名経営者と呼ばれる人たちの人生論・労働論は今も昔も花盛りである。
一代で会社を発展させた経営者の言葉には重みがあるのは確かである。
資本主義体制下において会社を大きくして莫大な利益を得るということは「正義」なのである。
ただし、経営者の説く労働観には注意を要する。
なぜならば、彼らの本性は経営側、つまり労働者を搾取する側の人間が有する価値観に基づくものであるからだ。
名経営者とされる人たちはおしなべて労働者の統制の仕方が巧みである。つまらない労働に意味を与え、モチベーションを高める術を心得ている。
経営に参画している錯覚を与え、労働者は一労働者ではない、会社経営の主役だとの幻想を与えている。
しかしながら、労働者に会社経営の権限など一切与えはしないし、非公式にせよ経営に口出しなどすれば「分を弁えぬ奴」として排除される。せいぜいが現場レベルでの業務改善を「自主的」にさせることで、経営に参加しているという錯覚を与えることが関の山である。
尤も労働者の経営参加なんてありえない。
もし、それが許されるのならば、かつての労働者による自主管理経営という左翼運動の一環としてなされた活動が蘇ることになる。
結局は大なり小なり「名」経営者の言う労働観は、労働者としての当事者意識を捨てて、会社のためだけに粉骨砕身働け、人生のすべてを会社のための労働に捧げよ、ということである。
どんなに美辞麗句を並べ立ててもである。
夢を持つことが大切だの、働くことによって成長するだの、仕事で自己実現といった類の言説はいかに労働者をその気にさせ、労働者が気付かぬように搾取するかの方便に過ぎない。
そもそも、たかだか会社を大きくしただけの人たちが人格者だとして祭り上げられ、彼らの言説をありがたがる風潮がおかしいと僕は思っている。
人よりも少しばかりカネ儲けがうまいだけで運がよかっただけで名経営者として神様のように崇める行為は愚かである。
名経営者の著書や講演を市井の無名の経営者が参考にしようとして、著書を手にし講演に足を運ぶことは理解できる。経営者には経営者なりの苦しみや悩みがあり、それを和らげて克服しようとするために経営者の先達の言葉を求める行為を否定すべきではない。
ビジネスマンやサラリーマン、有り体に言えば一介の労働者が経営者の説く経営者目線の労働観を鵜呑みにすることはとても愚かなことである。
「経営の神様」が作った私塾の出身者が政界において一定の勢力を有する現状を僕は憂慮している。たかだか一経営者の理念、それも偏った理念のもとに馳せ参じた者たちを僕は信用できない。
市井の労働者・庶民の切なる願いを踏みにじることに何の痛みも感じない連中だとひしひしと感じるからだ。
経営者の説く労働観を鵜呑みにしてはならない。
エスタブリッシュメントの論理に盲従してはならない。
労働者としての誇りや矜持を忘れてはならない。