これから書こうとすることは全くの僕の独断と偏見である(もっともこのブログの大半は独断と偏見で成り立っているけれども)。
それは、自社を指して言うときに「ウチの会社」と抵抗なく言えれば、その人は社畜と化しているということである。
多くの人たちは誰かが「ウチの会社」と言ってもさほど違和感を抱かないと思う。けれども、僕はこの言葉にどうしても違和感を抱いてしまうのである。
かつて僕がある政令指定都市の職員をしているとき、その職員の多くが「わが市」とは言わずに「ウチの会社」と言っていたことに強烈な違和感を抱いたことがある。
それは地方公共団体を会社呼ばわりしていたことと、「ウチの」という接頭語をつけていたことによるものである。
僕は在職中は恥ずかしくて、「ウチの会社」なんて言えなかったことを覚えている。
それと嫌だったのは「ウチの会社」と言っているときの職員たちが誇らしげであったことと、その言葉に内在する市民に対する侮蔑感とでもいうべきものが感じられたことである。
僕が在籍した地方公共団体は当時は公共デベロッパーを標榜していて世間から注目されていたが、今は借金まみれで昔日の面影はない。
僕が社労士事務所を営んでいるときにも、時折「ウチの会社」と言うサラリーマンに出会った。その度ごとに僕は違和感を抱いていた。「ウチの会社って、お前の会社とちゃうやろ」「お前はただの雇われ人やろ」と思ってしまったのである。
こんな風に思ってしまう僕はつくづく天邪鬼だと痛感する。
なぜ世のサラリーマンたちは自分が属する会社のことを抵抗なく「ウチの会社」と言えるようになってしまうのだろう。正直なところ、僕にはそのメンタリティが理解できない。単に言いやすいからだろうか。いや、それだけが理由ではない。「ウチの会社」と言っているときのあの独特の表情はそれだけの理由では片づけられない。
会社に雇われて働くということは、労働契約を基にした契約関係に過ぎない。あらかじめ定められた職務に関しての労務を提供し、それに応じた報酬を受け取る契約に過ぎないのである。会社組織に一体となるのではない。
確かにある共同体に属すると、その共同体にコミットすることになり、そこに帰属意識が芽生えることもある。しかしそれは、「個人」あってのものであって、「個」が組織に溶け込み一体となるわけではない。
「ウチの会社」と言うことに抵抗感を抱かなくなるということは、個が組織に溶け込み、自分のロイヤリティを宣言するひとつの指標なのかもしれない。
これも僕の独断と偏見なのだけれども、「ウチの会社」と抵抗もなく言える人は、会社のルールを最優先にすることに何のためらいもない社畜的な人である場合が多い(殊更に社内ルールを持ち出し、それを不磨の大典のごとく取り扱い、そのことに疑問を抱かないような)。
僕は自分が属する会社と適度な距離感を保てないような人が苦手であるし、そのような人は信用しないようにしている。嬉々として「ウチの会社」と言うような人は、その距離感が保てていないとみなしても良いと思っている。
僕は一度として「ウチの会社」と言ったことはないけれども、そのことはとても真っ当なことだと思っている。
しかし、この僕の感覚が世間のマジョリティかといえば、どうも心もとない。
たとえ、マイノリティだったとしてもそれはそれでいい。