希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「努力をすれば報われる」という嘘を垂れ流し続けるのはやめようという件

僕は「努力をすれば、必ず報われる」というのは嘘っぱちだと確信している。

この一見尤もらしい物言いは多くの人たちを傷つけている。

半世紀の間生きてきて、努力しても結果が伴わないことの方が多いということを痛感している。それが人生だということなのだ。

 

世の中の多くの人たちは知っている。

ある分野で成功に至った要因は、実は運であったり、時の流れに乗っただけであったり、持って生まれた資質によるものであったりで、努力というものは決して決定的な要因ではないということを。

しかし、努力することが良いことだというイデオロギーを否定すると社会の不安定化を招く恐れがあり、権力者やそれに連なる層は困ることになるのである。

 

確かにあることを為そうとするときは努力は必要である。全くの努力なしで社会の上層に達せるのは特権階級に生まれ、その既得権益を受け継いだ世襲の子女だけである。

いわゆる「普通の」家に生まれた圧倒的多数の人たちは何らかの努力を続けなければ浮かび上がることはできない。

 

人は生まれながらにして差がある。それは能力や資質の差であり、生まれた家の社会的威信・資産・文化資本等である。

そして、「努力をする能力」「努力をし続けられる能力」にも差がある。

教育関係者に多く見受けられるが、人の能力は生まれながらに平等であるとか、努力する能力は平等である、という幻想に囚われている。

この平等幻想が「努力すれば報われる」という努力至上主義イデオロギーを蔓延らせるひとつの要因となっている。

 

僕は努力することを全否定したいわけではない。努力やプロセスを放棄してただ気ままに怠惰に生きろという極論には首肯できない。

何事かを為すため、結果を出すためにはそれ相応の努力は必要である。当たり前の話である。

 

ただ、生まれついた家の資産や文化資本の差や、遺伝的に伝えられた資質や能力の差を度返しして、努力を強いる態度はいかがなものかと、ちょっと懐疑的になっているだけなのだ。

繰り返しになるが、残念ながら人は平等に生まれついてないし、差がある。

また、殆どの努力は報われないし、努力をする能力そのものが人によって差がある。

この厳然たる事実を直視しなければならない。

お花畑的に「やればできる」という甘言を投げつけて、後は放置して、その人の意欲を削いでしまう事例があまりにも多い。

 

努力至上主義的イデオロギーはすぐさま自己責任論に結びつく。

結果が出ないのは努力が足りなかったからだ、と個人のみに責任を押し付けることになる。ある人が報われないのは多くは(全てではないが)環境や社会システムの歪みに起因するものである。また、運の良し悪しにもよる。

結果=努力とする思考様式は危険性を孕んでいるものだとの意識を持たないと、思考停止に陥ってしまう。

 

「努力はしなくてはならないものだけれども、それはほんの一部が報われることがあり、殆どは報われない、でもそれで十分なのだ」程度の認識でいいのではないか、と僕は思っている。

努力をする能力がほんの少し欠如していたり、努力を続ける環境に恵まれていなければ、その人に対して無理して努力を強いることもない。

想定する結果を得られなくてもいい。

不完全ながらもそこそこ満足できるような生き方ができればいい。

自分の「居場所」を世間のどこかに確保して、自分の存在意義を認めることができればそれでいい。

このように考えてしまう僕はやはりダメ人間なのだろう。しかし、それでもいいと思っている。