僕はもう人生の折り返し地点を過ぎてしまった。
これからは心身の衰えと折り合っていかなくてはならない。
そのための生き方を模索中だが、イメージしているのは下り坂をゆっくりと下りていくといった感じのものである。
初出 2018/9/27
僕は中年のオッサンである。これからは年々体が衰えてくる。右肩上がりの成長は望めないし、またそんな生き方もできない。
死に一歩ずつ近付いているという実感がある。若いころのしなやかさや瑞々しさが失われて久しく、それらを懐かしむ心境に至っている。
僕はもう、上り坂を上り終えて下り坂を下りているのである。
成長至上主義的イデオロギーからすると、僕はもう「終わっている」人間である。
経済成長に資することもなく、カネを稼ぐ力もほぼない。
しかし、僕は「終わっている」とは露ほどにも思っていない。
下り坂をそろそろと下りていると、それはそれで味わいがあるものである。
上り坂では見ることのできない風景を見ることができる。
上り坂では出会えない人たちと出会うことができる。
成長や発展とはまた別の「成熟」を目指して、自分なりの生き方を全うすることができる。
人との無益な競争をしなくても済む。
支えあうことの大切さを知り、共生することの楽しさを知る。
自己実現とかやりがいといった言葉とも無縁となる。
僕は少々「かっこつけ」の面があるので、歳をとっても格好良く枯れたいという願望がある。ぎらつくこともなく淡々としていて落ち着きのある人間になりたい。
年長者であろうが若者であろうが、どのような仕事をしていようが、仕事をしていなくても、社会的地位とか肩書にとらわれずに常に相手をリスペクトできるような人でありたい。
一旦世間での競争から降りてしまうと、「負け犬」だとか「終わった人間」扱いされてしまう。経済成長至上主義や仕事中心主義に毒された人たちからすれぱ当然である。
しかし、それらはイデオロギーのひとつに過ぎない。絶対的に正しいわけではない。
偏った価値観に基づいた評価軸で人を断じるのは愚の骨頂である。
僕は僕の生き方や価値観が絶対的に正しいとは思わないけれども、間違っているとも思わない。僕の価値観を相手に押し付けることはしないが、誰かにその価値観を押し付けられるのを潔しとはしない。
僕の全くの個人的な考えなのだけれども、人生半ばを通り過ぎて、尚も競争に勝ち続けることにあくせくし、右肩上がりの成長を図る営為を続けるのは、何だかはしたないなぁと思ってしまう。上り坂をずっと上り続けるのはかなりしんどいのになぁ、たいへんだなぁとも思ってしまう。まあ、余計なお世話だとは思うけれども。
僕は死を迎えるその日まで、下り坂をそろそろと下りていく生き方を続けていく。
決して悲観することではない。
新しい何かに出会え、それらが楽しさや面白さをもたらしてくれるはずだとの確信がある。
楽観的に過ぎるかもしれないけれども、それはそれで面白いのでいいのである。