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希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「ものわかりがよい」ことは決して良いことではないという件

僕たちは常に相手を慮って「ものわかり良く」対処することが求められている。

自分の正しさや権利を主張することが憚られるケースが多々ある。正しさや道理が「互いにそこそこ納得する」という空気によってないがしろにされるのだ。

 

相手を慮って、空気を壊すことを忌避することで人間関係を円滑にする。たとえそれが間違ったことであっても(違法行為や道義上の問題があっても)、場の空気を壊さないことのみに専心してなあなあで済ませることが多い。

この事実が無責任体制を生み、また一時の感情に流されて自分の頭で考えずにある方向へなだれを打っていくことにつながる。

 

確かに相手を思いやることは大切なことである。自分の一方的な考えを押し付ける行為はいただけない。しかし、これが度を過ぎると大きな問題を生むことになる。

 

例えばある職場でサービス残業(残業代の未払い)や長時間労働等の法令違反が蔓延していたとする。本来ならば労働者が権利を主張し、労働環境の是正を経営者に求めるべきものである。しかし、大半はそうはなっていない。「今は経営状態が良くないから」「どこもそうなんだ」などと言って「ものわかり良く」現状を放置したままになる。経営状態云々は経営者の責任に帰すべき事項なのに、労働者が経営者の立場を慮って「経営者目線」になって労働者の当然の権利を放棄している。

こんな馬鹿げた話はない。

倒錯した世界である。

ブラック企業がのさぼるのも頷ける。

 

「ものわかりの悪い」人は職場・学校等の集団において排斥される傾向にある。空気を読めよと非難される。同調圧力に晒される。そこでは何が正しいかということは放っておかれ、「みんなと同じ」でないといけないというプチファシズムと化す。

ものわかりの良さが世間をうまく渡り歩く大きな要素となっている。そして、ものわかりの良い人たちは都合よく支配され、都合よく使い捨てられるのだ。

 

ものわかりの良い多数の人たちは、税制の改悪・増税、公費の乱脈な無駄遣い、政治家・官僚の悪政等にあっても仕方がないと諦め、それどころが現政権に一票を投じるという愚行を繰り返す。エスタブリッシュメントの既得権を強化する「構造改革」という名の庶民イジメの政策に賛同する。

自分で自分の首を絞める行為を「ものわかり良く」し続ける。

 

僕はこんな「ものわかりの良い」人にはならないと強く思っている。自分なりの「抵抗」を続けていきたいと心に決めている。

ものわかりの良い人は、結局は何も考えずに大勢に流されるだけの存在に過ぎない。他者に嫌われることを極度に恐れる小市民的な大衆なのだ。

 

ものわかりの良さは決して美徳ではない。

僕は「ものわかりの悪い」人であり続ける。