どんな仕事にもプロ意識を持つ必要があるのだろうか。
多くの場合、プロ意識を持てという言説は会社側経営者側に都合の良いように用いられている気がしてならない。
初出 2015/2/24
どのような仕事をするにしても、プロ意識を持つことが大切だと説かれる。カネを貰っているのだからプロになるのが当たり前だということである。
この「プロ論」は一見真っ当であると思われる。
高い職業意識・職業倫理を持つことは大切だ。
どのような仕事であってもプロ意識を常に持ち、そのことによって成長する(らしい)。
僕は常々この「プロ論」に違和感を抱いている。
単調な仕事、マニュアルに縛られた仕事、日々のルーティン・ワーク等にプロもへったくれもあるものか、と思ってしまう。
ごく一部の創造的とされている仕事や希少な職人技のような仕事、アスリートなどにはプロ論は当てはまる。しかし、普通の労働者が従事するような仕事にまでプロ意識を求めるのは誤っているような気がしてならない。
例えば接客業に関する仕事でプロ意識を強調すると、過剰なサービスが要求され、理不尽な客や利用者のわがままに付き合わなければならない。報酬・賃金と提供する労働の質量との間のアンバランスが生じることになる。
労働者に対する過剰な要求は労働強化や労働条件の劣悪化をもたらす。
極言すれば、労働者にプロ意識を強要することは経営者が労働者を安くこき使うための方便に過ぎない。
僕は何度もこのブログで労働者は労働契約に基づいた内容の仕事をこなすだけで十分だと述べてきた。必要以上の自己犠牲・おもてなしの心・自己実現等は全く不要なものである。
プロ意識があろうとなかろうと、労働者は決められた成果を出せばいいのである。
プロ意識を重視する考え方は労働の神聖化・勤勉至上主義などと親和性がある。
仕事は人生そのものであり、その仕事をするにあたっては生半可な意識ではダメだとの刷り込みがなされている。
仕事や労働は人生の一部に過ぎない。
多くの人たちにとって、プロ意識を持たないままに一生過ごすことは当たり前のことなのだ。
ごく一部の例外的な人たち(プロ意識を持った人々)を一般化することは馬鹿げている。
一般の労働者にプロ意識を強要するのは、経営者の姑息な打算が隠されている。労働者の処遇の水準を現状維持あるいは低くしても、パフォーマンスを上げようとしているのだ。
僕たちは経営者の口車に乗せられてはならない。
ただ、自分自身の資質やスキルを向上させることで自身の利益になることだけに注力すればよい。
僕たちは仕事に変なプロ意識を持つことなどない。
会社に利益がいくだけで、ただ「搾取」される量が増えるだけである。
必要なのは「労働者意識」である。
ただの仕事にただの労働にプロ意識だの笑止千万である。