希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

人との「違い」や「差異」にこだわりすぎるのはどうかと思う件

当たり前の話だが人それぞれに個性があり違いがある。

この社会では以前からずっと「個」の時代が来たと言われている。

また、多様化・多元化した社会にならないといけないとも言われている。

 

他者との差別化や差異化等の掛け声は聞こえはいいが色々と問題を抱え込んでいる。

他者との違いとか差異などを殊更に強調すると2つの方向に極端に行き着くことになる。

ひとつは人のわずかな違いを重箱の隅をつつくように見つけ、同調圧力を伴ってその差異を圧殺しようとする力が働くことになる。わかりやすく言えば、「みんな」との違いを殊更に論い排除するのである。均質化への志向と言ってもいい。

次に他者との差異にこだわるあまり、自分が個性的でなければならない、個性的であるべきだという強迫観念に囚われることである。

 

世間では「みんな」と違う生き方をしたり働き方をしていると放っておいてくれればよいのに「善意」の皮をかぶった介入を受けることになる。

特に会社をはじめとする組織に属していると「みんな」からの圧力はとんでもなくすさまじいものとなる。

一方で個性的な生き方を賞賛しておいて、いざ自分の目の前に「みんな」と違うことをしている人を見ると足を引っ張り「みんな」と同じようにしろと強いてくるのである。

 

多くの場合、他者との差異にこだわると自己の個性化に向かわずに同調圧力の尖兵となって「みんなと同じ」無間地獄に引きずりこむような行動に出るのである。その結果様々な差別が生まれてくることになる。

 

他者との違いにこだわり自分なりの生き方や働き方をしていると世間との軋轢を生むことがある。その原因がやはり他者との差異にこだわり同質化を強いる人たちによってもたらされることが多い。

皮肉な話である。

人との違いや差異にこだわると自分らしく生きることがむずかしくなるのである。

 

どうやら僕たちは他者との差異化を志向し、同時に均質化を志向するという矛盾した性質を持っているらしい。自分は人とは違うことをしたいし個性的になりたいのだけれども、他者がそれをすることは許せないのだろう。これは利己主義であり、個人主義ではない。この性向は本質的なものなのか、あるいは文化的歴史的に熟成されてきたものなのか、はっきりしたことは僕には分からない。おそらく、僕の全くの個人的な意見だが、本質的なものではなく後天的に習得した性向であると思う。

 

僕はこの国の人たちは本来は個人主義的傾向を持っていて集団主義に根っから馴染んでいるとは思えない。

この国にいつの間にか根付いている「世間」の存在が「みんなと同じ」ことを「みんな」が強いる同調圧力の源であると思っている。

この「世間」というものは誠に厄介なもので、少々意識したくらいでは世間の呪縛からは逃れられない。僕たちは善悪を超えて、この世間と折り合いをつけながら生きていくしかない。

 

僕のあくまでも個人的な感覚なのだけれども、これまで述べてきたことは若い世代では薄れているかもしれない。

他者との違いや差異に「こだわる」のではなく、それらが当たり前で自然のものだと捉えている人たちが増えているような気がする。

これはなかなかに良い傾向である。

もしかすると「世間」の在り方が「個」を尊ぶようなものに変わるかもしれない。

ダメ社員=ダメ人間ではない件〈再掲〉

サラリーマンにとってダメ社員のレッテルを貼られることはとてもつらいことである。人としての価値を貶められるように感じることもある。

しかし、ある会社・組織での評価なんて所詮はローカルなものに過ぎないのだ。会社ごときに人としての価値なんか決める資格はない。

 

初出 2016/3/17

 

多くの人たちは自分が職場で評価されなかったり「できない人」扱いされると、自分自身の人としての価値を貶められたと感じてしまう。

仕事のできない奴は人として最低だとされてしまうのである。仕事での評価=人としての価値だと錯覚してしまうのだ。新卒の就活や転職活動で落とされ続けたら、人格否定されているとついつい感じてしまうのも同様のことである。

 

仕事をすること働くことは人生の一部に過ぎない。確かに自分のなした仕事が世間から高い評価を受け、「人格者」とみなされるととても嬉しい。仕事に対する高いモチベーションとなりうる。しかし、人の人生の何たるかは単純に割り切れるものではない。

 

特にひとつの会社における評価など所詮はその会社におけるローカル基準によったものでしかない。ある会社で優秀でできる人間として評価されても、他の会社あるいは会社以外の領域で優秀だとは限らない。

有名企業の管理職や役員だからといってその人を優秀だとか人格者だと決め付けるのは愚かな行為である。

 

人の価値は仕事ができるかどうかだけで決まるものではない。おそらく多くの人たちはこのことを理解はしていても現実的には仕事ができるか否か、あるいはどこに勤めているかといった判断基準をもって他者を評価している。労働至上主義のイデオロギーが染み付いてしまっているのである。

 

できるサラリーマンなんて所詮は優秀な「労働者」であるに過ぎない。会社により多くの搾取をされている存在に過ぎない。言葉を変えてやれ「生産性が高い」だの「高付加価値をもたらす」だの賞賛されても所詮は会社を経営者を株主を肥え太らせるために飼い慣らされている労働者に過ぎないのだ。

 

ひとつの会社でダメ社員のレッテルを貼られても気に病むことはない。前述のとおり、その会社内だけで通用する人事考課によって評価されただけのローカルなものに過ぎないからだ。

よくバカな上司は「うちの会社で通用しない奴はどこにいっても通用しない」とか逆に「うちで通用すればどこでもやっていける」といった類の妄言を吐くが、全く根拠のない噓である。

たかだかひとつの会社で通用するかしないかでその人の価値を決め付ける行為は無意味であり愚行である。

 

会社での評価ばかりを気にしてしまうと、その人の持つ本来の力を喪失してしまうことになる。

確かに会社での評価は自分の待遇に直結するので、全く無視するわけにもいかないけれども、ある面から見れば自分はそのように評価されるのだな、といった程度のものとして受け流しておけば良い。そもそも会社の人事考課なんて悪い意味で「いいがけん」なものである。

会社による評価に一喜一憂して束縛されるなんてばかばかしいと覚めた目で自分を見つめることも必要である。

 

ダメ社員=ダメ人間ではないし、優秀な社員=立派な人間ではない。

あまりにも会社での評価、仕事ができるかどうかにとらわれすぎていると、人として大切なものを見失うことになる。 

定時で退社するのは当たり前だという件

この社会は時間厳守にうるさい。

電車のダイヤが少しでも遅れると大問題になる。駅でサラリーマンと思しき人が駅員に喰ってかかる光景を何度も目にした。

社会人の心得の第一として時間を守ることが当然のように言われる。時間にルーズな人は信用されない。

 

時間厳守にうるさいこの社会において例外がある。

それは会社である。社員の退勤時間をなあなあにしてルーズな会社が多いからである。定時に退社しようとすると上司や同僚から注意される会社がある。定時退社を繰り返していると「やる気」や「意欲」がない社員との烙印を押されるケースがある。

大方の労働者は勤務時間が労働契約で決められている。その契約通りに退勤時間を守ると非難を浴びる。

僕のサラリーマン(公務員)時代、僕は残業時間を削減して定時退社をするように心がけていた。当たり前の話だが、勤務時間中は集中して職務を遂行し無駄な時間外労働はなくそうとしていたのだ。当時の上司はこの僕の勤務態度が問題だとして、何度も残業をしろ(仕事を作ってまでも)と僕に強要した。僕が公務員を辞める大きな原因となった。

 

今は僕が受けたような理不尽な扱いは減ってきているのだろうか。

成果主義能力主義が会社の人事制度に取り入れられてから久しい。本当の成果主義では労働時間ではなく実績が評価されるはずである。しかしながら、未だに長時間労働サービス残業が蔓延しているところをみるとそうとも言い切れない。労働者の評価基準に意欲ややる気の情意面を重く見る風潮が残っている。やる気があることをアピールするために遅くまで会社に残って仕事をし、会社への忠誠心を見せるような「見せかけの勤勉」がまかり通っているのである。そんな会社では定時退社を繰り返すような社員はたとえ実績を上げていようとも能力が高くてもダメ社員のレッテルが貼られてしまうのである。

 

いつまでも会社に残っているような社員を評価する会社ではある種の社員にとっては歓迎すべきこととなる。家に帰っても居場所がない、仕事以外に情熱を注ぐものがない社員にとっては会社に居残ることによって残業代稼ぎができて時間潰しができる、仕事熱心な人間との評価を得ることができることになる。会社にぶらさがっている生産性の低い社員がぞくぞくと生まれてしまうことになる。さすがにまともな会社ではそのようなダラダラ仕事をする社員には低評価しか与えない人事システムを採用しているが、それが多数派かというとそうではない。

 

定時退社をする社員を白眼視したりするような会社はろくなものではない。また定時退社が当たり前となっていない風潮を受け入れているような社会はどこか歪んでいる。さして重要でもないことに時間厳守を強いて、労働契約の根幹である労働時間にルーズなこの社会は狂っている。

定時退社が当たり前で、残業はレアケースとなるような働き方がスタンダードにならないと労働者の疲弊は解消されない。こんな当然のことをわざわざ書かなければならない点にこの国の会社組織の病理が表れている。

「不良社員」がもっともっとのさばってもいいという件

僕は雇われて働くことがイヤである。

ただし現実問題として、生活していくためにはカネを稼がなければならない。大方はどこかの会社に雇われて労働者としての道を歩むことになる。

 

会社に雇われて働くにしても、僕たちは会社に完全に隷属してはならない。僕たちは会社の奴隷ではないのだ。

昨今は社員の自立を強調したり、副業を推奨したりする会社が世を賑わせたりもしているが、根本的には会社は社員を縛り統制することには変わりはない。

 

多くの労働者は会社に良い評価をもらうことを第一に考え、「良い子」であろうとする。これが度を過ぎると会社人間になり社畜となる。

 

僕はもっと労働者は「不良社員」になってもいいのではないかと思っている。

不良社員といっても、仕事をサボりまくるとかやたら上司に反抗するとか横領まがいのことをするとかを意味するのではない。

まずは労働者としての権利を行使する。サービス残業はすべて拒否し、付き合い残業なんかも拒否する。有給休暇はすべて取得する。強制参加の飲み会なんかに参加しない。

やたらと長い時間の意味のない会議ではさっさと切り上げるように仕向ける。そもそもそんな会議なんて不要だと主張する。

上司の顔色をうかがうことなんてきっぱりと辞める。同僚からの同調圧力には抗う。

これらのことは実際は言うは易しだが実行することはなかなかに難しい。しかし、この程度のことをしないと社畜への道にまっしぐらとなる。

この程度に不良社員化しても現行の法制度ではそうそうクビにはならない。せいぜい閑職にまわされるか左遷されるくらいが関の山である。

 

そもそも上述のような自己主張程度で「不良社員」扱いされる方がどうかしている。

会社によって金太郎飴のように画一化した「人材」にされることそのものに危機感を持つべきである。労働者も規格外の不良品扱いされることを誇るようなメンタリティを持った方がよい。長い目で見れば、そのような人がいざという時に力を発揮するのである。リストラされるなどして職を失っても、雑草のように逞しく生きていける。

 

所詮は仕事なんて人生のほんの一部に過ぎない。

仕事で自己実現を図るとか成長するとかは眉唾物であり幻想に過ぎないものである。

仕事によって得られる能力とかスキルなんてたかが知れていると覚めた目で見ることも時には必要である。

 

世のサラリーマンのひとりでも多くが不良社員化すれば面白くなる。結構会社も利益が上がり、この国の経済も成長したりするかもしれない。

 

僕にとっては今まで書いてきた不良社員的な働き方・生き方はごく当たり前のことである。

だからこそ、会社勤めには馴染めないのだと今更ながらに痛感する次第である。

  

サラリーマンという働き方が「まとも」だという考え方を捨てようという件

会社や役所という組織に雇われて働く人たちが大多数になっている社会ではその価値観がサラリーマン仕様になるのも仕方がない。

学校を卒業してブランクがなくどこかの会社に雇われて働く、特に正社員として働くことが真っ当な社会人だとされている。やれ多様化だの個性化だのといった掛け声がなされても、この硬直した考え方は未だに幅を利かせている。

 

僕は雇われて働くという生き方を否定したいわけではない。現実問題として、殆どの人たちは何らかの形で組織に雇われる働き方を選ばざるを得ない。起業したり、フリーランスとして仕事をするのはなかなかにハードルが高く感じられる。

雇われて働くということは例外なく会社に「搾取」されているという事実に向かい合わなければならない。資本主義体制下では搾取自体は悪でも何でもない。労働者でいる限り、生活を営むのに必要な程度にしか稼げない、という現実を受け入れるしかないということだ。

 

僕は雇われて働くことの一番の弊害は組織の論理に絡み取られること、分かりやすく言えばサラリーマン根性にどっぷりとつかってしまうことだと思っている。サラリーマンを辞めたのにサラリーマン根性から抜けられない人たちも多くいて中には悲惨な状況に陥ったりする人もいる。

僕の友人A氏のエピソードを。

A氏は大手の銀行を辞めて独立起業を模索していた。ある時某県の就農セミナーに参加した。そのセミナーには実際に就農した人たちが講師として参加していた。その講師たちが「ボーナスがない」「給料をもらうことがうらやましい」等のボヤキを連発していたとのこと。この元サラリーマン就農者の話を聞いてA氏はやる気をそがれ、就農を辞めてしまった。

この元サラリーマン就農者の嘆きも理解できないわけではない。ずっと給料をもらってきた身からいきなり自分で稼がなければならない身になって辛かったのだろう。自営を始めたのにサラリーマン根性から脱することができないと、目も当てられない状況に陥ることが多々ある。僕も何人もこのような類の人たちと出会い、相談を受けたこともあるのだが、生憎と解決することは不可能だった。

 

サラリーマンを長く続けていると、サラリーマン的価値観に染まってしまい、なかなかその呪縛から逃れることができない。いわゆる組織人として優秀だった人たちにその傾向がみられる。サラリーマンとしては模範的で優秀な人たちが独立して成功するとは限らない。

サラリーマン、特に正社員という働き方がまともだと思い込んでいる人たちはフリーランスとして独立しても起業しても失敗する確率が高い。僕の全くの個人的な意見だけれども。

 

サラリーマンという働き方が真っ当だという考え方は幻想に過ぎない、と醒めた見方をしないといけないような気がしてならない。

たまたまこの国が経済成長を果たし、資本主義体制が成熟したから雇われて働くという人たちが多数派を形成しただけのことなのだ。国家や経営者連中の思いのままになっているだけなのだ。サラリーマンという働き方がまともだとされるのは、一過性のものに過ぎないのかもしれない。今は異端視され色物扱いされるような稼ぎ方、例えばせどりやネットビジネス等々によって生計を成り立たせている人たちを下に見るような風潮は近い将来に消滅している可能性がある。

 

どのような稼ぎ方をしても反社会的なものでない限り個人の全くの自由である。

サラリーマン、雇われて働くということだけがまともだという狭い偏った価値観が世間に蔓延っている限り、生き方の多様性が奪われ、生きづらさを感じる人たちを多く生み出す状況が続くことになる。

どんな形であれ、自分の食い扶持を稼いでいれば、その人は「まとも」なのである。

 

 

 

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