希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

ヒーローにならなくても、凡人なりの生き方や幸せがあるという件

僕のような凡人は天才的な人物や英雄たちの活躍ぶりを目にしたり耳にすると、その凄さに心を打たれると同時に己の不甲斐なさや普通であることを嘆きがちである。

同じ人間なのになぜこれほどまでに差がついてしまうのだろうかと。

 

歴史に名を残す天才や英雄でなくても、例えば芸能界やスポーツで活躍している人たちに羨望の眼差しを送ることも多々ある。自分に卓越した才能があれば、今よりも素晴らしい人生が待ち受けていたはずだと想像してしまう。他者から賞賛を受け、経済的に豊かになり、社会的な地位も高くなり名声を得ることで、幸せな人生を歩んでいけると考えてしまう。

 

しかしながら、歴史を振り返っても、僕たちの見聞きする範囲で考えても、必ずしも天才的な人物が皆幸せな人生を送っているとはいえない。画家のゴッホなんかは典型的なケースだろう。生存中は殆ど作品が売れずに、生活は困窮を極め、精神にも異常をきたした。ゴッホの作品が高い評価を得るのは彼が死んでから後のことである。

このようなケースは枚挙にいとまがない。

天才であるがゆえに周囲や社会と軋轢を起こすことが多い。凡人は天才を理解できないのだ。生きた時代と自分がマッチしないこともあるだろう。時代が天才に追いつかず、早く生まれすぎたようなケースも多い。

僕の好きな漫画家につげ義春がいる。『ねじ式』『ゲンセンカン主人』『無能の人』など独自の世界観を描いた稀有な漫画家である。彼の才能は一部では評価されていたが、必ずしも商業的な成功には結びついていなかった。つげ義春の半生は貧困との戦いであった。作品を発表している時も経済的には恵まれずに、次第に精神が不安定な状態になる。ただ、皮肉なことに彼が作品を発表しなくなってから再評価され、多くの作品が刊行されるに至り、映画化されたりもして恐らく経済的には恵まれた状態になったのだと推察される。

僕がつげ義春を知った当時、これほど才能に恵まれ、優れた作品を発表しても、経済的に恵まれず、社会に受け入れられず、精神的に追い込まれることもあるのかと暗澹とした思いを抱いた。

つげ義春の人生が不幸だったとは一概にはいえないだろう。しかし、彼の有する才能が十分に報われたのかどうかは疑問である。

 

僕は何も天才が不幸になりがちだということを強調したいのではない。天才と目される人たちで幸せな一生を送ったケースも多い。

幸せになることと才能の相関関係は薄いのではないかと僕は考えている。

幸せかどうかを判断する基準は実に曖昧だ。かなり主観的な要素が強いからである。経済的に豊かになるかどうかが一つの指標にはなるが、絶対的なものではない。社会的な地位や評価、名声を得ることも同様である。

 

天才や英雄たちの残した足跡・実績と幸せな人生を送ったか否かというのは、別次元の話なのかもしれない。僕のような凡人の尺度で、天才たちの価値観や人生観等をはかることは無理があるのだろう。天才や英雄は自分たちの人生が幸せかどうかなんて二の次で、自分たちのなすべきことを最優先に生きていたのだとも考えられる。

 

僕は自分に特別な才能がないことに砂を噛む思いをしてきた。

でも、今は凡人は凡人なりの幸せがあり、生き方があると考えられるようになってきた。

非才ではあっても、非凡となることができるかも、とも考えている。

 

  

僕はあらゆるイデオロギーを信じていない件〈再掲〉

ある特定のイデオロギーを盲信すると視野狭窄に陥る。

絶対的な正義などない、というのが僕の考えである。

 

初出 2015/2/19

 

僕はこのブログで貧困問題や労働問題を取り上げている。だからか僕のことを「サヨク」だと思っている人が少なからず存在する。

僕は特定の政党を支持していないし、特定の政治思想を信奉しているわけでもない。あえて言えば、欧州の社会民主主義の考え方に近い。中道左派だともいえる。資本主義体制に懐疑的ではあるが、それを転覆するような考え方は否定する。

要はできるかぎり個人の自由が認められ、一定水準以上の生活が保障され、ゆとりのある生活ができればよいのである。具体的には労働者の待遇・労働環境を向上し、どのような仕事でも働いていれば余裕のある生活を営むことができるようになることである。同時に失業や病気等で職を失っても、一定レベルの生活が保障される社会を望んでいる。

 

そもそも僕はあらゆるイデオロギーを信じてはいない。マルクス・レーニン主義国家主義民族主義等々「右」も「左」も関係ない。

民主主義や人権も普遍的な真理だとは思っていない。民主主義も人権思想も数あるイデオロギーのひとつに過ぎないと思っている。だから、民主主義や人権を金科玉条にした運動等には大いなる違和感を覚える。民主主義や人権は絶対的な価値のあるものではない。その「仕組み」や「考え方」が使い勝手の良いものだから、相対的に上位価値になっているものだと捉えている。自分の生活を向上するために便利な道具だから使っているのである。

それゆえに、人権や民主主義を錦の御旗にして他国を侵略するような国(アメリカを筆頭に)に対しては、何と傲慢な奴らだろう、何と能天気な奴らだろうと冷ややかな眼で見ている。

 

僕はイデオロギーを信じていないが、自分なりの信条らしきものはある。それは「庶民的リアリズム」とでも呼べる色合いのものである。

貧困問題にあれこれ物申すのは、人として当たり前の生活は誰にでも保障されるべきだと考えるからである。たとえ仕事がなくても、心身の病気や障害があっても、引きこもりだろうとまともに生きさせろと真に思っているからだ。また、カネのあるなしで人の価値を決めるな、と思っているからである。

労働問題に関心を寄せるのは、働いてる人たちの生活を壊すような働かせ方は絶対におかしいと思っているからだ。会社や経営者ばかりが肥え太るのは間違っているし、儲けの分け前を労働者に寄こせと言いたいだけだ。

決して人権というイデオロギーに基づいてのものではない。

 

僕はこれからもずっと「庶民的リアリズム」を持ち続けていこうと思っている。

もしも、現体制に物申すなら、高邁に見えるイデオロギーではなく、僕なりの「庶民的リアリズム」を押し立てていきたい。 

僕は説教するオヤジにはなりたくない件

僕は50歳の大台を目前に控えた「オヤジ」である。

若作りとまではいかなくても、外見は清潔感を保ち「オヤジ臭く」ならないように心がけている。外見だけでなく、内面もオヤジにならないように注意している。

 

僕はかつて若い頃オヤジ的な言説を垂れ流す輩が大嫌いだった。

「苦労は買ってでもしろ」

「俺の若い頃はもっと厳しかった」

「今の若い奴らの考えは甘い」

といった類の俗論を恥ずかしげも無く吐くオヤジ連中を軽蔑さえしていた。

さて、実際にオヤジと呼ばれる齢に達した僕は自分が嫌っていたオヤジの行動様式を決して踏襲しないようにと強く思っている。

 

例えば仕事などで接する若者に対する態度である。僕は自然体で接するように気を遣っている。

変に先輩風を吹かしたり年長者を気取ったりしない。かと言って阿ることもしない。良いところは素直に認めて、悪いところがあれば相手のプライドを傷つけないようにしつつも指摘したりしている。

 

長く生きていると様々な体験をして生きる智慧がついてくる。

また、自分の考えや信念が決して正しいものではなく、「正義」なんて相対的なものに過ぎず、正義を相手に押し付ける行為はとても愚かなものだと分かってくる。

もっと言えば自分が無謬だと妄信し、自分だけの正義を撒き散らす輩は救いようのないバカである。だが、年輩の人でそのような行動を取って周囲から煙たがられている人たちは多くいる。

 

特に説教したがるオヤジは始末に負えない。

自分の偏狭な価値観や正義を疑うような真摯さの欠片も無く、自分が完璧に正しいと思い込んでいる。その底の浅い価値観を押し付け、世間の常識に過ぎないものを過剰に信じて、他人の行動や考えに介入してくる。相手のことを思っての行動ではなく、説教することで悦に入る自己満足以外の何物でもない、というケースが多い。

確かに年長者のアドバイスによって助けられることがある。耳を傾けるべきものも多々ある。でも、あくまで「助言」の範囲である。その助言は相手(年少者)が自分で考え自分で行動を起こすように手助けする程度のものでなければならない。頭ごなしに相手を否定し、自分(年長者)の意に沿うような行為を強いるものであってはならない。

 

僕は絶対に説教するようなオヤジにはなりたくない。

たとえオヤジとなっても、まだまだ未熟であり、成長する余地があると思っている。

もっともっと世の中のあれやこれや、何たるかを知りたいと願っている。

年少者を説教して悦に入っている姿はとても醜悪だ。

僕は絶対の正義など信じず、すべてのものを相対化する態度を取り続けたい。

僕はいつまでも柔軟であり続けたい。

「結果の平等」が悪平等とは限らない件

法の下の平等は現代においては重要なイデオロギーである。実生活の場においても、平等であることが望ましいケースも多い。ワリカンなんて平等主義の最たるものである。

 

資本主義社会・自由主義社会が円滑になるためには「機会の平等」が保障されていることが前提となると語られることが多い。社会の競争に参加するに当たって、スタートラインが同じでなければならないというものである。結果として格差や差別が生じても、機会の平等さえ保障されていれば問題ないという考え方である。

 

しかし、このブログで幾度も言及しているように、現実のこの社会では機会の平等など存在していない。社会的強者が圧倒的な有利な状況で競争がなされているのだ。競争のスタート時点で大きなハンディキャップが生じている。

 

社会的地位を高めたり、安定した生活を営むための手立てとして今も学歴は有効なものである。必ずしも高学歴が幸せな生活を保障するものではないことは僕も分かっている。ただ、一般論として学歴が高い方が社会的地位や安定度の高い職業に就く可能性が高くなることは否定できない。世襲できるような家業もなく、コネもない人たちにとって高い学歴を得ることは、社会的に成功するための第一歩なのである。

どこの大学も高卒資格があれば受験できる。そういった意味では一見「機会の平等」は保障されている。しかし、難関大学ほど入学者の親の収入や資産、職業の社会的地位が高いという傾向がある。つまりカネ持ちほど有利になっているということだ。逆に大学に入ることのできる能力があっても、親が低所得で学費を負担できない場合は、進学を断念するケースも多くなる。こういった事態を回避するためには、給付型の奨学金制度を拡充すること、低所得者の子弟には学費を免除するなどの方策が必要となる。これは「結果の平等」を保障する性質を有するものである。

つまり、機会の平等を保障するためには、時として「結果の平等」を目指すような方策を取り入れることも必要となることを意味する。

学歴が分かりやすい例だと思ったので、つらつら述べてきたが、他の分野でも機会の平等のみに目を向けているだけでは不十分な場合が多いように思われる。

確かに「結果の平等」を重視しすぎると悪平等を引き起こし、社会の活力が殺がれるおそれがある。

完全なる平等なんて幻想であるし、また完全なる平等が実現した社会なんて薄気味悪い。

人は生まれながらに不平等である。

これが厳然たる事実である。

 

ただ、放置しておけない不平等も多々あるのも事実である。平等でなければならないことも多くある(例えば選挙権等)。

 

機会の平等を実現することは最も重要なことであると僕は思う。機会の平等があってはじめて社会の様々な分野での公正さが担保される。

そのためには、ときには、あえて「結果の平等」を志向した施策を取り入れる必要がある、と僕は思う。

 

  

公務員を辞めても「もったいない」ことはない件

僕がかつて地方公務員だったこと、公務員を辞めたことを言うと「もったいない」という反応がとても多かった。

その際にいつも僕は思っていた。

どうして「もったいない」のだろうかと。

 

僕は公務員という仕事に面白さを見出せず、また自分には全く合っていないと判断したために辞めただけの話である。至極真っ当なことをしただけである。今も公務員を続けていれば精神疾患に罹っているか、最悪の場合過労死過労自殺していたかもしれない。

元々勤労意欲の低い僕みたいな奴が合わない仕事を続けるなんてまさに地獄である。

 

そもそもなぜたかが公務員を辞めただけで「もったいない」と思うのか、その思考回路が僕には理解できない。自分に合わない仕事、つまらないと感じる仕事を辞める行為はごく普通のことだと思うのだけれども。

公務員に限らず有名企業を辞めたときにも同様のリアクションがあるが、公務員や有名企業に勤めたら定年まで勤めるべきだとの世間の常識がおかしいのだ。

 

僕は公務員を辞めたことを伝えた際に相手がどのようなリアクションをするかでその人の人となりを判断するようにしている。

相手が何に重きを置いているか、その人の労働観や人生観が透けて見えてくるのである。

相手がサラリーマンだった場合、ほぼ全員が「もったいない」と言い、人によっては執拗に辞めた理由を聞いてくる。僕は大概は面白くなかったからと答えるようしているが、殆どの人は納得しないような面持ちを見せる。ある人は(僕よりかなり年長者)僕に説教を始めた。世の中は甘くないぞ、公務員も務まらない人間は碌なもんじゃないと。余計なお世話である。社畜に説教を垂れる資格なんぞない。

一方、経営者特に起業した人たちは決して「もったいない」というリアクションはしなかった。変わり者で面白い奴だと言われることが多かった。

 

大きな組織に属し、その組織で大過なく勤め上げることが第一だとの価値観を持つ人は、どうも若くして公務員を辞めるという行為が理解できないらしい。中には公務員にならなかったことを後悔すらしている人にも会ったことがある。僕の独断と偏見だが、そんな人は魅力がなかった。これから付き合っていこうとは思わなかった。

 

公務員なんて(あるいは有名企業)数ある仕事のうちのひとつに過ぎない。誰でも(年齢制限はあるが)試験を通ればなれる仕事である。才能なんて必要ないし、家柄や親の資産も当然に関係ない。必要以上に持ち上げたり、あるいは貶めたりすることもないのである。

 

僕は公務員を辞めたことを後悔したことなんてただの一度もない。当然に「もったいない」なんて思ったこともない。

ただ、公務員を辞めた理由を必要以上に詮索されることがうっとおしいだけだ。

 

僕は自分の好きなように仕事をしたいだけだ。

自分の好きなように生きたいだけなのだ。

これらはとても贅沢なことだと思う。

経済的に恵まれなくても、この贅沢をずっと味わいたい。

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