希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

誰かに認められようとすることはもうほとんどやめたという件

多くの人たちは自分以外の他者に認められることを欲している。

「承認欲求」といわれるものである。

この承認欲求が原動力となって、人は何かを為そうとする。

承認欲求が意志や力の源泉となる。

人は自分ひとりのために生きていくことは難しい。

 

学生時代に勉強をやり続けたのは良い成績を取って認められたいと思ったからだ。

働くようになって一生懸命に仕事に取り組んだのはやはり上司や同僚に認められたいと思ったからである。

これらのことは、まあ当たり前と言えば当たり前の話である。ほとんどの人たちはそう思っている。人に認められてこそ一人前という考え方は真っ当なものである。

 

僕は今でこそダメダメ人間ではあるけれども、ちょっと前まではひとりでも多くの人に認められようとしていた。勤労意欲がそれほど高くはないのに、それを自分では認められなくて人並み以上に働こうとしていた。

周囲からは「できる人」だと見られたくて、そう見えるように振る舞っていた。そして、その無理な振る舞いが限界にきてしまった。うつになり、ひきこもりになり、一時自分を見失ったのである。

 

落ち込んだ僕は「肩の力を抜いて」生きていこうと思った。

ところが、いざ肩の力を抜こうとしても、一層肩に力が入ってしまうというジレンマに陥ってしまった。肩の力を抜こうと頑張ってしまったのだ。これでは本末転倒である。自分らしく生きようとしたら、その「自分らしさ」にこだわってしまい、余計に肩に力が入ってしまったのである。

ある時、僕はふと気づいた。自分らしさにこだわるということは相変わらず他人からの評価、他人の目を気にしているのではないかと。

承認欲求自分の中に強く残っているんじゃないかと。

 

もう、人に認められることなんか考えまい、としたところ徐々に肩から力が抜けていった。とりたてて特別なことをしたわけではない。

こんなことをしたら人にどう思われるか、とかこれをしなかったら人からどう思われるか、といった類の思考様式を取らなくなっただけなのだ。

人にどのように思われてもそれで死ぬわけではない、人がどう思おうが僕は僕であると開き直ったのである。「開き直り」の力はなかなか侮れない。

 

承認欲求の軛から解き放たれるのはとても難しいと思う。

こんな僕でも未だに承認欲求を持っている。

なんだかんだ言っても、誰かから認められるのは嬉しいし、人に認められようとする行動を取ってしまうこともある。

僕は承認欲求を失くしたわけではなく、承認欲求ありきの考え方を開き直ることによってマイナーチェンジしただけなのだ。それだけでも随分と生きやすくなった。

 

こんな僕が言えることは誰かに認められることだけを心の拠り所にすることをいったん止めてみては、ということぐらいである。

所詮は他人は自分のことなんかそれほど気にしていない、そんなに見てくれてはいないのだから。