希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

「苦労」なんてしない方がよいに決まっている件〈再掲〉

「苦労」すること、それを乗り越えることを賞賛する風潮に僕は違和感を覚える。悪しき精神主義に他ならない。

 

初出 2015/3/26

 

「苦労は買ってでもせよ」という言葉がある。

わりと頻繁に用いられている格言である。

人は苦労を乗り越えてこそ一人前になるという精神論である。

苦労知らずの人は人間としての重みがないともよく言われる。ならば今の総理大臣は全く重みのない人と言うことになる。まあ、実際そうなのだけれども。

 

僕は苦労なんてしなければそれに越したことはないと思っている。

人生のそれぞれの場面で壁に突き当たることがあるが、それを乗り越えることをいちいち「苦労」と呼ぶことに違和感を覚えている。

壁を乗り越えるのに「苦しむ」ことなく、「楽しんで」やればいいと思う。「苦労」ではなく「楽労」である。

 

何事かを為すときにはプロセスを経なければならない。この社会ではそのプロセスを汗水流して苦しみながら克服することが尊いという風潮がある。涼しい顔をしてさらりと克服しても評価されないなんてこともある。

これは悪しき精神論と勤勉至上主義的な考え方にこの社会が毒されていることを意味する。

会社の人事評価にもこの風潮は影響を与えている。本来は仕事の成果・業績のみを評価すべきなのに、意欲ややる気・勤務態度を評価の対象にしている。同じ成果を上げていても、やる気を見せて苦労して成し遂げた者(例えば長時間の残業によって)に高評価を与え、何事もないように達成した者には低評価を与えたりする。これは不条理なことだと僕は思っている。

 

なぜこの社会では進んで苦労をせよという、マゾヒズム的な精神構造があるのか理解に苦しむ。

野球道、茶道、柔道等何でも「~道」にしたがる国民性が関係しているのかもしれない。

ひとつのことを究めることが至上の価値だとする風潮が関係しているのかもしれない。

何でもかんでも精神論で片付けようとする単細胞な輩が跋扈しているからなのか。

 

ある課題があり、それを分析し効率的に解決する方がよいはずである。

無駄な努力や苦労をしない方がよいに決まっている。合理的思考がすべてに勝るとは思わないが、この世はあまりにも非合理的な物事に覆われているように思えてならない。「苦労は買ってでもせよ」というメンタリティはその最たるものである。

 

僕は「苦労」が嫌いだ。

僕は「苦労」なんてしたくない。

苦労人が人格者なんて幻想に過ぎない。

先人の智慧に学び、歴史に学び、人生の谷に至ったときには涼しい顔をしてやり過ごしたい。

 

 

 

  

就職・転職活動のときに労働条件を確認するのは当たり前という件

真偽の程は定かではないが、就職試験の際に労働時間や賃金、残業時間等の労働条件を聞くような人は採用しないという言説が流布している。

特に新規学卒者の就活においてよく語られている。労働条件を聞くような学生は意欲を疑われるらしい。会社としては労働条件を聞くような学生よりも、会社に従順である会社人間予備軍的な学生が欲しいと言うのが本音だろう。

 

よくよく考えてみればおかしな話である。

会社に勤めて働くということは、労働契約に基づくものである。契約であるからその内容を吟味しなければならない。疑問点や不明点などはきちんと確認するのが当たり前である。

働く者にとって労働条件は労働契約の締結にあたり最重要事項である。労働条件を曖昧にしたり、一方的に会社に有利な内容にしたりすることは契約の本旨に悖るものである。

 

面接時あるいは内定の際に労働条件を明示せず、いざ採用となったときに求人票の内容と異なる労働条件を押し付けられるという話はよくあることである。これは一種の詐欺行為に等しい。

会社に疚しい所が無ければ、就職試験や内定の際にきちんと労働条件を明示できるはずである。

 

会社側にしても労働者側にしても、労働条件をきちんと定めて確認する労働「契約」の意識が乏しいのである。

この「契約意識」の欠如がこの国における労働問題の根底に流れている。

 

特に新規学卒者の就活において労働条件を重視する姿勢が忌避されるのは象徴的である。

労働条件にこだわる学生は扱い辛い、仕事に対する姿勢がなっていないとするメンタリティはその会社の労働者に対する意識を表している。労働者は会社の駒や歯車程度の存在なのだ。駒や歯車が意志を持つことなぞ許さないということだ。働かせていただけるだけでありがたいと思え、と言いたいのだ。

 

この国に根付いている「労働至上主義」や「勤勉至上主義」が労働条件をないがしろにする風潮を呼び込んでいる。給料や労働時間や休暇を云々するのははしたないという悪しき風潮である。労働条件に気を向けるヒマがあるなら、その分だけ一心に働けといった具合に。

労働者にとって労働条件の内容は生活を大いに左右する生命線である。会社の経営者だけでなく上司や時には同僚までもが、労働条件にこだわるのは卑しい行為だとの圧力を加えることがある。ブラック企業がのさばるのも頷ける。

 

新卒者も転職者も労働条件を確認するのは当たり前である。それを許さない世間の風潮が間違っているのである。

労働条件を確認するとイヤな顔をするような会社なんかには勤めない方がよい。どこかに疚しい所があるのは必定である。

 

まともな会社は会社側からきちんと労働条件を明示する。

そんなまともな会社が多数派になれば、雇用環境も良くなる、はずである。

 

 

学歴社会批判や公務員バッシングは単なるガス抜きだという件

学歴社会批判や公務員に対するバッシングは相変わらず続いている。

この両者ともに居酒屋談義で済んでいるうちは害がない。

おそらく多くの人は学歴差別を憤ったり、公務員をバッシングして日頃の鬱憤を晴らしているだけなのだ。

 

学歴社会を批判する人は自分の子どもに「有名大学なんて行くな」と言えるだろうか。

公務員に敵意を燃やしている人は自分の子どもに「公務員なんかに絶対になるな」と言い切れるだろうか。

安直な学歴社会批判や公務員バッシングをしている人も、いざ自分(その子ども)のことになると手のひらを返すことになる。

自分の子どもを私学の中高一貫校に入れるのに熱を上げたりしているのではないだろうか。

子どもの就職に関して公務員を勧めたりしているのではないだろうか。

仮に子どもが有名大学に合格したり、公務員試験に合格したりすれば、周囲にそのことを自慢している光景が眼に浮かぶ。

 

このダブルスタンダード的な態度を批判することは容易い。誰もが我が身や身内はかわいい。

他人がいい思いをしているのは許せないが、自分はいい思いをしたい。これは人間の業なのだ。

 

一流と言われる大学に入るのも、公務員になるのも原則としては試験に合格する必要がある。これが家柄や資産等によって合否が決まるのならば、あるいは世襲ならば大いに問題がある。しかし、両者共にある程度の受験資格はあるが公正に門戸は開かれている。実力や能力、勉強量が物を言う世界である。

あえてゴーマンな言い方をすれば、有名大学に入れなかったのも公務員になれなかったのも、実力(学力)や努力が足りなかっただけなのである。

もちろん一流大学に入ったり公務員になることだけがより良い人生を送るための条件ではない。公務員なんて数多ある仕事のうちのひとつに過ぎない。有名大学を卒業したからといって、良い人生を送れるわけではない。

 

おそらく、大半の人たちは学歴社会批判や公務員バッシングを本気でやってはいない。

一見利権を享受していると見える高学歴者や公務員に対する嫉妬や憧れが綯い交ぜになって、バッシングせずにはいられないのである。

確かな信条や信念があってのものではない。

高学歴者が集う有名企業や公務員の不祥事が起きるとそれらを叩くのはある意味当たり前のことだし、健全なことである。

 

学歴社会や公務員をバッシングする人たちはその考えを徹底していない。

何か事が起こるとか、自分に不利益がもたらされたときに付和雷同する。

本気で学歴社会を壊そうとか、官僚制を破壊しようなどとは考えていない。

 

適度な学歴社会や公務員へのバッシングは不満が鬱積した庶民のガス抜きなのである。

ただし、そのことで「巨悪」から眼を逸らされてはならない。

 

  

重大な雇用問題は中高年の人たちの働く場の確保だという件

転職35歳限界説というものがある。

35歳を過ぎてからの転職は待遇が悪くなるし、そもそも転職自体が難しくなるという説だ。

だからこの説が正しいということになると、ある程度の年齢に達したら今いる会社にしがみつくしかなくなることになる。しかしそこは「安住の地」ではない。常にリストラ圧力に晒されながら働き続けねばならないケースもある。また、出世を諦めているのに、骨身を削って働き続けることを強いられることもある。

 

中高年の人たちの転職が難しいのは従来からある年功賃金的な縛りがあるからだ。例えば45歳で転職するとなると、一定規模以上の会社では管理職での採用が多くなる。この管理職自体が余っている状況なので、外部から管理職を登用する求人数の絶対数がかなり少ない。また給与額が高額になるためにかなりの厳選採用となる。ほとんどの中高年求職者は仕事にあぶれることになる。

これは役職のない社員の採用であっても同様である。年功的な賃金体系では年齢が高くなると給料もそれにつれて高くなるからだ。ならば中高年よりもスキルが低い若年者を低賃金で雇う方が会社にとって都合が良いことになる。

また、中高年の人たちを雇うと、その上司が年下になる場合がある。これも日本の会社は好まない。他にスキルがありすぎても扱いにくいし、他社の色に染まっていても使いにくいということもある。

 

日本の会社では大半が「人に仕事が付いてきて、人に値札(給料)が付いてくる」という特徴がある。中高年の人たちの転職が難しいという根本的な理由がそこにある。

逆に「仕事に値札(給料)が付いてくる」という職務給的な賃金システムならば、原則として年齢は大きな要素にはならない。営業や経理等のある職種についての職歴やスキルが重要視されるから、場合によっては中高年の人たちの方が好ましいことになるかもしれない。仕事に給料が付いてくるので、年齢が高いからといって給料がそれにつれて高くなることもない。同じ給料ならば、若年者よりも中高年者を雇おうというインセンティヴが会社に働くことにもなる。

ただこの職務給的な人事賃金システムでは、若年者失業が増加するというデメリットもあるのが問題となってしまう。

 

属人給的なシステムと職務給的なシステムの双方にそれぞれ一長一短がある。

労働市場では双方が並立して存在し、働く人たちが自分の適性や労働観・人生観に応じて選択できる柔軟なシステムにすれば多少は中高年者の就職難が緩和されるのではないかと思う。

また会社単位で考えても、出世ラインに乗って働く属人給的システムと出世ラインに乗らない職務給的システムとを並存させるような人事システムを採用する必要がある。

つまり、新規採用時には属人的な総合職で採用されても、途中で自分に合った職種が見つかり、幹部にならなくてもその職種で働き続けるということも可能なシステムを採り入れるのである。このような会社が多くなれば、中高年者の転職が現在よりは容易になると思う。

 

一つの会社で出世を目指して粉骨砕身働くという生き方・働き方のモデルは無理がある。

また、そのひとつのモデル・価値観を強いられる社会では生きづらさを感じてしまう。

人生のある時点で自分の生き方や働き方を見つめ直すこともあるだろう。転職はその際の選択肢のひとつである。

生き方や働き方を変えようとしても硬直化したシステムの下ではそれは難しい。

 

多様な働き方が認められて、自分に合った働き方が選択できるような社会にしないと、未来は暗いと僕は思う。 

僕は「愛国者」である件〈再掲〉

僕は愛国心を持っている。

それは自分が育まれた郷土、人々に対するものである。

国家に忠誠を誓うこととは似て非なるものである。

 

初出 2015/3/16

 

僕はこの国を愛している。

たとえ生き辛い社会であろうと、世間の同調圧力が強かろうと、その他不条理なことが多かろうとも。

生まれ育った故郷、青春時代を過ごした街には格別の思い入れがある。僕という人間を育んでくれた故郷、そしてこの国を愛おしく思っている。

 

愛国心とは郷土愛の延長線上にあるものだと僕は思っている。自分という人間を育んだ風土、人を無条件に受け入れ愛することが愛国心に繋がっていくと考えている。

立派な国だから愛するという訳ではない。たとえろくでもない国であっても、愛国心は育つものだ。

 

僕は国家が愛国心を強制することには断固として拒否する。教育によって愛国心を育んでいこうという流れには断固として反対する。

愛国心は教育によって刷り込みがなされるようなものであってはならない。国家の介入があってはならない。

国家が強要する愛国心は所詮はエスタブリッシュメントを守るという歪な目的のためのものに過ぎない。政財界の偉いさんのために命を懸けることなんて馬鹿げている。僕たちは愛する家族や隣人、故郷のためになら命を懸けてもいいと思えるのだ。

 

愛国心は自然発生的に芽生えるものがあるべき姿である。親から子へ語り継がれるもの、人と人との関わり合いの中で生まれてくるものである。

また愛国心をもてない者に対してもそれを認め、寛容であるべきものである。

 

僕は愛国者であるが故に、愛国心を殊更表に出す政治家を信用していない。その手の輩が言う愛国心に邪なものを感じ取るからである。彼らが言う「クニ」とは自分たちの利権・既得権が享受できるクニという意味でしかない。本当にこの国を愛しているのではなく、自分がいい思いができる国家形態を維持したいだけなのだ。おそらくこの手の輩は有事となった際にはいち早く逃げ出すだろう。

 

僕は愛国者だが、この国のエスタブリッシュメントを守るような「愛国心」など持ち合わせていない。もし、国を守るためにエスタブリッシュメントたちを差し出せと言われたら喜んで差し出す。為政者が変わっても、この国が守られるのならばそれでよい。これこそが庶民のリアリズムであり、庶民が持つ愛国心なのである。

僕の親や祖父母、親族、友人、生まれ育った故郷が守られればそれで十分なのである。

政治家や自称識者が強制しようとしている愛国心などクソくらえである。

 

愛国心を声高に叫ぶエスタブリッシュメントたちに告げる。

僕はお前たちの魂胆は見透かしている。

お前たちの声は全く心に響かない。

庶民をナメるなよ。

庶民をナメると痛い目に遭うぞ、と忠告しておく。 

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