希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

サラリーマンに経営者目線は全く不要である件

この国の会社ではやたらと社員に経営者の目線を持てだのといって義務や責任を負わせている。この手垢にまみれた「経営者目線を持て」というスローガンは未だに無能な経営者によって連呼されている。

 

ごく当たり前の話だが、経営者と労働者は与えられた役割が全く異なっている。経営者は大局的な視点から経営戦略を策定し、その戦略を有効に遂行するために組織を動かすことが主な仕事である。労働者は戦略に基づいて、部署単位や個人単位で戦術を練り、自分の与えられた職務を全うすることが求められる。

要はこういうことである。会社は社員個人の職責を超えた責任や義務を課して、社員を際限なく働かせるように強いているのである。そして経営者の経営責任逃れを正当化するのである。リストラという名の首切りを強行して自分は今の地位に安住している経営者連中がいかに多いかを見ていれば分かる。

 

労働者の職責と「経営者目線」は全く相容れることがないものである。

ただ、経営者的なものの見方が有用なことがあるのは確かである。

それはコスト意識を強く持つことである。このコスト意識は将来自分が経営幹部になったとき、独立して起業したりフリーランスになったときに役立つかもしれない。

そして、自分が上げた売り上げと経費を意識するといかに自分が会社に「搾取」されているかが分かることになる。自分がいくら会社に利益をもたらし貢献しても自分の給料には反映されないかを知ることは有益である。

「搾取」そのものは悪ではない。資本主義体制は搾取なしには成り立たないものである。搾取を否定するとそれは即ち資本主義を否定することになる。

 

搾取されることが嫌ならば搾取する側に回るか、一見搾取がない働き方を選択するしかない。搾取されていることを知りつつも雇われる形で働き続けるか、その呪縛から逃れた働き方をするかは人それぞれの価値観によるもので、どちらが正しいとか間違っているかという話ではない。

経営者目線というものを突き詰めると、どうしても「搾取」ということや労働のあり方という話に行き着くことになる。しかし、経営者はこのような根源的な問いに行き着くことを想定していないし求めていない。経営者は労働者を効率よく使いたいだけであって、その方便のひとつとして「経営者目線」云々を言っているだけなのである。

 

経営者は労働者ではないから労働法、特に労働基準法の適用は受けない。経営者は時と場合によっては青天井に働かないとならない。要は経営者は労働者に無限に働き利益を生み出してほしいと潜在的に思っている。労働者意識、労働者としての権利意識を持ってほしくはないのだ。かといって経営にはタッチしてもらいたくない。労働者に経営なんて高度な仕事などできるはずがないとバカにしているのが本心である。この本心を表に出すと労働者のモチベーションが下がるので、経営者目線を持って働くことが自己啓発になるとのお為ごかしをするのである。

 

サラリーマンに経営者目線は全くいらない。

会社という組織に隷従しないためにも労働者意識を強く持ち続けてたえず労働者の権利を行使し続ける態度を取り続けることが肝要である。

また、経営者にバカにされていることへの抵抗の手段としても、この労働者としての当事者意識は大切なものである。

サラリーマン根性と労働者意識は全く異なるものである。

サラリーマン根性を持っているとすぐに経営者視線もどきを持ってしまう。こんな害ばかりのサラリーマン根性は捨て去り、労働者意識を強く持つことが会社という組織の論理を打ち破る一手となる。

 

 

「落ちこぼれる」ことを何とも思わなければ楽に生きていける件

僕たちは学校でも会社でも競争を強いられてきた。

落ちこぼれたら後はないぞ、と強迫され続けてきた。

レールから外れて落ちこぼれても何てことはない、と開き直れた者が実は一番強いのである。

 

初出 2016/3/15

 

僕たちは「落ちこぼれ」になることを極度に嫌う傾向にある。他者から落ちこぼれのレッテルを貼られると、自分が最低の人間だと感じてしまう。学校でも会社でも教師や上司たちは落ちこぼれたら人生の落伍者だぞと、競争を強いる。

 

僕は真っ当な人たちから見れば「落ちこぼれ」である。

正社員としての真っ当なサラリーマン生活を送ることができず、競争社会から一歩も二歩も引いた生き方をしている。意識も低いし、自己実現なんて端から望んでいない。

こんな僕でも若い頃は必死で落ちこぼれないようにしていた。落ちこぼれたら人生はジ・エンドだと思い込んでいた。他者より社会的威信の高い仕事に就き、高収入を得て見栄えの良い肩書を手にすることが実りのある人生だと思い込んでいたのだ。

 

僕は今のような生き方を選んだことにより楽に生きられるようになった。常に金欠状態で懐は寒いがなんちゃってミニマリスト生活をすることにより何とかしのいでいる。

こんな僕でも競争自体を否定しているわけではない。適度な競争はあるべきだと思っている。ただ、競争社会に居心地の悪さを感じている者までに競争を強いるのは愚行だと思っているだけだ。

 

そもそも「落ちこぼれる」こと自体がそんなに悪いことなのだろうか。

ひとつの価値観に雁字搦めになっているだけなのではないだろうか。

勉強ができない程度のことで、ひとつの会社内で仕事ができない程度のことで、その人のことを落ちこぼれ扱いし、人としての価値が低いと決め付けるのは絶対におかしいことだ。

 

特に会社において「落ちこぼれる」ことを嫌うメンタリティが様々な問題を生んでいるように思われる。落ちこぼれたくないから限界を超えたノルマに粛々と従い、長時間労働サービス残業をこなし、バカな上司の命令に従ったりする。会社で落ちこぼれてもせいぜいが昇進・昇格が遅れるか閑職に飛ばされる程度のものである。しかし多くのサラリーマンは自分の人間性を否定されたものと感じ、落ちこぼれないように心身をすり減らして働き続けている。

 

一旦落ちこぼれたら二度とは浮き上がれないような社会は不健全な社会である。全く面白みのない無味乾燥な社会である。

あるところで落ちこぼれても、別の場で力を発揮して生き生きとできるような社会こそが多くの人たちにとって生きやすい健全な社会である。

 

落ちこぼれることを殊更に怖れることはない。

たとえ落ちこぼれても、ものは考えようで訳の分からないプレッシャーから解放されることになる。

絶対に落ちこぼれ=人生の敗者ではない。

そもそも人生の敗者なんていないのだ。

 

 

 

 

 

 

  

世の中や人生をナメた生き方は楽しくて面白い件

僕にとって最も大切なものは「自由」である。

完全なる自由など幻想にすぎず、そんなものは存在しないとは分かっている。

自由には責任が伴う。

人は世間のしがらみからは逃れられない。

自由を殊更に強調し、自由な生き方を追求するのは無責任である。

ちょっとだけ自由に生きたいと口にしただけでこれらの言葉が浴びせかけられる。

 

自由になりたい、自分の好きなように生きていきたいと意思表示をすれば、もれなく周囲の人たちから「世の中や人生をなめている」とのありがたい言葉を頂戴することになる。

愚行権」という概念がある。愚行権とはどのように愚かと思われる行為でも他者に危害を及ぼさない限り、認められ尊重されるべきだという考え方である。一見愚かだとみなされる行為でも、その行為を規制してはならなず、できるかぎりその人の自由を尊ぶべきだということである。

世間や人生をナメたような行為はこの愚行権の一種である。世の中をナメたような言動をしても、他者は常識の檻の中に封じ込めるようなことをしてはならないのである。

 

とは言え世の中をナメきったことばかりをしていては周囲の人たちはみんな遠ざかっていく。ものには限度がある。他者から見切りをつけられる手前で止めておかなければならない。

世の良識や常識とのバランスを取りながら、世の中をナメていかなければならない。

例えば「働かずに生きていきたい」というナメた態度を取りたいと思ったら、安易に行政をだまして生活保護を受けようと考えてはならない。人とは違った稼ぎ方をしてみるとか、雇われないで仕事をする方法を考えてみるとか、ヒモ生活をするならばいかに相手を満足させるが努力するといった最低限の自助努力は必要である。

世の中をナメた生き方をするとは、単に怠惰(怠惰が悪いわけではないが)な生活をするのではなく、人とはちょっと違った一見「楽」に見える方法を選択することである。ナメた生き方をしたからといって楽になるとは限らないのである。

 

世間の常識や良識に沿った生き方をしていれば、他者や社会との軋轢を生むことはないし、社会的な信用を得ることができる。

額に汗して働く、苦労に耐える、前向きに生きる、といったことが尊ばれるこの社会ではちょっとだけレールから逸れたり、一見楽に見える生き方をしていると寄ってたかって非難されることが多い。

世間一般で真っ当とされる人たちはちょっとでも世の中をナメているような人たちが生理的に許せないのだ。一部のフリーランス的な働き方をしている人たちやニートに対するバッシングが起こるのは、世間の多数派を形成している人たちの根底にある何かが起動するためである。その「何か」とはナメた生き方をしている人たちに対する嫉妬であったり、勤勉至上主義イデオロギーに基づく嫌悪感であったりする。

愚行権が広く認められた社会、即ち多元的な価値観を認める社会では世の中をナメた生き方をしている人を目にしても、人は人、自分は自分といった感じで放っておいてくれる。他者の有する自由には干渉しないのだ。

残念ながら今のこの社会では愚行権は広く認められていない。

 

それでもやはり僕は世の中や人生をナメた生き方を肯定する。

人生は楽しむためにある、という価値観を僕は譲れない。

ちょっとくらい世の中をナメたような生き方をしたほうが面白いし楽しいと思えてならない。

世の中や人生は甘いものではない、けれども甘いことも多々ある、それだけの話である。

 

 

生活困窮者に「仕事を選ばずに働け」「早く自立しろ」と強いるのは暴力であるという件

僕は自立のための就労支援は必要であり、その理念は正しいと思っている。働ける人は働いた方がよい。

問題はそのやり方である。

生活保護の打ち切りを重視するあまりに劣悪な労働条件や意に反した仕事でも無理に働かせることはあってはならない。

 

そもそも生活保護を受けている人たちは何らかの理由があって働けないのである。杓子定規に年齢が若いから、元気そうだからといったことで就労を強いてはならない。無理やり働かせてもこじらせるだけである。一旦生活保護から抜けてもまた戻ってくるだけである。

 

確かに就労可能な年齢の人たちが生活保護を受給するとなかなか抜け出せないのは事実である。それには様々な理由がある。本人の怠惰のみにその理由を帰するのは誤っている。劣悪な労働環境、例えば低賃金、長時間労働、仕事の内容などにも原因がある。また世間の精神疾患に対する偏見にも問題がある。この社会に存在する歪み、矛盾などから目を背けて、すべてを本人の資質や態度に収斂することは間違っている。何の解決にもならない。

 

生活保護を受給する人たち、特に単身者は自分の居場所がないためにこじらせているケースが多いように思う。

その居場所作りの一環として、有償のボランティアに近い仕事の場を作り、社会とのつながりをもたせるような施策が求められる。

心身にそれほど負担のかからない仕事を創るのである。週に2日でも3日でもよい。一日の労働時間が4,5時間程度のものでよい。小遣いになる程度の額でよい。その貰った労賃は生活保護費から控除はしない。福祉的就労に近いものではあるがそれに限定せずにもっと範囲を広げる。ボランティアと労働の中間的な仕事である。ひとりでやる仕事よりもチームでやるような仕事が望ましい。

そのような働き方によって慣れてもらい、社会とのつながりを得てもらい、将来的に就労に結びつくように誘うのである。ただし強制であってはならない。そのボランティア的な仕事に就かなければ生活保護を打ち切る、といったような強権的な手法は取ってはならない。あくまで本人の自由意志に基づくものでなければならない。

生活保護を受けている人たちに自活・自立を必要以上に強いるのは間違っている。いきなりフルに仕事をしろ、というのは無茶である。身体が弱っている人にフルマラソンを走れというようなものである。

 

ここまで書いてきた内容に対して、「甘やかすな」「人は働くべきものだ」と誹謗する人もいるだろう。

弱っている人たちを甘やかすのが悪いことなのだろうか。

殊更に他者に厳しさを突きつける社会が本当に生きやすい社会なのか。寛容な社会なのか。

人は生きているだけでいい。無条件の「生存の肯定」を認めるべきである。

人は働くべきである、社会に役立つ存在であるべきである、というのはただのイデオロギーである。勤勉至上主義、労働至上主義といった近代以降に形成されたイデオロギーである。その単なるイデオロギーに盲目的に従っているだけである。

 

自分の苦しさの捌け口を弱っている人たちに向けるような行為は愚かである。

市井に生きる人たちが少しばかりの優しい眼差しを困っている人たちに向けることができれば、世の中は変わるはずである。

  

社畜から脱するための第一歩は有給休暇をためらいなく取ることだという件

僕が働きだした頃はバブルのイケイケ時代だったので、長時間労働サービス残業、有給休暇が取れないといったことはさほど大きな社会問題として扱われていなかった。

僕が公務員を辞めて社労士事務所を始めた90年代の半ばごろから労働時間の短縮や有給休暇の取得率向上が唱えられるようになった。当時も今も我が国の労働者の有給休暇の取得率は50%を切る低水準のままである。

 

僕が勤めていた役所は労働組合の力が強くて、当然に有給休暇を消化することを奨励していた。確かに有給休暇をすべて消化する職員もいた。どんな人たちかというと出世を諦めて「遅れず・働かず」といった仕事ぶりの職員だった。当時の僕はそのような職員たちに対して、ろくに働きもせずに休みばかり取りやがって、と冷ややかな目で見ていた。

職場単位では有給休暇の消化を奨励されていたが、僕は常に未消化の有給休暇が残り、なかなか取ることができなかった。それは「休む」ことへの罪悪感があったからだ。自分の仕事が休むことによって滞ることがいやだったたし、適当に働いて休みをよく取るベテラン職員に対する反感もあってできるだけ有給休暇を取らないようにしていた。

 

今から思えば、僕が反感を抱いていたような職員たちのほうが労働者として正しい働き方だったのだと理解できる。きちんと権利を行使する、仕事を私生活に優先させない、といった行動様式は正しいものである。

勤労意欲が薄いくせに人並みに出世の意欲、上昇志向があった僕は社畜の予備軍だったのである。たいした理由もなく有給休暇を取ることは「怠け者」であり「落ちこぼれ」だと思い込んでいたのだ。

 

有給休暇は連綿と続く労働運動の成果であって「強い」権利である。

ノーワーク・ノーペイの原則を覆す画期的な権利なのである。働くべき日に働かずにその日の分の賃金を得ることが出来る、ということはとんでもないことであって、それだけに有給休暇という権利を軽く見ている現在の風潮はどうしようもない。

有給休暇という権利の行使をためらうメンタリティは経営側にとっては喜ばしいことである。短期的な視点からは休まずに働く労働者が多いほど会社の利益になる。

 

有給休暇を取りづらい会社や職場は未だに多数存在する。これは会社や上司のマネジメントの稚拙さによるものである。一人や二人が休んだだけで仕事が回らなくなる職場はマネジメントがなっていないだけで、労働者に責任はない。有給休暇を取らせない、取りづらい雰囲気を作っているということは労働基準法をないがしろにしている以前の問題であって、そんな会社は即刻市場から退場すべきである。

 

有給休暇を抵抗なく取得できるということはまともな会社であるという最低条件である。

また、有給休暇をためらいなく、あっさりと取れるメンタリティを持つことは社畜・会社人間から脱する最初の一歩である。

 

 

 

 

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