希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

「役立たず」と誹られても堂々としていればよい件

人を罵倒する言葉は沢山あるが、「この役立たず!」というフレーズはぐさりと心に刺さるものである。

人や社会の役に立ってない、と言われると自分のアイデンティティを危うくするおそれがある。役立たずはこの世に存在してはいけないのかと思い悩んでしまう。

 

僕は思う。

全く社会の役に立ってない人って本当にいるのだろうか?

仮に役立たずの人がいるとして、その役立たずは社会に存在してはいけないのだろうか?

 

実際に役立たずかどうかの判断基準は絶対的なものでなく、曖昧な主観的なものになりがちである。分かりやすい指標としては、経済的な価値を生み出す人が有益な人であり、それを生み出さない人が役立たずとみなされる。

分かりやすい例としてニートが挙げられる。ニーとは一般的に役立たずの典型的な例として取り上げられることが多い。確かに働いていないニートはその点では社会の役に立っていない。しかし、ニートも消費活動をしている。その点においては十分に社会の役に立っている。引きこもりの人たちについても同様のことがいえる。

労働至上主義や勤勉教が蔓延るこの社会では、働いていないということだけで即役立たずのレッテルを貼られてしまう。ならば働くことができない障害者や高齢者や心身の病気に罹っている人たちはすべて役立たずになってしまう。この考え方は非常に危険である。極端な話にはなるが、ナチスホロコーストにも繋がる虞もある。ナチスユダヤ人だけでなく、国家の役に立たない存在として精神障害者身体障害者、ロマ人をガス室送りにした悲惨な歴史的事実がある。

 

この社会において、ナチスのような極端なことはしなくても、障害者やニート引きこもりなどを社会に役に立たない存在として排除することになるかもしれない。その可能性は十分にある。

 

そもそも人を社会に役に立つ存在かそうでないかで判断すること自体が間違っているのではないだろうか。その判断基準を経済的な面だけでなすことは愚かなことだとも思う。

例えば兵器を製造する会社や武器商人は莫大な富を生み出すが、その兵器・武器は多くの人の命を奪い兵器の製造と販売は究極の反社会的行為であり、全く社会の役に立っていないといえる。しかし実際は軍需産業のトップはエスタブリッシュメントと強く結びついている(あるいは自身がエスタブリッシュメントになっている)。まさに欺瞞である。

 

仮に世間から役立たずと見られたとしても、全く自分を卑下することはない。

役立たずとのレッテルを貼られても、堂々と生きていけばよい。

 

社会に役立っているかどうかなんて、実ははっきりと分からない曖昧なものなのだ。

いや、すべての人たちは何らかの役に立っている存在である。障害者であろうとニートであろうと犯罪者であろうと。

人間の存在意義を役に立つかどうかで判断することは実に薄っぺらなものである、と僕は思う。

 

 

 

 

 

  

生活保護を受けている人たちにいきなり自活できる仕事をしろというのは無茶である件

僕は自立のための就労支援は必要であり、その理念は正しいと思っている。働ける人は働いた方がよい。

問題はそのやり方である。

生活保護の打ち切りを重視するあまりに劣悪な労働条件や意に反した仕事でも無理に働かせることはあってはならない。

 

そもそも生活保護を受けている人たちは何らかの理由があって働けないのである。杓子定規に年齢が若いから、元気そうだからといったことで就労を強いてはならない。無理やり働かせてもこじらせるだけである。一旦生活保護から抜けてもまた戻ってくるだけである。

 

確かに就労可能な年齢の人たちが生活保護を受給するとなかなか抜け出せないのは事実である。それには様々な理由がある。本人の怠惰のみにその理由を帰するのは誤っている。劣悪な労働環境、例えば低賃金、長時間労働、仕事の内容などにも原因がある。また世間の精神疾患に対する偏見にも問題がある。この社会に存在する歪み、矛盾などから目を背けて、すべてを本人の資質や態度に収斂することは間違っている。何の解決にもならない。

 

生活保護を受給する人たち、特に単身者は自分の居場所がないためにこじらせているケースが多いように思う。

その居場所作りの一環として、有償のボランティアに近い仕事の場を作り、社会とのつながりをもたせるような施策が求められる。

心身にそれほど負担のかからない仕事を創るのである。週に2日でも3日でもよい。一日の労働時間が4,5時間程度のものでよい。小遣いになる程度の額でよい。その貰った労賃は生活保護費から控除はしない。福祉的就労に近いものではあるがそれに限定せずにもっと範囲を広げる。ボランティアと労働の中間的な仕事である。ひとりでやる仕事よりもチームでやるような仕事が望ましい。

そのような働き方によって慣れてもらい、社会とのつながりを得てもらい、将来的に就労に結びつくように誘うのである。ただし強制であってはならない。そのボランティア的な仕事に就かなければ生活保護を打ち切る、といったような強権的な手法は取ってはならない。あくまで本人の自由意志に基づくものでなければならない。

生活保護を受けている人たちに自活・自立を必要以上に強いるのは間違っている。いきなりフルに仕事をしろ、というのは無茶である。身体が弱っている人にフルマラソンを走れというようなものである。

 

ここまで書いてきた内容に対して、「甘やかすな」「人は働くべきものだ」と誹謗する人もいるだろう。

弱っている人たちを甘やかすのが悪いことなのだろうか。

殊更に他者に厳しさを突きつける社会が本当に生きやすい社会なのか。寛容な社会なのか。

人は生きているだけでいい。無条件の「生存の肯定」を認めるべきである。

人は働くべきである、社会に役立つ存在であるべきである、というのはただのイデオロギーである。勤勉至上主義、労働至上主義といった近代以降に形成されたイデオロギーである。その単なるイデオロギーに盲目的に従っているだけである。

 

自分の苦しさの捌け口を弱っている人たちに向けるような行為は愚かである。

市井に生きる人たちが少しばかりの優しい眼差しを困っている人たちに向けることができれば、世の中は変わるはずである。

 

仕事に対してプロ意識を持つ必要はない件〈再掲〉

どんな仕事にもプロ意識を持つ必要があるのだろうか。

多くの場合、プロ意識を持てという言説は会社側経営者側に都合の良いように用いられている気がしてならない。

 

初出 2015/2/24

 

どのような仕事をするにしても、プロ意識を持つことが大切だと説かれる。カネを貰っているのだからプロになるのが当たり前だということである。

この「プロ論」は一見真っ当であると思われる。

高い職業意識・職業倫理を持つことは大切だ。

どのような仕事であってもプロ意識を常に持ち、そのことによって成長する(らしい)。

 

僕は常々この「プロ論」に違和感を抱いている。

単調な仕事、マニュアルに縛られた仕事、日々のルーティン・ワーク等にプロもへったくれもあるものか、と思ってしまう。

ごく一部の創造的とされている仕事や希少な職人技のような仕事、アスリートなどにはプロ論は当てはまる。しかし、普通の労働者が従事するような仕事にまでプロ意識を求めるのは誤っているような気がしてならない。

例えば接客業に関する仕事でプロ意識を強調すると、過剰なサービスが要求され、理不尽な客や利用者のわがままに付き合わなければならない。報酬・賃金と提供する労働の質量との間のアンバランスが生じることになる。

労働者に対する過剰な要求は労働強化や労働条件の劣悪化をもたらす。

極言すれば、労働者にプロ意識を強要することは経営者が労働者を安くこき使うための方便に過ぎない。

 

僕は何度もこのブログで労働者は労働契約に基づいた内容の仕事をこなすだけで十分だと述べてきた。必要以上の自己犠牲・おもてなしの心・自己実現等は全く不要なものである。

プロ意識があろうとなかろうと、労働者は決められた成果を出せばいいのである。

 

プロ意識を重視する考え方は労働の神聖化・勤勉至上主義などと親和性がある。

仕事は人生そのものであり、その仕事をするにあたっては生半可な意識ではダメだとの刷り込みがなされている。

仕事や労働は人生の一部に過ぎない。

多くの人たちにとって、プロ意識を持たないままに一生過ごすことは当たり前のことなのだ。

ごく一部の例外的な人たち(プロ意識を持った人々)を一般化することは馬鹿げている。

 

一般の労働者にプロ意識を強要するのは、経営者の姑息な打算が隠されている。労働者の処遇の水準を現状維持あるいは低くしても、パフォーマンスを上げようとしているのだ。

僕たちは経営者の口車に乗せられてはならない。

ただ、自分自身の資質やスキルを向上させることで自身の利益になることだけに注力すればよい。

 

僕たちは仕事に変なプロ意識を持つことなどない。

会社に利益がいくだけで、ただ「搾取」される量が増えるだけである。

必要なのは「労働者意識」である。

ただの仕事にただの労働にプロ意識だの笑止千万である。 

「やりがいの搾取」なしには介護労働は成り立たない件

僕は幾度もこのブログでケアワークの現状や問題点を書いてきた。僕が経験した範囲のことを書いているので内容に偏りがあるのも承知している。介護業界の惨憺たる実情を放置したままでいると、利用者である高齢者、利用者の家族そしてケアワーカーの当事者皆が不幸になる。

 

僕は今のところ介護保険の利用者ではないし母は元気であり利用者の家族という立場でもない。

現役の労働者の立場で発言をしてみたい。

ケアワークは「感情労働」という色合いが濃い仕事である。モノを相手にするのではなくヒトを相手とする仕事である。しかも相手とするヒトはひとりで生活することが難しい状態である。自力で日常生活を送ることができない人たちである。

食事やトイレ、入浴などの日常動作ができない高齢者を手助けする仕事である。認知症が悪化している人たちもいる。

自分のした行為(介助)の結果がダイレクトに返ってくる仕事であり、利用者やその家族から感謝されることが多く、その点に「やりがい」が見出せる仕事であるといえる。この「やりがい」があるからこそケアワーカーを続けているというケースが多い。

 

ケアワーカーは既婚女性のパートタイマーが多く占める。施設によっては集中的に「主婦のパート」を採用している。人件費が節約でき、かつ「労働者の権利」意識が希薄である人が多いから経営者にとっては好都合なのである。

一方、ケアワーカーの側もただの単純作業ではなく、社会貢献をしているという意識を持つことができる。仕事に「やりがい」があるのだから、低賃金でもよいと自分に言い聞かせている。中にはパートタイマーであるにも関わらず、正社員と同等かそれ以上の働きをする人もいる。多くの施設はそのようなよく働くパートタイマーの存在によってどうにか成り立っている。

 

つまり「やりがいの搾取」によって介護業界はどうにかこうにか成立しているのである。パートタイマーがまともな「労働者意識」に目覚め、待遇改善を要求するようになると即座に介護業界は崩壊に瀕することになる。

介護業界はこれまでも、そして今後もずっと綱渡りを続け、自転車操業を繰り返すことになる。

まともな待遇を労働者に保障しただけで、経営がおぼつかないなんて異常である。

また、僕が実際に見聞きした幾つかの施設では経営者がかなり高額な報酬を得ていた。ある施設では、売上が低迷しているのに経営者の高額報酬はそのままで社員のボーナスを全額カットするということさえやっていた。

介護保険の報酬体系が低水準であることと経営者の搾取が酷いことがケアワーカーが劣悪な待遇を強いられる要因となっている。

 

ケアワーカーに対する「やりがいの搾取」が続く限り、ケアワーカーの待遇は良くならない。介護業界に集う人材の質もますます下がる。それは利用者の不利益となる。大げさに言えば国家存立の危機を招く。

 

福祉・介護の領域に新自由主義的な政策を採り入れるのは過ちである。競争になじまない領域もある。

僕は過度な国家権力の介入はすべきではないと思っているが、時と場合よっては適度な介入も必要である。

ノーマライゼーションの理念を空念仏にしないためにもある程度の公権力の介入は必要である。

利用者の安心・安全の確保、ケアワーカーの待遇の改善、経営者の常識的な利益の確保、いずれかが欠けても制度は破綻する。

 

「やりがいの搾取」という言葉が死語にならなければならない。

「見栄を張る」ことをやめると楽になる件〈再掲〉

僕たちはついつい見栄を張ってしまう。

自分を等身大以上に他者に見せたいのだ。

見栄を張ることで自分の生き方を縛るのは悲しいことだ。

 

初出 2015/2/23

 

自分の家を持つことがステータスだと思っている人が多い。同様に高級ブランドのバッグや服を持つことが自分のステータスを上げると思い込んでいる人も多い。

 

僕は思う。

マイホームを買うのもブランド物を買うのもその殆どが見栄によるものではないのかと。

モノによって他者との差別化を図りたいだけなのだ。自分の存在価値を高額なモノを買えるという事実を世間に見せびらかすことによって確かめているのである。

 

家なんて住めればよいものだ。

所有権が自分にあろうと他人であろうと関係ない。マイホームを持つことは見栄や自己満足に過ぎない。

そもそも自分の家を長期のローンで買うことに合理性は無い。かなりの額の利息を払わなければならない。ローンの返済中に仕事を失うこともある。また、ローンの返済中は銀行等から抵当権を設定され、事実上はその家は銀行のものなのだ。長期のローンを払い終えてやっと自分の家になるが、その頃は家はボロボロになっていてリフォームをしたり、建て直しをしなければならない。

本来は持ち家なんてものは昔のようにカネを貯めて一括払いで買うべきものだと思う。カネ持ちの特権とでも言うべきものである。

持ち家信仰は銀行と住宅メーカー、建設業者と政府が結託して作り上げた幻想である。人々の見栄につけこんで超長期の借金に過ぎない住宅ローンという商品を売りつけているだけなのだ。住宅ローンという借金漬けになって身動きの取れない、生き方を制限されている数多くの人たちが存在する。

 

ブランド物のバッグや服も必要な物とはいえない。見栄や自己顕示欲の顕れである。

服やバッグの機能を果たすモノを買えば済むだけの話である。適正な価格で高品質なモノは探せばいくらでもある。

ブランド品を現金で買っているうちはまだよい。クレジットやローンという名の借金で買い続ける行為は愚かである。クレジットやローンは決済を先送りにしているに過ぎない。立派な借金である。借金をしてまでブランド物を買うということは、見栄と物欲にわが身がとらわれていることである。

 

人は誰しも見栄を張るという行動心理を有する。他者よりも良いモノを持って、自分の存在価値を高めて他者より優位に立ちたいと思っている。

このことを一概に非難することはできないだろう。人が元来有する本質的な欲求なのかもしれない。

 

見栄を捨てると、とめどもなく溢れていた物欲から逃れられる。

見栄を捨てると、あらゆることから少しばかり「自由」になることができる。

「見栄を張る」ことをやめると肩の荷が下りたように楽に生きられるようになる。

 

僕は「見栄を張らない」生き方をしていきたい。 

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