希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

正義が勝つ世界は意外と息苦しいかもしれないという件

僕は勧善懲悪のドラマや映画が嫌いである。

水戸黄門」や「暴れん坊将軍」なんて観る気が起きないし、ハリウッド大作のアメリカ万歳なんて映画は吐き気を催してしまう。

「正義」なんて大概は胡散臭いものなのだ。

 

とは言え悪がのさばる社会もどうかとは思う。

強盗や殺人、汚職等が蔓延しそれが当たり前となった社会なんていやだ。

そういった「悪」が蔓延した社会が極限にまで腐敗すると、庶民はクリーンな正義のヒーローを求める。これはこれでまともな反応だと思う。

 

クリーンなリーダーは変革を志向し、時として「革命」にまで行き着くことになる。革命の当初は熱狂的に支持されるが、時を経るにつれてリーダー層は腐敗し、独裁を強化したり庶民を統制するために管理化を強めることになる。こんなケースは古今東西ありふれたものである。

絶対的な正義は存在せず、100%クリーンな社会は存在しない。そんな100%クリーンな社会はSF小説によく描かれている超管理社会でしかありえないものである。

 

世の庶民は100%の社会なんて存在しないしこれからも地上に現れないことを知っている。そこそこクリーンでそこそこ腐敗していて、そのバランスが取れた(ややクリーンさが優った)社会でまあまあの満足を得るのである。

時々に権力者層の腐敗を罵ることによってガス抜きをし、「まあ、世の中はこんなものだ」とか言い合いながら、なんとなく現行の体制を支持し、自分の取り分を増やそうと躍起になる。これが庶民のリアリズムなのだ。

 

たまに「正義」らしきものが勝つことがある。

既存の体制が悪の権化であると断罪し、自分たちが絶対的に正しいと主張し政治的闘争に打ち勝つと、そのイデオロギーが普遍的な正しさを持つと錯覚するようになる。かつての共産主義社会主義のように。

正義とされるイデオロギーが庶民に幸をもたらすとは限らない。

 

僕たちは正義のために生きているわけではない。

イデオロギーでは飯は喰えない。

為政者が叫ぶ正義によって庶民は統制されるとなんとも生きづらい世の中になる。これは共産主義国家に限った話ではない。戦前のこの国も大東亜共栄圏だの八紘一宇だのといった空疎なイデオロギーを蔓延させて庶民を地獄に引きずり込んだ歴史がある。

 

正義が必ず勝たないからこそ、そこに社会のダイナミズムが生まれてくるのである。

為政者・権力者層が強いる正義なんて胡散臭いものだと醒めた目で見ておいた方が良い。

庶民の側から言い出す正義にしても、それが単なるエゴイズムに基づいたものであることが多い。弱い立場にある者の正義が絶対的に正しいものだとは限らない。時としてそれが弱者権力に転化することもある。要は権力者であれ、弱者であれ、正義の名のもとに得たものが既得権となったときにはそれらを手放したくないし、それらをずっと手にしたいがために正義を利用し続けることになるのである。

 

正義が勝つと、そこには意外と生きづらい社会・息苦しい社会が広がっていくことになる。

しかしながら、正義を失った世界は暗黒の世となってしまう。

このジレンマを内包した社会で僕たちはどうにかこうにか生き続けていくしかない。

人事のプロ、採用のプロなんていない件〈再掲〉

採用のプロと自称する輩であったり、俺は人を見る目があると自称する輩を信用してはならない、と僕は思っている。

会社や役所においての採用とは所詮は合うか合わないか、使い勝手が良いかどうかを判断するものに過ぎない。

 

初出 2016/5/31

 

僕が社労士をしているときにちょくちょく人事や採用のプロと自称する人たちに出会った。それは同業者の場合もあれば会社の人事総務部に籍を置くサラリーマンの場合もあった。その当時はそれらのプロを自称する人たちに敬意を表して話をじっくりと聞き、名刺交換をし、再会を約束してその場を収めていた。彼ら彼女らの自信たっぷりの言葉を聞くと自分の不勉強さ自信のなさを思い知らされたものだった。

 

今はこう断言する。

人事のプロや採用のプロなんていない。眉唾物だと。

いや、こう言い換えよう。自称人事や採用のプロは沢山いるが、結果を伴った本当のプロなんていないと。

大体社労士やコンサルタントの類は人より少し専門知識があるだけであり、会社で人事に携わっている人たちは人事異動でたまたまその席にいるだけであるに過ぎない。

その程度の人間に人を見抜くことなんてできるわけがない。そもそも誰かが誰かを見抜くことができると考えること自体がとても傲慢で身の程知らずの所業である。

あの松下幸之助さんでも、人を採用するときには「あなたは運がありますか」と尋ねて、運のあるなしで決めたというエピソードがあるくらいだ。それほどに人が人を選び、見抜くという行為は難しさがあるということなのである。

 

採用のプロと称する人たちにできることはいかに自社になじむ人を選び取るかということだけである。優秀か否かを判断する必要はない。「無難」な人を選び、それで事足りるのである。確かに無難な人選、自社に適合する人を選ぶことならば、経験によってカバーができる。

ところが、多くの会社では無難な人選をしても、一定の割合で会社に馴染めない人たちが生まれるし、思っているほど成果を上げられない人たちが生まれてくる。

「採用のプロ」が人選するのであれば、この一定の割合が限りなくゼロに近づくはずである。ただ、自称「採用のプロ」にそこまで求めるのは酷なことである。彼らは所詮はサラリーマンなのだから。

 

「人事のプロ」についても同様のことが言える。

人事制度なんて少々その筋の著書を読めば設計できる。その設計した人事制度がうまく稼動するかはまた別問題である。

適材適所の人員配置をすることはある程度経験則から導き出せる。しかし、社員が皆納得するような人事なんて不可能である。どうしても一定割合で職場に不適合な社員が出てくる。

 

要は人事や採用に絶対的に正しい理論は存在しないのである。もっともらしい理論もどきは数多く存在するが、結局はそれぞれの会社の実情に応じてケースバイケースで対応するしかないのが実態なのである。

 

人事のプロや採用のプロなんて本当は実在しないし、不必要なものなのである。会社に多大な利益をもたらす人材、イノベーションを起こす人材が得られたら、それは運が良かったと割り切るべきなのである。同様の割りきりが会社に馴染めない社員、成果が全く上がらない社員に当たったときにも必要である。

間違っても「俺は人を見る目がある」と嘯く輩を信用してはならない。 

 

働けない、働きたくないのは病気でも障害でもないという件

僕は無職、ひきこもり、ニート、すべての経験がある。

無職のときは肩身の狭い思いがした。世間のつまはじき者だという感覚があった。ただ、ポーズだけにしても職探しをしているとまだましであった。時々面接に出向いたりしていると母の態度も暖かいものだった。「無職」はかりそめのものであって、いつかは真っ当に働いてくれるという期待を込めていたのだ。たとえ無職でありその期間が長引いていても職探しのアクションを続けている限り世間は多少は大目に見てくれるものである。

 

僕は小学校5年生のときに不登校になりひきこもり生活を送ることになった。不登校になってはじめの頃は両親は鷹揚に構えていたのだが、その期間が長くなってくるとわが子はおかしいのではないかと疑うようになった。その当時は今よりもずっと精神科を受診するということの敷居が高かった。そこでわが親はどこで情報を仕入れたのか不明だが、催眠療法なるものに一縷の望みを託したのだった。今から思えばずいぶんと怪しい催眠療法の診療所に僕はしばらく通った。そこでは催眠をかけられたり自律訓練法のマスターを図ったりしたのだが直接的な有効打とはならなかった。結局、僕は友人たちのおかげで学校へ通うことができるようになった。

不登校もひきこもりも僕の場合は精神的な病気によるものではなかったのだ。少しばかり学校という組織に不適応を来しただけだったのである。

 

数年前に厚生労働省がある調査結果を公表して物議を醸したことがある。ひきこもりの人たちの大半は統合失調症等の精神病が疑われるというものである。この調査はサンプル数も少なく、精神保健センターの相談者を対象にした非常に偏ったものだった。しかし、この調査がマスコミで報道され、ひきこもりに対する誤った認識が広がってしまった。ひきこもり、あるいはニート精神病者か怠け者であるという偏見が固定化される元凶となるものだったのだ。

 

僕の経験からも支援団体の現場での皮膚感覚からもひきこもりは病気によるものでも障害によるものでもないと言える。確かに一部の人たちは何らかの精神的な疾患を抱えていたり発達障害があるかもしれないが、殆どの人たちは「正常」なのである。

学校や会社といった組織の論理にうまくなじめないといった程度のことで「異常者」扱いされるのはそれこそ異常である。また同時に世間での多数派の価値観になじめない人たちが存在するのも当たり前のことで、この少数派の人たちを異常者扱いするのは多数派の横暴である。

 

ニートやひきこもり、あるいは生きづらさを抱えている人たち等が「働きたくない」「働けない」と言うことも思うことも決して異常なことではない。

働くことが当然のこと、という労働至上主義イデオロギーに抗っているだけである。労働・勤勉が絶対的に善で怠惰が絶対的に悪というイデオロギーが幅を利かせだしたのは近代以降のことに過ぎない。少々穿った見方をすれば、支配者層が押し付けたものに過ぎないのである。

そもそも近代以降の「労働」は人間疎外が内在する、人としての価値を毀損する性質を有するものである。

働きたくない人たち、働けない人たちを一つの価値観だけで捉えて、病気や障害を持っているとカテゴライズして異常視し異端視するのはことの本質を無視した愚行である。

 

働きたくない人、働けない人は経済成長至上主義が跋扈する世の中では疎外された人たちである。経済成長に寄与できない人たちは異常者で役立たずだとして排除する社会は不健全であり生きづらい社会である。

働きたくない人や働けない人に対して負のレッテルを貼るような経済成長至上主義イデオロギーは前世紀の遺物としなければならない。

 

 

この国の会社の生産性が低いのはなぜだろう、という件

先進国の中でこの国は特に生産性が低いという調査結果がある。

まあ、わかりやすく言えば表向きは沢山働いてはいるように見えるけれども商品やサービスの生産効率が悪いというわけである。

僕個人としては生産性や効率ばかりに目を向けることはどうなんだろう、とは思うけれども、がむしゃらに働いている状態を放置していることも大問題だと思う。できるだけ少ない労働量で大きな利益を生む、となればこれに越したことはない。

 

僕の独断と偏見、あるいは肌感覚で生産性が悪いという理由を考えてみることにする。

 

① やりたくない仕事を会社にしがみつくためにいやいやしている。

自分の仕事というものはその職務を会社によって決められる。会社に所属している限り、自分の好きな仕事や得意な仕事ばかりができるとは限らない。

また、ある調査では、ずっと今の会社では働きたくないが、おそらくずっと今の会社で働き続けるだろうという回答が多数だったということだ。会社に対する帰属意識が低いにもかかわらず、その会社にしがみつかざるを得ないという点にサラリーマンの悲哀が感じられる。

実際問題として転職のハードルは低くはない。労働市場流動性は低いままである。会社や役所の正社員でないと社会的な信用が低いので、正社員という身分を手放したくないし、その結果会社にぶら下がり続けることになる。この社会では一旦レールから外れると元に戻ることが難しい。

意に反してしたくもない仕事をいやいやながらも続けることになる。これでは革新的なアイデアも出にくいし、仕事に対するモチベーションは上がりにくい状況になりやすい。

 

② 会社からの評価を得たいがためにやらなくてもいいような仕事を作り、会議を増やし、長時間労働をして自分のやる気や意欲をアピールする。

いやいや仕事はするけれども、やはり高い評価は得たいというのがサラリーマンの性である。会社の人事考課は成果だけを上げればいいというものではない。やる気や意欲と言った情意面も考課の対象となる。会社によっては精神論が幅を利かせていて、情意面を重くみるような旧態依然としたところもある。いやいや仕事をするようなモチベーションの上がらない状態でもやる気を見せなければならない。そのためには毎日遅くまで残業している、というアピールをする。また、効率よく仕事をして定時退社をするような社員は評価されないという会社が未だに多く存在する。そのために長時間労働が常態化する。長時間労働や残業を積み重ねても、一向に売上や利益が伸びない。当然と言えば当然である。

長時間労働を強いて業績が上がらないというのは最悪の状態である。生産性が低いということよりももっと重大な問題であり、この国の会社が抱えている病理現象である。

 

生産性が低い理由を上記の2点に絞ってつらつらと書いてみた。もちろん、会社や上司のマネジメント能力の欠如も大きな理由である。しかし、ここではあえてこれ以上はふれないことにする(別のエントリーで書いている)。

サラリーマンたちはなぜこのように生産性が落ちるような働き方をしているのか、あるいはそうせざるを得ないのか。サラリーマン個々の資質の問題にしてしまうのは簡単なことだ。でも、それは問題を矮小化しているだけである。根本にはこの国の会社が抱えている「組織の病理」、組織の論理に社員たちを絡めとること、組織に抱え込んでしまおうとする力学が強く働くこと等々がある。

生産性が高くなるに越したことはないが、そればかりに目を向けていると、労働者を非人間化することが加速する。

「生産性」だけに焦点を合わせてあれこれ論じていると、そこには落とし穴が待ち受けている。

 

 

 

 

「上には上がいる」ということに早く気付いた方が良いという件

僕は特殊な才能もないし人より特段優れたものを持っていないごく平凡な人間である。

いや、平凡以下かもしれない。

フルタイムどころかパートタイムで働くことにも難儀しているようなダメ人間である。世の中の多くの人がこなしていることを満足にできないようなダメダメ人間なのである。

 

こんなダメ人間の僕ではあるけれども、中学生のころまでは夢と希望にあふれて、人生を前向きに考えていた。

小中学生のときにはなぜだか成績が良かったのである。学校の勉強は好きではなく、予習復習なんて全くしなかったし塾にも通っていなかったけど常に成績は学年のトップクラスだった。これは自慢でも何でもない。ただの「井の中の蛙」状態だったのだ。

 

中学校のときに常に学年で一番だったT君という友人がいた。このT君は天才肌の人で彼も全くと言っていいほど勉強をしていなくてその当時珍しかったマイコン(今でいうパソコン)を持っていて、自分でプログラミングしてゲームを自作していた。

僕は朧気ながら、彼には敵わないかも、と思っていた。朧気ながらというのは、僕はきちんと勉強すればT君と対等になれるのでは、と考えていたのだ。

僕とT君は同じ高校に進学した。僕と彼との差は広がるばかりだった。

結局T君は現役で京都大学に楽々と合格し、僕は第一志望の国立大学を落ちて私大に進むことになった。

僕は「上には上がいる」ことを確信した。朧気ながら感じていたT君との埋めようもない差があることを思い知り、その現実に打ちのめされた。僅かばかりのプライドが砕け散った。

世の中にはT君のような人が沢山いて、いわば「選ばれし」存在である人が存在し、僕なんかはその他大勢的な存在に過ぎない、と認識したのである。

 

僕は早い段階で「上には上がいる」ことを気付かされて良かったと思っている。「上」ばかりを目指し、競争に明け暮れる生き方に疑いを持ったからだ。

ある分野でトップに立つことができなくてもいい、そうでなくても自分なりの楽しい人生を送れるはずだと思えるようになった。

自分の居場所を見つけて、自分なりの生き方を確立すれば幸せになれるかも、と考えたのである。ただ、この考えが確かなものとなるのは僕が40代を過ぎてからのものとなる。このブログでもたびたび書いているが、僕が40代を過ぎて「キレて」しまってそれまでの生き方を捨てたときに昔に思ったことが現実化したのである。

 

今から思えば、僕はすでに中学生の時にT君に対して「上には上がいる」と感じていたのかもしれない。それを素直に認めるのが嫌なので、高校まで先延ばししていたのだと思う。記憶が風化してしまっていて、今となっては確かなことは分からない。

 

僕は今、完全にダメ人間であり、日を追うごとにそのダメ人間度が上がっている。それとは引き換えに、ちょっとだけ「やさしい」目線で世間からつま弾きにされた人たちを見ることができるようになった。世間で「真っ当」とされる生き方や価値観に懐疑的になった。「上には上がいる」ことに早く気付くことができたことの効用だと勝手に思っている。

僕は今、経済的な豊かさには程遠いけれども、そこそこ人生を楽しむことができている。上には上がいても全然いいじゃないか、と自分に言い聞かせながらも。

 

 

 

 

 

誰でも即実践できます!あなたの不調をやわらげます あなたの心に灯をともす、根本的な解決法を伝授します