希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

コミュニティ・ユニオンの存在意義は大きいという件

働く者ひとりひとりの力は弱い。

会社から不当なあるいは違法な扱いを受けても泣き寝入りしている人たちが大半である。

たとえ異議申し立てをしても、個人が組織と戦い続けることは困難を極める。

だからこそ、労働者は労働組合を組織して会社・経営者に立ち向かうことになる。労働組合労働組合法によってその地位を保障されている。任意に組織化できるのも大きいメリットだ。労働組合を結成するのに役所の許認可は必要ない。二人以上の労働者が集まって労働組合を結成したと宣言すればよいだけの話である。

 

正社員を中心として組織化された既存の労組はもはや力を失い、その存在意義も危ぶまれている。労組の組織率は20%を切っているし、経営側に労働者の権利擁護を強く要求する労組も皆無となった。労働者の利益代表という当事者能力を失いかけているとさえいえる。しかも、非正規雇用の人たちを排除している組合もある。

 

働く人たちの切なる願い、労働条件や職場環境を良くすることは、やはり労働自身の手によって勝ち取らなければならない。国家の政策に全面的に委ねてはならない。政府に頼りきりではいけない。「権利」の重みが違うのだ。

 

労働運動が退潮している現況において、コミュニティ・ユニオンの役割がクローズアップされる。コミュニティ・ユニオン(地域ユニオン)や合同労組は個人で加入できる労働組合である。パートや派遣社員といった非正規雇用の人たちも加入できる。有名なユニオンとしては東京管理職ユニオン首都圏青年ユニオンフリーター全般労組プレカリアートユニオン等がある。

これらのユニオンは不当解雇やサービス残業代の請求、非正規雇用の待遇改善などの活動を行っている。労働法を守らない会社に対して、法律を守れ、労働者の権利を守れと闘い続けている。個人で要求しても会社は無視するが、ユニオンに加入すれば会社は団体交渉を拒否できない(団体交渉応諾義務が課せられている)ので、交渉のテーブルに着かせることができるのである。団体交渉が不調に終われば、ビラまきや時には争議などの闘争を行う。

 

また多くのコミュティ・ユニオンでは労働問題だけではなく、貧困問題にも取り組んでいる。生活保護の申請に同行しているユニオンもある。

生存のための運動、生活を守るための闘争という労働組合運動の原点回帰をしている。「生きるため」の運動という側面が強い。

 

また、ユニオンは労働者の「居場所」づくりも目指している。孤立しがちな労働者(特に非正規雇用の人たち)の居場所としての役割を果たすことによって、労働者自身の存在意義を確認し、また精神的な安定をもたらそうとしている。

 

コミュティ・ユニオンの存在意義は、弱者であっても連帯して声を上げ続けることによって、少しでも労働環境が変わること、社会が変化することの突破口になり得るという点にある。事実少なくない数の成果がもたらされている(キャノンやグッドウィルフルキャストの例など)。

 

虐げられた人たちの数少ない味方であるコミュティ・ユニオンに僕は期待を寄せている。

僕も以前に不当解雇されてコミュティ・ユニオンに加入して闘った経験がある。今の職場はユニオン・ショップ協定(その会社の組合員でなければ雇用されないルール)があるので仕方なく職場の組合に加入したが、できればコミュニティ・ユニオンに加入したかったのだ。

個々のコミュティ・ユニオンの力はまだまだ小さい。その財政基盤も弱いユニオンが多い。

しかし、その存在意義は大いにある。

 

今の劣悪な労働環境を改善し、会社側の横暴にブレーキをかけるためには、政府の規制を待っているだけでは駄目だと思う。

コミュティ・ユニオンの「個別突破」の積み重ねを糸口にして、働く人たちの権利や尊厳が守られなければならない、と僕は思う。

 

  

政治家が無能で無責任なのは有権者に責任はない件

政治家たちの政策の失敗や不祥事が起こると、それらの政治家を選んだ有権者に責任がある、と物知り顔で言う輩がいる。古館伊知郎がその代表である。まあ、古館は電波芸者に過ぎないので看過しても構わない。

 

政治家たちの無能・無策・無責任さは政治家自身の責任のみを問うべきである。

国民の代表として選挙で選ばれたからには、国民の生活を守りあるいは向上させることが最も重要な責務であることは言うまでもない。

僕たちは積極的であれ消極的な理由であれ、ある候補者を国会議員(あるいは地方議員)に選んだのは、国政や地方政治をその人に託したからである。

政治を執り行う「役割」を与えたともいえる。

決して既得権や特権を与えたわけではない。

政治家たちは選挙民に選ばれたことの意味を噛みしめて、職務に誠実に責任を持ってあたらなければならない。

もし、政治家が無能であり、無責任であり、不誠実ならば即時に辞めるべきである。不祥事を起こしたときにはそれまで受け取った議員歳費を返すべきである。国民・住民の代表とはそれほどまでに重責を負うものなのである。それが故に政治家自身の出処進退は厳格にすべきであり、責任を一身に背負うべきものである。

 

政治家の不祥事や無為無策有権者の責任にすれば、政治家自身の責任がぼやけるおそれがある。また、有権者が責任を負ういわれもない。戦後すぐに「一億総懺悔」なんてことがいわれたが、そのメンタリティは誤っているし愚かでさえある。

有権者には政治家の資質を見誤った道義的責任が少しばかりあるとは思うが、責任の第一の所在は当該の政治家にある(ほぼ全責任がある)。

 

この国は、この社会は社会的弱者に自己責任を押し付けても恥じないような国であり社会である。社会的弱者が困難な状況に陥っているのは社会構造の矛盾や問題にあるにも関わらずである。

翻って何か問題があると真っ先に責任を負うべき政治家には自己責任が強く問われるべきである。しかし、現実にはそうはなっていない。

責任を問われるべき面々がいつまでもその地位に居座っている。

見識があるといわれるコメンティーターや学者や評論家といった連中は、「有権者の責任」というコメントを垂れ流し続けている。その無責任なコメントが無為無策で無能な政治家を延命させている。

僕たち有権者は代表者を選ぶ権利(間接的に政治に参加する権利)があるのであって、政治的責任を負ういわれはない。有権者の責任を云々したいのなら、直接民主主義システムを採用すればよい。

 

有権者責任論は政治家の自己責任を不問にし、無責任体質を助長することにつながる。

ただし、有権者は無能な政治家を排除する役割を負っていることは確かである。その意味においては有権者にも責任はある。

僕たちは安易に世襲議員や官僚崩れや三流タレントを選んではいけない。冠婚葬祭や町内会などにこまめに顔を出すだけの候補者を選んでもいけない。これは、と思う候補者がいなければ(このような場合が多い)少しでもまともな候補者を選ぶようにする。

この程度の心構えが有権者の責務である。

 

バカな政治家がいればどんどん落とす。

そうなれば、バカな識者やコメンテーターにとやかく言われる筋合いはなくなる。

 

 

 

 

時には腹黒く生きていこうという件

この社会では建前と本音を使い分けることが一つの処世術となっている。人間関係を円滑にするためには思ったことをそのまま口にしてはいけないのだ。

時として、この本音と建前を使い分ける態度が国際社会では通用しないと批判される。もっと思ったことを主張すべきだとの声もある。

日常生活の場においても、本音をぶつけ合う関係性を築くべきだとの論もある。芸能界でも、本音を吐く人たちが毒舌キャラとして人気を得ている。

 

本音と建前を使い分けていると、「腹黒い」と揶揄されることもある。もちろん褒め言葉ではない。むしろネガティブなイメージで語られることが多い。

 

僕もかつては本音と建前を使い分けることが苦手で、それが嫌だった。おかげで上司に反抗的な態度を取り、意に沿わない部署に飛ばされたこともある。

 

フリーランスとして仕事をしてきたことと年齢を経ることによって、僕は確実に「腹黒い」人間になった。今の職場で僕は素直で物分りの良い人物を演じている。その方が人間関係や仕事がスムーズにいくからだ。理不尽な要求をされても、ニコニコして応えている。心の中では相手に罵声を浴びせかけながら。このような行動が苦もなくできるようになっということは人間的に成長している証だと僕は思っている。

 

別の言い方をすれば「割り切る」こととなる。

職場では別に自分らしさを無理して出すこともないだろうと割り切っているのだ。与えられた仕事をそつなくこなし、あるいは望ましいと考えられている人間像に自分を近付けてそれを演じていればいいと思っているのである。仮初の仮面を被り、周囲に溶け込んでいく。この手法を取れば、意外とストレスを感じない。本来あるべき自分の姿とのギャップを感じることがないからだ。一定の場所、一定の時間だけある人物像を演じ続けているだけに過ぎないと納得できるからである。

 

このことは労働契約の本質に近いものだともいえる。僕は会社に労働力(スキルと時間)だけを提供するのであって、人格までも支配下に置かれる訳ではないということだ。

 

僕は今の職場では「腹黒い」人間であることを徹底しようと思っている。

女性の多い福祉業界の職場では最も適した処世術だからである。

本音を出せる関係性を持つのは学生時代からの友人たちだけで十分である。

 

腹黒さを持つことは、現在の劣悪な労働環境下で働く者にとっての対抗手段のひとつになるのかもしれない。会社から強いコミットメントを求められれば、表面上はそれに従う姿勢を見せて演じ続ける。決して全人格を隷従させてはならない。

自分というものを保ち続けてさえいれば悲劇的な末路を辿ることもない。

 

「腹黒い」自分を作り上げるということは、したたかに生き延びる術である、と僕は思う。

  

「決められた人生」に抗っていきたい件

多くの人は自分の人生は己自身で決めていると思っている。「自己決定」の結果だと思い込んでいる。

果たして本当にそうなのだろうか。

時には疑いの眼差しを向けてみることだ。

 

僕たちは多かれ少なかれ親や世間の言いなりになっている。あらかじめ、あるべき生き方を決められている面がある。

世間の常識や良識に沿った生き方を押し付けられている。親や世間によって自分の人生の幅が狭まっていることが忘れられている。

 

大多数の親はこどもに「真っ当」に生きて欲しいと願っている。ここで言う「真っ当な」とはかなり狭い意味になっている。典型的なものは会社(できれば大企業や有名企業)に正社員として、あるいは公務員になって大過なく勤め上げて欲しいという願望である。

僕たちはこの親の願望や世間の常識・良識を幼い頃からずっと刷り込まれ続け、それに疑問を持つものなら異端者扱いされてきた。そして、知らず知らずのうちに「決められた人生」を歩むことになっていく。正社員として働き、結婚し、子どもが生まれ、長期ローンで家を買う・・。定年までは馬車馬のように働き、定年後は孫の相手をして、たまに旅行なんかして、そうこうしているうちに人生の終焉を迎える。世間ではこのような生き方を「良い人生」だとしている。

 

僕はどのような生き方をしても良いはずだと思っている。典型的な中流的な生き方も良いと思うし、世間的には眉を顰められるレールから外れた生き方でも良いと思う。

たとえ「決められた人生」のような型に嵌った生き方でも、本人がそれを幸せだと感じれば他人がどうこう言う筋合いのものではない。

要は当の本人の人生観や価値観に関わるものであるから、部外者はあれこれ口出しできないものである。

同様に自由に奔放にアウトロー的に生きても、こちらも当人の人生観に関わるものだから、他者は口を挟むべきではない。

 

僕は幼少の頃から「いい子」を演じていた。まあ、時には不登校をしたりして小さな爆発を起こしていたが、レールに乗った生き方をしてきた。

大学を卒業して地方公務員になったまでは良かったのだけれども、そこで「目覚めて」しまい、今のようになってしまった。

型どおりの「決められた人生」的なものに違和感を覚え、よせばいいのに「自由」を求めだしたのだ。世間のしがらみから離れたいと切に望むようになった。

 

もう今更、自分の生き方を変えようとは思わない。僕の価値観や人生観が間違っているとも思っていない。そもそも人が持つ価値観に正しいも間違いもない。

僕はこれからもずっと「決められた人生」的なものに抗っていきたい。

「自己決定」は本当に「自己」で決定しているのかという件〈再掲〉

僕たちは本当に自己決定をしているのだろうか。

「自己」で決定していると思い込んでいるだけではないだろうか。

自己決定を絶対視してはならない。

 

初出 2015/3/12

 

僕たちは何事かをなすときにすべては自分の判断で自分で決定していると思っている。

現代社会ではこの「自己決定」が正しいこととされている。

例えば福祉の領域。

介護保険法や障害者自立支援法によって高齢者や障害者の「自己決定」が尊重され、自分で好きなサービスを受けることができる建前となっている。従前の行政による措置制度では高齢者や障害者の意向よりも行政の意向が重視されていた。

現行制度の理念や趣旨は正しい。

しかし実際の運用は必ずしも理念通りにはなっていない。認知症の高齢者や知的障害者は判断能力が怪しいと見られ、家族やケアマネの意向が通ることが多々ある。

 

医療の領域でも、近年は「インフォームド・コンセント」が重視されている。病状や治療方法、病気そのものの説明を医師が行い、患者は自己決定によって治療法を選択することになっている。

しかし、医師と患者では病気に対する知識や情報量には雲泥の差がある。結局は医師任せになったり、医師の都合の良い治療法に誘導される危険性がある。

 

福祉の領域でも医療の領域でも、利用者や患者の自己決定に基づく処遇が必ずしもなされない虞がある。

 

そもそも「自己決定」が本当に絶対的に正しいものなのか疑問が残る。

ある人が「自己決定」によって物事を判断し実行すれば、その結果がどうであれすべては本人の責任だと突き放す口実になる。

例えばニートや引きこもりになった人たちに対して、自己決定の結果そうなったのだから、自分で何とかしろとなってしまう。

そう、タチの悪い自己責任論に通じてしまうのだ。

医師の誤った治療法を自己決定で選択したのだから、本人がすべて悪いということにもなりかねない。

 

人はすべてのことを「自己決定」できるほど賢明で強いものなのだろうか。

僕は違うと思っている。

周囲の空気や周囲の言葉に右往左往するのが現実の姿である。

このような「自己決定」を絶対視する態度は人間観が欠如していると思われてならない。

 

確かに僕たちは自分自身の力で行く道を選択しなければならない。

自分で判断する基準となる知識や情報を己の手で取得する必要がある。

時と場合によってはそれらはかなり酷なことになる。

時と場合によっては「自己決定」ができないこと、「自己決定」をすべきではないこともある。

 

僕たちは自己決定に潜む危険性をあらかじめ知っておく必要がある。

自己決定がすべて本当に自分だけの判断で決定しているのかを疑ってかかる態度を持たなければならない。

 

自己決定を絶対視することで他者の責任回避の免罪符となってはいないか、よくよく考えないと悪質な自己責任論と化してしまう。

  

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