希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「みんな」とは誰なのかという件

ある意見を封殺する言葉に「みんなはそう思っている」「みんなはそう思っていない」「みんなの意見に従え」等がある。

「私はそう思う」ではなく、「みんな」を用いるところに嫌らしさがある。

この「みんな」を使うことによって、自分の意見は多数派であり常識的であり、自分の意向に従わないと大勢を敵に回すぞ、と圧力をかけているわけだ。自分の意見の妥当性や正当性を論理的に主張するのではなく、自分の意向を情緒的あるいは感情的に従わせるこの態度は頻繁に見られる。

 

そもそも、このような場面で用いられる「みんな」とは誰のことなのか。全員の意見を集約して自分が代表して吐くものではない。「みんな」から委任されているわけでもない。勝手に自分が「みんな」の意見を代弁しているにすぎない。

いや、代弁すらしていない。

ただの自分の独断に重みを付けたいがために「みんな」を持ち出しているだけなのである。

 

本来は相手に自分の考えを伝えるときには、その考えの及ぼす影響や結果等に対して責任を負わなければならない。あるいはその考えの正当性や論理整合性や妥当性を相手に示さなければならない。

「みんな」を引っ張り出す輩は自分で責任を負いたくないだけなのだ。責任回避のための逃げ道は用意しておいて、相手を自分に従わせたいだけの卑劣で品性下劣な人間なのである。

 

「みんな」を引き合いに出しがちな人の話を全部聞く必要はない。「みんな」とはどこの誰らかと問い返せば良い。

大概その手の人間たちは自分の凝り固まった狭い視野しかない価値観や世間の常識らしきものに基づいたことしか言えない。相手の価値観を認める器量や度量がない。

 

この「みんな」がそう思っているという物言いは厄介なものでもある。気の弱い小心者の僕なんかはそう言われると口を噤んでしまう。反論しようものなら、世間のつま弾き者扱いされかねない。

世間の常識の類は、この「みんながそう思っている(思っていない)」という同調圧力の積み重ねの結果形作られていった側面があるのだと思う。

 

僕は「みんながそうしている」と言われたら、それを無条件に受け入れないような態度を取りたいと思っている。

すぐに「みんな」を引き合いに出すような人たちを信用しないようにしている。自分の考えや意見に対して個人として責任を負わないような人たちを信用することは出来ないからだ。

 

僕はこれからもずっと「みんな」とは口が裂けても言わないようにしていきたい。