希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「合理的」思考や行動がベストだとは限らない件〈再掲〉

僕は非合理な思考様式を好まない。

なるべくならば合理的に物事を推し進めたいと思っている。

しかし、この世は非合理なことばかりである。

 

初出 2015/7/9

 

僕は子どものころから合理的な考え方や行動をとる傾向があった。

例えば書道教室を1日でクビになった話。

通常書道教室(あるいは学校の授業)では墨は自分の手で磨ったものを使う。僕は市販の墨汁を買ってそれを使おうとした。それを先生に咎められて、僕は「墨を磨る時間があればその分書けるじゃないか」と反論した。この反論に先生は激怒して僕を退場させたのだ。僕は納得がいかず、書道教室には二度と通わなかった。時に小学校2年生。人に歴史あり(?)である。今となっては墨を磨る理由は理解できる。墨を磨ることで集中力をつけ、墨を磨る行為も書「道」の大切な儀式なのだと。まあ、イヤなガキであったことは確かだ。

 

以前のエントリーでもふれたが、僕は公務員時代に配属された部署で残業を減らそうとしたことがある。業務の効率化を図り、前任者が月に100時間の残業をしていたところを10時間程度に減らしたのだ。人件費が削減され、税金の無駄遣いを減らすことができ、僕も早く帰宅できるという良いことだらけだと僕は考えたのである。しかし、上司に叱責され、僕は「仕事をしない奴」扱いをされた。このことが僕が公務員を辞めた理由のひとつとなった。そして、勤め人、特に正社員として働くことがイヤになる大きな原因となった。

 

僕が「合理的」思考のもとでなした行為は他にも沢山ある。他者に受け容れられることもあれば、排斥されることもあった。印象としては後者の方が多かったような気がする。

僕はただ無駄なことを避けようとしただけである。特に仕事では無駄なことを極力排除し、少ない労力でできるだけ大きな成果を上げようと努めただけの話である。しかし、世間では「頑張ったこと」「汗を流すこと」などを尊ぶ風潮がある。ばかばかしい精神論が幅を利かせている。

この手の精神論や「心がけ」という曖昧なものを重宝がる風潮が長時間労働やサービス残業の温床になっているように思えてならない。

 

僕は学習や仕事では合理的な思考をし、合理的な行動を採るが、無駄なことを排除せよ、と思っている訳ではない。

人生において無駄だと思われている事柄はとても大切なことだと思っている。まわり道や寄り道をすることによって見えてくるもの、発見するものが沢山ある。無駄は有意義である。時には非合理的だとみえる行為が何かを生み出すこともある。

 

僕は今までの「合理的」思考や行動を捨てようとは思わない。

しかし、齢50になろうとする現在に至って、非合理的なものの大切さをしみじみと味わっている。