希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

カネを稼げるかどうかだけで人の価値を決める社会はどこかおかしいという件

僕はカネを稼ぐ能力に欠けている。それも絶望的に。

資本主義体制下の社会では僕は価値の低い存在であり、無能な人間である。

僕がどんなに性格が良いとか、多少は物知りであるとかなどといった計測不能な事柄で自分の美点を主張しても誰も見向きもしない(あくまで例であって僕は性格が良くはない)。

 

資本主義体制下の社会ではカネを稼いだ者が勝ちの世界である。

だから必然的に拝金主義的な価値観が蔓延することになる。

僕はこの拝金主義的な考え方に違和感を持つけれども、全否定はしない。

何より目に見える価値基準であり、分かりやすい。カネを稼げれば社会の上層にいけるということは生まれや家柄に関係なく誰でも階級上昇できるということだ。学歴も関係ない。僕はメリトクラシー(業績主義・能力主義)によって人が判断されることを肯定している。

 

しかしながら、ものには限度がある。

均一化・画一化された価値観の下で人の価値を決めることに僕は強い拒否感を持っている。

カネを稼ぐ能力は人が持つ様々な能力の内のひとつに過ぎない。

スポーツができる、絵が上手い、音楽の才能がある、勉強ができる等々の色々な才能とカネを稼ぐ能力は等価のものである。

カネを稼ぐ能力に秀でた人を殊更に持ち上げたり、他の分野でも秀でていると思い込んだり、人格者と勘違いしたりしてオピニオン・リーダー的な存在に祭り上げるのはどうかと思う。

普通に考えればカネを稼げるというだけで、その人が何事にも優れているとは限らないのは明らかなことである。

 

カネを稼ぐ能力・才能が優れた特質であるのは確かである。特に資本主義体制下の社会ではそうである。

しかし、人をカネを稼げるかどうかだけで判断することは間違っている。と、何を当たり前のことを言っているのかとツッコミが入りそうだが、この当たり前のことが蔑ろにされているのが昨今の風潮である。

市場経済を疑いもなく信奉し、あらゆるものをカネに置き換える「市場化」や「民営化」に疑いの念を持たずにそれを推し進めることに異議を挟まない人たちがどれほど多いことか。

人を勤めている会社や年収、資産で値踏みしてはいないか、と問われれば多くの人は否定できないはずである。

 

カネは当然に大切なものである。カネを稼がなければ僕たちは生活を維持し成り立たせることはできない。カネがあれば大抵のものは買える。

カネというものを必要以上に崇めるとマルクスの言うところの「貨幣のフェティシズム」に至り、拝金主義に陥ることになる。

 

僕のようなビンボー人ができること、対抗手段としては価値の「相対化」を図ることである。

カネを多く稼げる人はスゴイけど、でもそれ以上でも以下でもないよね、と。

カネは稼げないけれども、すごい人たち面白い人たちはこの世には多くいて、彼らはかけがいのない存在だよ、と。

僕はカネは稼げないけれども、面白い、かけがえのない存在になりたいと強く思っている。