カネはモノやサービスとの交換手段に過ぎない。
カネ自体に価値があるわけではない。しかし、僕たちはカネを稼ぐことにあくせくしている。
カネというものが本来有する性質をよくよく考えることも必要である。
初出 2014/9/30
資本主義体制の現下の社会ではカネ儲けに成功した者が勝者となる。何らかの経済活動で富を蓄積した者が称賛されて然るべきである。
つまり、この社会ではカネ儲けは正しい行為なのである。
カネ儲けに成功するということは、その人の能力の証となるのである。逆に言えばカネ儲けができない人、カネ儲けが苦手な人は劣った人とみられることを意味する。
一方、おカネは汚いものだとする風潮もこの社会には存在する。カネ儲けに邁進する人を「守銭奴」と蔑んだりする。人生の豊かさはカネによっては測られないとする言説が一般的になっていたりする。
「おカネは汚いもの」という考え方も「おカネ儲けは正しい」という考え方も間違ってはいない。
両者とも正論というべきものである。
僕は経済的な成功を収めた人たちを素直にすごいことだと思っている。しかし、成金趣味には辟易とする。高級車や高級時計を沢山持っていることや大豪邸に住んでいることを誇示する行為は品がないと思えて仕方がない。
また、おカネが汚いという感覚も心の奥底に渦巻いていることも否定できない。例えば社労士時代に、相談事を受けたときに相談料を貰うことに躊躇したことも一度や二度ではない。相手方も謝礼や報酬を払うことがいけないことだという空気になったこともある。「おカネで解決」することに対する違和感が何となく存在していたのだ。
現在の世の中では、カネがなければ生きていけない。また、大抵の物事はおカネによって解決できる。僕たちはおカネの効用を分かりきっているつもりなのに、時として釈然としない心持になることがある。おカネ万能の世の中に対して、ちょっと待て!と言いたくなるような心情を持っている。
おカネ(貨幣・通貨)はモノやサービスとに交換をするための道具に過ぎない。突き詰めて考えれば単なる記号である。
かつておカネが社会に広く流通していない時代は「贈与」が主な交換手段であったという。あるいは物々交換的な手段もあった。基本的には贈与の文化がメインストリームであった。
社会が「発展」「進化」しておカネを媒介にした経済がメインストリームとなったのだが、実は僕たちの意識や心がそれに追いついていないのかもしれない。
元々は他者にモノを贈り、他者からモノを贈られて成り立っていた経済活動が、「無機的」なおカネを媒介にした経済活動になったことに対して、僕たちはどこか心の奥底で違和感のようなものを感じているのかもしれない。
あくまで僕の独断ではあるが、全く否定はできないと思う。
上述したおカネに対する違和感のようなものが「おカネは汚い」という感覚を生み、高度に発展した資本主義のドグマに適応するために「おカネ儲けは正しい」という考え方を人は身につけたのではないかと僕は感じている。
いずれにせよ、時として人を狂わすようなおカネの持つ魔力を、僕たちは感じ取っているのである。