この社会では建前と本音を使い分けることが一つの処世術となっている。人間関係を円滑にするためには思ったことをそのまま口にしてはいけないのだ。
時として、この本音と建前を使い分ける態度が国際社会では通用しないと批判される。もっと思ったことを主張すべきだとの声もある。
日常生活の場においても、本音をぶつけ合う関係性を築くべきだとの論もある。芸能界でも、本音を吐く人たちが毒舌キャラとして人気を得ている。
本音と建前を使い分けていると、「腹黒い」と揶揄されることもある。もちろん褒め言葉ではない。むしろネガティブなイメージで語られることが多い。
僕もかつては本音と建前を使い分けることが苦手で、それが嫌だった。おかげで上司に反抗的な態度を取り、意に沿わない部署に飛ばされたこともある。
長年フリーランスとして仕事をしてきたことと年齢を経ることによって、僕は確実に「腹黒い」人間になった。今の職場で僕は素直で物分りの良い人物を演じている。その方が人間関係や仕事がスムーズにいくからだ。理不尽な要求をされても、ニコニコして応えている。心の中では相手に罵声を浴びせかけながら。このような行動が苦もなくできるようになっということは人間的に成長している証だと僕は思っている。
別の言い方をすれば「割り切る」こととなる。
職場では別に自分らしさを無理して出すこともないだろうと割り切っているのだ。与えられた仕事をそつなくこなし、あるいは望ましいと考えられている人間像に自分を近付けてそれを演じていればいいと思っているのである。仮初の仮面を被り、周囲に溶け込んでいく。この手法を取れば、意外とストレスを感じない。本来あるべき自分の姿とのギャップを感じることがないからだ。一定の場所、一定の時間だけある人物像を演じ続けているだけに過ぎないと納得できるからである。
このことは労働契約の本質に近いものだともいえる。僕は会社に労働力(スキルと時間)だけを提供するのであって、人格までも支配下に置かれる訳ではないということだ。
僕は今の職場では「腹黒い」人間であることを徹底しようと思っている。
女性の多い福祉業界の職場では最も適した処世術だからである。
本音を出せる関係性を持つのは学生時代からの友人たちだけで十分である。
腹黒さを持つことは、現在の劣悪な労働環境下で働く者にとっての対抗手段のひとつになるのかもしれない。会社から強いコミットメントを求められれば、表面上はそれに従う姿勢を見せて演じ続ける。決して全人格を隷従させてはならない。
自分というものを保ち続けてさえいれば悲劇的な末路を辿ることもない。
「腹黒い」自分を作り上げるということは、したたかに生き延びる術である、と僕は思う。