希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「みんな」と同じような生き方なんてしなくてもよい件

20代の後半から30代の頃、やたらと結婚を勧められた経験がある。ありがたいことに見合いをセッテングされたり、知り合いの女性を紹介されたりして、僕を結婚という墓場に引きずりこもうとした人たちがいた。

 

40歳を過ぎて僕の結婚しろしろフィーバーは過ぎ去ったが、今でも僕が独身だと告げると「早くいい人見つけんとあかんねー」と忠告くださる方々がいる。

どうも結婚をしていないと一人前とみなされない風潮はこの時代になっても消えていないようだ。

 

僕は結婚なんてしたくはないし、正社員として働きたくない。持家なんて不用だし、老後の心配なんてしていない。

自分の好きなように、自由に生きていって死んでいければ十分だと考えている。社会的地位や名声なんて全く望んでいない。

人生を楽しむことが僕にとっての至上の価値なのである。

 

僕が若い頃は仕事に注力して、高収入・社会的地位や肩書を手に入れることが当然のことだと思っていた。いや、そう思わされていた。ホームレスやニートの人なんて人間のクズだと思っていた。

「みんな」、つまり社会の多数派が有する価値観を疑いもせずに共有し、自分が正しいと思い込んでいた。

 

この国では「みんな」と違うことをすると白眼視される。

「みんな」と異なる意見を言うと排除される。

生き方までもが、「みんな」と同じようにすることを強いられる。

「個の尊重」や「多様性」なんて掛け声倒れのスローガンに過ぎない。

 

よくメディアで個性的な生き方をしている人たちが取り上げられるが、それはレアケースであり興味本位で人々が見るから取り上げられているに過ぎない。多様化が馴染んだ社会であれば、そもそもちょっと個性的な生き方なんて当然のことであってメディアなんかに取り上げられることもない。

 

確かに「みんな」と同じような生き方をしていなければ不安に感じる人も多いだろう。そんな人たちは別に「みんな」と同じようにしていれば良い。ただ、「みんな」と違う生き方を選んだ人に対して自分の狭量な価値観を押し付けることだけは是非ともやめて欲しい。「みんな」と同じようにしろ、という同調圧力も立派な暴力である。

 

自分の選択した道を覚悟をもって(別に覚悟なんて大層なものはいらないと思うが)突き進んでいる人たちに他人がとやかく言う権利はない。それらの人たちの生き方をただ認めるだけで良いのである。

たとえ善意であったとしても、他者の生き方に介入することは愚行である。単なるお節介である。

この国の人たちは他者に冷淡なくせに、余計なお節介は焼きたがる。

「みんな」と同じにさせたがる人たちはおそらく無責任である。自分の意志ではなく、「みんな」を持ち出すことによって、自分が責任を負うことを忌避しているのである。そんな輩の言うことなど聞く耳を持たなくても構わない。

 

「みんな」と同じような生き方をすれば「安定」した生き方ができるなんて幻想だ。

「みんな」とは一歩離れた場所から自分を見つめ直し、「みんな」とは違った生き方をすることで様々な面白いことを見つけることができる。

「みんな」と同じような生き方なんてしなくてもよい。