希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

「美しさ」に覆われた社会は本当に生きやすいのか、という件

ここ数年、この国がいかに美しいか、いかに優れているかを強調しているテレビ番組や著書が目に付く。

自国の美点を誇ることを取り立てて論うつもりはない。

僕は愛国者であるから、自国が美しく誇れるものならばそれに越したことはない。

 

ただ、少々気がかりなことがある。

偏狭なナショナリズムに陥らないかという杞憂とは別に「美しさ」を殊更に強調することに釈然としない思いが募るのである。

確かに自然の風景や街並み美しい方が良い。

人々の心のありようも美しい方が良い。

ただ、「美しさ」というものは主観によるものである。また美しさを至上の価値としてしまうと、そうではないとみなされたものは排除される。

この「美しさ」は誰にとって美しいものなのか、美しいとされないものや人たちは価値がないのか、ということまで考えないと、単なる排除・差別の論理になってしまうおそれがある。

 

美しさや清潔さを至上の価値とするイデオロギーはとても危険なものである。例えばナチス・ドイツは殊更に美意識が高く清潔さを追求していた。それがゆえに「異物」視した(美しくないとみなした)ユダヤ人、心身障碍者、ロマ人たちを迫害し、この世から抹殺しようとした。

美しさや清潔さを殊更に強調する思考はファシズムにつながるものである。

 

「美しい日本」、「美しい社会」といった類のスローガンに僕は強い違和感を覚え、胡散臭さを感じる。

この場合の「美しい」ものは為政者にとってのそれである。支配者層のあるいは社会的強者の価値観の押し付けに過ぎないものである。

「まつろわぬ」人々、化外の民は美しくなく、排除し抹殺すべしという価値観である。

もしくは多数派が少数派を排斥するためのイデオロギーもどきである。

 

生活保護を受けている人たちは美しくない。

ひきこもりやニートの人たちは美しくない。

ホームレスの人たちは美しくない。

身体障碍者や精神障碍者は美しくない。

お年寄りは美しくない。その他諸々・・・

「美しさ至上主義」はこの社会のマイノリティを排除し卑賎視するイデオロギーに即座に転化する危険性を秘めている。

 

美しさを求めることは完璧さを志向することでもある。

この世に完璧なものなどなく、完璧な人間など存在しない。

しかしながら、われこそは完全な正義を体現していると称して殺戮を繰り返した「完璧」で「美しい」と思い込んだ者たちの所業は枚挙にいとまがない。

 

いともたやすく「美しい〇〇」とスローガンを掲げて人々を扇動するような人間を僕は全く信用していない。底の浅いバカだと見ている。

けれども、僕たちは「美しい〇〇」といった類の言説に何となく惹かれてしまうといった性向を持っている。

「美しさ」に覆われた社会、「美しさ」を殊更に重視する社会は生きづらい、と僕は思っている。

「美しい」ものには棘があり毒がある、という先人の教えをないがしろにしてはならない。

 

 

 

「面倒なことはヨソでやってくれ」というメンタリティはどうなのかという件

僕たちの経済的な自由は公共の利益に反しないかぎり保障されている。日本国憲法にも規定されている。

資本主義体制下では私的財産権が最大限に保障されてもいる。

自分の持つ不動産や動産は他者によって不当に簒奪されない。今では当たり前のことだけれども、例えば中世のように中央政府の統制がきかない社会では自分の財産が力づくで奪われるケースが多発していたのである。

 

私的財産権を保障するということは、自分の財産の価値が毀損されそうな事柄があればそれを拒否できる権利がある、ということである。

 

ごみの焼却施設や福祉施設等を作るときにしばしば近隣住民による反対運動が起きる。それらの施設は公共の利益に資するものであるから、近隣の人たちは多少の不利益を甘受しなければならない、といわれる。

公共建設物だけではなく、例えば公園でホームレスへの炊き出しをしようとするとやはり反対する住民が出る。

これらの反対運動をする住民は表向きの理由としては静かに暮らす権利や環境権などを出してくる。同時に自分の有する資産の価値が減少することをおそれている。

当事者以外の人たちはそのような反対運動を「住民エゴ」だと指弾する。

自分さえ良ければいいのかと、公益よりも自分の財産権を優先するのか、と言いたいのだ。

 

住民運動を非難する人たちは、いざ自分が同じ立場に立てばどういう行動をするのか、このあたりは曖昧なままである。

おそらく両者の間には隔たりはない。

要するに「面倒なことはヨソでやってくれ」と考えるはずである。

反対運動をする人たちは他の人に比べて公共心がないわけではない。ただ、自分(たち)だけが不利益を被るのは納得がいかない、と感じているだけなのである。

 

僕は以前に福祉施設建設に反対する住民エゴを批判的に書いたことがある。そのときから時間が経って、ちょっと待てよ、と考えを巡らせてみて、一方的に住民エゴ的なものを断罪するのは正しくないのでは、という思いに至ったのである。

公共の利益の名のもとに、個人の経済的な自由を侵すことが是とされる社会は危ないぞ、と思い始めたのである。

経済的な自由を無制限に認めることは問題がある。しかしながら、公共の利益・公共の福祉という名の権力行使(暴力と言ってもいい)が際限なく認められることも大問題である。

 

典型的なケースとして原発の問題がある。

電力の安定供給は公益であり、国益でもある。だからといって安全性が完全に担保されていない原発を国家のあるいは電力会社の恣意的な判断で稼働させることには疑問がある。ましてや「原子力村」と揶揄される既得権者の利益を守るために安全を後回しにする、という態度が透けて見えるから反対運動が続いているのである。

自分の住んでいる近隣に原発があり、そんな危ないものなんかやめてしまえ、という要求は「住民エゴ」と片付けていいものなのだろうか。

 

「面倒なことはヨソでやってくれ」と考える人たちを全否定などできない。ある意味人の持つ素直な欲求だからだ。かと言ってこのような考え方を全面的に肯定することもできない。

ただ、「面倒なことはヨソでやってくれ」という声を上げる自由は広く認められるべきである。

杓子定規的な考え方となってしまうが、公共の利益の実現によって失われる個人の財産権の侵害の度合いを少なくしつつ、公共の利益が及ぶ度合いを最大化するために個別に交渉しながら折り合いをつけるしか手はない。

 

僕が当事者ならば、「面倒なことはヨソでやってくれ」と思うに違いない。でも、人は社会的な生き物であることも承知している。

この社会で生きていくうちに、時として社会存立のために自分の自由や財産が損なわれることもある、それは仕方のないことだ、とある種の「諦め」の気持ちを持たなければならない。

同時に公権力が公共の利益・公共の福祉という美名のもとに僕たちを抑圧することがある、ということも忘れてはならない。

 

 

 

「素直」さを殊更に持ち上げることには裏がある、という件

人が成長するために最も大切なことは素直であることだとよく言われている。大抵の自己啓発物では素直に人の話を聞くことを薦めている。

僕のような天邪鬼ですぐに人の言うことを信用しないような人間は成長しないらしい。

 

素直さが大切だ、ということは確かに一理ある。

特に会社をはじめとする組織の一員となったときには素直さが武器になる場面が多い。上司や先輩のアドバイスに素直に従う人のほうがウケが良いことになる。素直な人は扱いやすいし、素直な部下を引き立てようとする心理は理解できる。

 

しかしながら、ひねくれ者の僕としてはちょっと待てよ、と言いたくなる。

あまりにも素直すぎると批判精神が損なわれてしまうのではないかと心配になる。また、「個」を喪失しやしないかと憂慮する。

もっと大きな視点で見れば、国家や会社に従順で、それらに滅私奉公する人間こそ立派な人間だとのまことにエスタブリッシュメントにとって都合の良い人間観が跋扈するおそれがある。

 

僕の大学時代のゼミの指導教授は批判精神を持ち続けること、「常識」を疑うことの大切さを常に説いていた。世間で当たり前のこととみなされている様々な慣習・しきたり等に疑いもなく従うことの危険性を意識せよと力説していた。

自分の頭で物事を考えず、安易に権威に従うことは楽ではあるが、本当の意味で自分の生を全うしているのかと問われれば、答えは否である。

僕はゼミの指導教授の教えを忘れないようにしてきた。できる範囲で実践してきたつもりである。時として「素直」な人たちと軋轢を生じながらも。

 

よくよく考えればこの国の教育・学校、特に義務教育では素直な人間を作り上げるために存在しているように思える。決して国家に抗うような人を生み出してはならない、現行の資本主義体制に疑問を持ち否定するような人を生み出してはならないと。

素直に勉強して、成績を良くして、いい高校・大学に入り、いい会社に従順な労働者として入り、社会に不満を持つことなく、分相応の人生を送ることを僕たちに強いている。

 

僕は思う、強く。

「素直」であることは決して美徳ではない。

力ある者によって容易に操られることになる。

「抵抗」する力を削がれることになる。

「素直」さを殊更に賞賛し美化する風潮に抗っていきたい。

  

住宅政策は社会保障制度の根幹である件〈再掲〉

この国の住宅政策はとても貧弱である。

持ち家政策という名をもって一部の業界を潤し政官民が癒着している構造となっている。

住宅政策がまともに実行されれば、生活困窮者の問題のかなりの部分は解決できる。

 

初出 2016/8/23

 

衣食住の中でも「住」の確保が最もカネがかかる。

そして「住」のレベルがどの程度のものかは社会政策が機能しているかどうかの判断基準となる。残念ながらこの国の住宅政策はとても貧弱であり、社会政策のレベルは低いと言わざるを得ない。

 

労働者の所得は今後上がることはない。たとえ経済成長があったとしても、その果実は会社・経営者層・株主がすべて収奪する。

所得上昇がなくても生活レベルを上げるための最も有効な手立ては住宅政策の拡充である。公的な住宅を増やすこと、住宅手当の制度を創ることにより、労働者の可処分所得を増やすのである。新たに公的な住宅の建設が難しいのならば、空き家の活用や老朽化した団地等のリノベーションを行うなどして良質な住宅を確保する政策を推し進めるべきである。従来の持ち家政策なんて愚の骨頂である。労働者の生活を破壊するだけで、住宅会社・不動産業者・金融機関が丸儲けをするだけの愚策である。自民党議員とこれらの業者が結託して甘い汁を吸うために持ち家政策が採り続けられているのである。

 

僕が大学を出ることができたのは公営住宅住まいだったことが大きい。父は中小企業のサラリーマンで裕福ではなかったが、公営住宅に住み続けることによって家賃コストが低く抑えられたので、何とかそこそこの生活レベルを維持することができ、僕を私立大学に行かせることができたのだ。

そして今、僕は母と二人公営住宅に住んでいる。今住んでいる住宅は10数年前に新築されたもので、両親が抽選で当てて転居した住宅である。父が亡くなって母一人となり、僕が一人暮らしを辞めて戻ってきた。やはり家賃が安いので母の遺族年金と僕のパート収入でも何とかやっていけているのである。僕は住宅政策の恩恵を受けている数少ないケースである。もし、公営住宅に住むことが出来ないでいたら僕と母は生活に困窮していただろう。

 

ヨーロッパの多くの国では住宅政策を重視している。勤労者住宅をはじめとした公的住宅が充実している。住宅手当の制度もある。僕はヨーロッパが優れていて盲目的にそれに倣う、ということはいかがなものかとは思うが、こと住宅政策に関してはその良い点を取り入れるべきだと思っている。

 

生活困窮者の問題、ホームレスの問題等は住宅政策の拡充でかなりの部分が解決される。

仕事を失い、家賃が払えなくなってホームレスという負の連鎖を断ち切ることが出来る。住むところさえ確保できていれば、再就職の活動もできるし、もし病気ならば療養することもできる。何より住むところの心配がないということは精神衛生上も良い。また、就職支援や生活支援もやりやすくなり、その効果が上がるはずである。

 

適切な住宅政策は生活困窮者やホームレスを減らすだけでなく少子化対策や高齢者対策にも資するものである。

現状の財政難の中では社会保障全般を拡充することは難しい。ならば住宅政策を最優先事項とすることを切に望んでいる。

 

  

働く環境を良くするためにはひとりひとりが現実と向き合うしかないという件

この国で働く人たちの多くは労働環境が劣悪な状況にあることに苦しんでいる。

長時間労働サービス残業、誤った成果主義、リストラ圧力が常にかかっている等々である。

新自由主義グローバリズムはごく一部の経営者層・富裕層を富ませるだけで、労働者の生活の質は劣化の一途を辿っている。

 

労働者の職場環境を改善するためには労働者自らの力によってなすことが理想である。イデオロギーに囚われない労働組合の手によって待遇改善の戦いを続けるほか手立てはないのである。

労働者ひとりひとりの力はとても弱い。とても経営者層に立ち向かえない。ならばと「連帯」と「団結」によって対抗するしかない。

しかし、この国の既存の労働組合は闘う力と意欲を喪失している。組織率も低下し続けている。労働組合の存在意義そのものが問われている状況下にある。

 

労働環境の改善を国家の介入によってなすべきだという言説があるが、これには僕は全面的には同意できない。労使の交渉によってしても解決できない事案については国家権力の介入も仕方がないとは思うけれども、安易に国家に頼ることは危険である。

そもそも現政権・与党は大企業の利益を第一にしていて、労働者や庶民の生活なぞ二の次にしているのである。そんな政権が労働者や庶民を利するような政策を採ることはない、と考えなければならない。

 

労働組合は頼りにならない、国家権力の介入は避けなければならないとなると、結局はひとりひとりが個人で現実と向き合うしかない。

あるいは個人単位で加入できるコミュニティ・ユニオンに加わって会社と対峙するしかない。

個人でできることは限られている。その影響力なんて微々たるものだろう。しかし、手をこまねいているよりははるかにましである。

個人でできること。

それはサービス残業の拒否であったり、定時退社を試みることであったり、有給休暇の完全消化を図ることだったりする。職場の同調圧力に屈せず、労働者としての当然の権利を行使することである。

現に労働基準法、労働契約法、労働組合法等の労働法ではかなり強く労働者の権利が保護されている。多くの働く人たちはその知識が乏しくて、あるいはそれを学ぶ機会を奪われていて、会社や経営者の好き放題にされっ放しとなっている。ひとりひとりの労働者は闘う術を手にしているのである。

 

作家の竹内義和さんの言った言葉。

「金持ちはうまくつるんでいて、貧乏人はいつもバラバラである」

これは的を射た言葉である。

労働者や庶民が手を携えることができないのは、為政者の分断統治の結果であると同時にそのメンタリティの問題もある。ついつい目先の利益に目を奪われて、大切な目的達成のための中長期的な視野を持つことができないでいるのだ。

労働者や庶民も「うまくつるむ」ことが大切なのである。

 

労働者ひとりひとりの力は会社や経営層の力に遠く及ばない。

しかし、数の上では圧倒的に多数である。

労働者ひとりひとりが会社や経営層に対峙するために個人でできることをやり、そのうえで連帯し団結して(ユニオンを作ったり加入したりする)数の力で対抗する。

巨象も蟻の大群に倒されることがある、というようにひとりひとりは弱い労働者も大きな山を動かすことができる。

ひとりひとりが現実に向き合うことで道は開ける、と僕は強く思っている。

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