僕は子どもの頃から天邪鬼である。
みんなと同じことをするのが何となく嫌だった。別に目立ちたがり屋だったわけではなく、信念があったわけでもない。ただ、単にみんなと同じことが面白くなかっただけなのである。
でも、信念があっての行動様式ではなかったので、同調圧力に負けたことの方が圧倒的に多い。学校に通い(不登校はしたけれども)、高校・大学に進学し新卒で就職した。
心の奥底ではみんなと同じことなんてしたくない、と思いながら何となくみんなと同じようなコースをたどって真っ当な大人になろうとした。
僕が勤め人、社労士事務所を営んでいた頃は天邪鬼が薄まっていた時期であった。みんなと同じように少しでも多くのカネを稼ごうとし、社会的地位を上昇させようとあくせくとしていた。
みんなと同じようなことをしていると確かに安心感があった。
意に反したつまらない仕事をしていても、みんなも同じようなものだと自分を慰めることができる。自分だけが特別なのではない、みんなもしんどいのだと逃げ道を用意することができた。
この安心感は「かりそめ」のものに過ぎないと今となってはそう思う。
みんなと同じことをすること、つまりマジョリティに属しマジョリティが向かっている先が正しいとは限らない。
例えば、正社員としてできるだけ大きい会社に勤めるという生き方が絶対的に正しいものではない。結婚をして子を育てることにしても同様だ。「個」として完全に自立し、自己責任の下で生きていくことにしてもそうである。
これらは真っ当とされている生き方であるのは確かであるが、皆が皆そうあるべきであるというイデオロギーと化してしまうと息苦しい社会となる。
僕はみんなと違う方向へ突き進むということは有効な生存戦略である、と今は思っている。
ただ何となく多数派に属し、流れに身をゆだねる生き方は楽には楽であるが、それで幸福感が得られるかと問われれば疑問である。何より面白くない。
みんなと違うことをすると孤独感に襲われることもしばしばあるだろうし不安感から逃れられない。
しかしながら、みんながどっと集まる集団では不毛な競争が延々と繰り広げられるおそれがある。結果、ひとにぎりの者だけが殆どの資源や利益を奪い、残りの大多数の人たちは持たざる者となってしまうということにもなりかねない。
みんなと違う価値観を有し、みんなとは別の領域でなすべきことをなす、という生き方を選択すれば生き延びる確率が高くなるような気がしてならない。あくまで僕の希望的観測に過ぎないけれども。
僕は「かりそめの安心感」と不安感や孤独感がありながらも自分なりに生き延びることができるという生存戦略では後者をためらいもなく選択する。
僕の天邪鬼な性向はずっと変わらないし、変えたくない。