希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「学歴なんて要らない」という言説は無責任であるという件

この国の人たちは学歴に関する話題が結構好きである。

学歴不要論にしても、学歴がやはり必要であるという話にしても、結局は学歴に捉われている証なのである。

 

この国の学歴とは知的レベルを担保しているわけでも専門的知識とか学識を担保しているわけではない。受験勉強に耐えうる忍耐力や「努力する能力」を表象する性質のものである。だから実務経験やスキルが未だ無い新卒者を一斉に採用する新卒一括採用が採られているのである。

 

僕は学歴は「ある程度は」必要だとの立場をとっている。

サラリーマン(特にホワイトカラー的な仕事)になるには有名校を卒業している方が相対的に有利となる。アルバイトに就くにしても、大半の会社では高卒以上の学歴を求めている。

いわゆる「普通の」働き方を選択する際には、学歴はあるに越したことはない。

 

たびたび「学歴不要論」的な言説が世間に飛び交うことがある。

学歴を持たない成功者が出ると、その人をモデルケースにして、これからは実力本位の社会になると喧伝されるのだ。あるいは欧米では実力本位・能力主義型のシステムになっていると煽ったりする。

ちょっと調べれば分かることだけれども、日本よりも欧米諸国の方が激烈な学歴社会である。

 

スポーツや芸術等に並外れた才能を持っている人については学歴は関係ない。人より飛びぬけた才能を持っている人たちはその才能を活かす場さえあれば、高い社会的威信を獲得することができる。しかし、それらの「特殊な人たち」のレアケースを普通の人たちに適用するのはあまりにも乱暴なことである。

 

勉強ができること(あるいは勉強し続ける努力をすること)は人が持つ才能のひとつに過ぎない。だから殊更に学歴の獲得だけが有効な生存戦略であるとする考え方は正しいとは言えない。ただ、相対的に社会生活を営む上で有利になるという程度のものである。

かと言って、「学び」を放棄して好きなように生きろ、という物言いはあまりにも粗雑なものである。学歴とは「学び」という営為を続けた結果を表するひとつの指標のようなものである。

学歴と言うものを絶対視するのはどうかとは思うけれども、さりとてそんなものは無駄で不要なものであるという言説も無責任極まりなくて僕は同意できない。

 

近年、この社会では経済的な格差が拡大しているとされている。そのエビデンスも多くの識者によって示されている。学歴獲得においても階層差が顕著になっているともいわれている。高学歴・高収入の親の元に生まれ育った子の方が高学歴になりやすいということだ。逆に階層の低い親は学歴の効用を信じていなくて、結果としてその子は学歴獲得の道が狭まるということである。教育の機会均等が有名無実になりかけているということだ。さらには階級の再生産に教育・学歴が寄与しているのである。

陰謀論的に言えば、この国の為政者やそれに連なる者たちは階級の再生産を強化して階級の固定化を図り、分断統治しやすくしているのではないかということである。

 

学歴を獲得するかどうかは個人の自由である。「学び」を忌避して、学歴獲得から逃避した結果、社会的威信が高くない仕事に就いたり、低収入に甘んじるのは自己責任である、という結論に至ってしまう。果たして、そんな単純な理路で納得していいものだろうか、僕は疑問に思う。

学歴不要論には、それらの疑問に対しての答えは用意されていないことが多い。

「学歴なんて要らない」という言説は、ただの無責任な精神論・感情論ではないか、と僕はついつい穿った見方をしてしまうのである。