希望の舎―再生編ー

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「家柄」とは単なる幻想に過ぎない件

人が人を差別するときにその根拠となる要素は様々である。

職業であり、性別であり、学歴であり、家柄であり、国籍であり、というように何らかの差異を見つけて、勝手に「あるべき基準」を決めつけてそこから逸れた人たちを差別するのだ。

 

このエントリーでは「家柄」「家格」というものに注目してつらつらと書いていくことにする。

 

そもそも「家柄」とは何なのだろう。

良いといわれる「家柄」に生まれた人たちは優れているのだろうか。他者から賞賛を受けるほどの社会的な価値があるのだろうか。

その答えは簡単に出る。

ある人の出身である「家柄」だけで判断をしてはならないということだ。その人の出自だけで人間としての価値を決めるのは不合理であり、差別につながるということである。民主主義社会、近代市民社会の考え方の基本中の基本である。わが国の憲法にも門地や社会的身分によって差別されないとの定めがある。

人はその出自ではなく、何をなしたか、何をなそうとしたかでその価値を判断すべきだというコンセンサスのある社会なのである。

 

しかしながら、「家柄」という幻想はなお今になってもなくなっていない。家柄だけで総理大臣や国会議員になった政治家は沢山いるし、名門出身というだけでメディアに取り上げられる人も多くいる。結婚の場合でも未だに相手の家柄を見るケースもある。「家柄」に価値を見出す考え方が根強く残っているというのが実情である。

 

「家柄」というものがどのように成立したかを考えてみれば、それがいかに観念的で非合理なものかが理解できる。

良い家柄とは、かつてのエスタブリッシュメント系譜である場合が多い。貴族や武士(大名やそれに準ずる階層)、豪商という支配階級の末裔である。地方では有力な名主・庄屋であることも多い。

しかし、かつてのエスタブリッシュメントも突き詰めて考えれば、歴史のある時点で武力なり経済力をつけてのし上がった者たちなのである。あるいは貴族のように権謀術数を駆使して政治機構の中で力をつけた者たちである。一度手にした権力や地位を世襲して、その基盤を確立しただけの話である。確かにその家の始祖といわれる人たちは並外れた人物だったかもしれない。だが、その始祖の一代の功績をもって、子孫に既得権を持たせ続けるという合理的な根拠にはならないはずだ。そこで、エスタブリッシュメントは「身分制社会」を確固とするための社会システムを作り上げ、自分たちの既得権を永続させようとしたのである。このことは現在のエスタブリッシュメント

の行動様式にも綿々と受け継がれている。

 

「家柄」や「身分」とは、人のエゴによって人為的に作られたものに過ぎないのである。

ある一定層の人たちの利益を守るために、既得権層を固定化しその他の人たちを排除したシステムの中で生まれたのが「家柄」というものである。

 

ただ、僕は「家柄」というものを全否定するものではない。僕は「伝統」は大切にすべきだと考えている。伝統という文脈で語られる家柄であればあってもよいと思う。

ただ、「家柄」という一事で人を選別したり、人の価値を決めたり、人を排除することがあってはならないと思っている。

 

ある人の出自がいかなるものか、その本人には全く責任のないものだ。

どのような家柄に生まれるか、どのような両親から生まれてくるかは、本人は選べない。

出自によって人を選別し、あるいは差別することは言語道断なことだと、僕は思う。

 

 

  

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