相変わらずこの国では「家柄」に対する幻想がある。
ある人の能力や人格に家柄は関係ない。
家柄に対する幻想がなくならない限り、世襲もなくならない。
初出 2016/2/4
僕は貧困問題に多大な関心がある。行き過ぎた格差についてはこれを是非とも失くすべきだと考えている。
一方で合理的な格差については是認している。
公立学校における習熟度別のクラス分けは一考の余地があるとの考えを持っている。
学歴や学校歴による就活での格差や入社後の処遇の格差は致し方ないと考えている。仕事の上でも能力差、スキルの差による処遇の格差は当然だと思っている。
要するにある領域において発揮された力の度合いによって差をつけるべきだとの考えを持っている。何でも平等が良いとは全く思っていない。適度な競争は必要である。
しかしながら、生まれた家庭、いわゆる家柄による差別・格差は絶対に解消すべきだと強く思っている。
現在の社会は身分制の社会ではない。また階級がはっきりと分かれた階級社会でもない。人々は生まれに関係なく、その能力に応じて生きていくことができる社会であるはずである。
けれども、今のこの国では生まれた育った環境によって人生のスタートラインに大きな差が付き、それを跳ね返すことが極めて困難になっている。世襲を全否定するつもりはないが、世襲を許してはならない領域で世襲が罷り通っている。
僕は芸能の世界や非上場同族会社では世襲も構わないと思っている。他方、政治家や上場企業の経営者は世襲は許されるべきではないと考えている。能力と人格を兼ね備えた者が選ばれるべきである。
よくよく考えてみれば政治家ほど卑しい仕事はない。芸能人崩れや官僚崩れ、政治家のバカ息子、バカ孫ばかりである。最近ではスポーツ選手の引退後の仕事にもなっている。当人の政治理念など無いし、そんなものはお構いなしになっている。
ちょっと話がそれてしまった。
世襲に話を戻そう。
今の総理大臣のアベちゃんなどバカ世襲政治家の権化である。その生まれだけによって今の地位を得た人物である。
ボンボン私立の小学校から大学まで一貫校で過ごし、親のコネで有力企業に腰掛入社。そして親の秘書となり、地盤を継いで世襲議員となる。どう考えてもバカぼんぼんの経歴である。このような能力・資質が疑わしい人物を総理大臣にしなければならない政治家の人材の払底ぶりには目を覆いたくなる。
アベちゃんは生まれや家柄で生き方が決まったという典型的なケースである。
家柄で生き方が決まってしまうことになると、制度上は自由主義・民主主義であっても、実質は階級社会になってしまわないか、僕は心配している。
確かに身分制社会・階級社会が現状の平等社会(理念としての平等だが)に劣ったものだとは一概には言えない。それぞれに良い面と悪い面がある。
しかし、僕はやはり平等社会の方が人としての尊厳が守られる社会だと思う。人は自分の親を選ぶことができない。自分が生まれた家庭環境によって自分の人生が決まってしまうなんてあってはならない。人生は不条理の連続だとは分かってはいても、この生まれによる格差という不条理には到底納得できない。
家柄によって生き方が決まってしまう社会は、人に早い時期に「諦め」を強いる社会である。
僕はもがき苦しみながらも、先を見続ける生き方がしたい。もし、諦めるのならば自分の能力の限界に気付いたときである。それならば納得がいく。
家柄やどのような生まれかによって人生を決められたり、選別されることはやはり不条理であると僕は強く思う。
どんな人でも、人生の選択肢が多種多様である社会を望む。
これはこれで結構辛くて苦しいけれども。