認識されているからだと思う。

将来は介護職も医者や看護師のように「穢れ」意識から脱して、人と直接関わる職種のひとつに過ぎない、と見られるようになると現状を打破できる。

介護職は「聖なる職」ではないし、「賤なる職」でもない、との共通意識が社会に浸透すればようやく普通の「対人専門職」の一員となれる。

  

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