この国ではやたらと努力を尊ぶ風潮がある。
何かあると「努力しろ」だの「努力不足」だのといって責め立てる。
「努力教」という宗教に芯まで浸かっているかのようだ。
何かを成し遂げるためには成功にまで至るプロセスが大事である。やるべきことを考え、そのやるべきことをしっかりこなし後は天に任す。結果が芳しいものではなかったとしても、そのプロセスは無駄にはならない。
このプロセスを「努力」という言葉に置き換えてしまうと違和感が生ずることになる。どうしても努力という言葉には精神論・精神主義的な色合いが付いて回る。この精神主義的な要素が濃くなると努力すること自体が美化され、努力をすれば必ず報われるというなんとも非合理的な信念を生み出すことになる。
冷静になって考えてみるとよい。
努力なんてほとんどが報われない。
身も蓋もない言い方になってしまうが、ある人の能力を超えた結果が生まれることなんて稀なことなのである。設定した目標がその人の能力の範囲内であれば努力は報われることもある。しかしながら、自分の能力の範囲内に収まるような目標設定をすれば「意識が低い」とか「意欲が低い」とか「向上心がない」等々の批判を受けてしまう。かといって高い目標を設定してそれに到達できなければさらなる努力を延々と強いられる。
努力教が絶対のものとして浸透している社会では常に僕たちは急き立てられるように生きていかなければならない。
当たり前の話だけれども、人には向き不向きがある。自分に向いたことに精力を注ぎこんでいると、あまり自分が「努力」しているという意識を持たないものである。健全な努力と言ってもよい。ところが僕たちは自分の向いていることばかりをやっていればよいとは限らない。勉強にしても仕事にしても不向きなことをせざるを得ないケースが多々ある。しかも「成果」をださなければならないケースが多い。
この社会では一般的に自分のウィークポイントをなくすように強いられる。特に会社社会ではその傾向が強い。得意なこと、向いていることをひたすらに伸ばすことが一部のレアケースを除いてなかなか認められない。減点主義的なものの見方をしがちな社会なのである。もっと極論を言えば、突出した美点を持つ人(ただし欠点もある)は異端視され、平均的な人を大量に生み出すことをよしとする均質的な社会である。
均質的な社会を維持するための構成員を「努力」を強いて大量生産する社会なのである。
「努力をした人が報われる社会」にとバカな政治家は言う。
ならば努力しても報われなかった人はどうなるのか。
努力することができない環境にいる人たちどうすればよいのか。
努力教、努力至上主義は空疎な精神論に過ぎない。
努力はほとんどが報われない、というリアリズムを忘れないことが大切なのである。
努力は時と場合によっては当然に必要なものであるけれども、努力が尊くて絶対的なものではない、と醒めた目で見ることが大切である。
また報われない努力も時にはすることが必要だし、その報われない努力こそが生きていくうえで何物にも代え難いものになることがある。