希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

人は決して平等ではないという件

人は決して生まれながらに平等ではない。

これは市井に生きる人なら分かりきっている真実である。

恵まれた環境の中ですくすくと育つ人がいればそうでない人もいる。恵まれた資質や才能を持っている人がいればそうでない人もいる。

 

人は生まれながらにして人権を有し、平等である、というのは近代以降に生成したイデオロギーである。

「神の下での平等」というキリスト教的価値観をベースにしたイデオロギーに過ぎないのである。この国でも、戦前に「天皇の下での万民は平等」という皇国イデオロギーが存在した。

平等主義というイデオロギーは人々のリアルな態様をベースにしたものではなく、人の頭の中で人為的に作り出されたものである。

 

平等主義というものは媚薬のようなものである。

それを一旦自分に取り込めば、現実社会の中で置かれている自分自身の立ち位置から目を背けることができる。自分は取るに足る人間だと思い込むことができる。そういった意味においては平等主義イデオロギーには効用があるといえる。

 

教育の世界では、子どもはみな等しく能力を備えていて、「正しく」教育を行えばみんなができるようになるという幻想が生きている(1960年代からそうなったらしい)。

この子どもの能力観が幻想に過ぎないことは、教育に関わっている人たちからすれば自明のことである。できる子はできるし、できない子はできない。

1950年代までの教育界では、子どもの能力は持って生まれた資質や家庭環境等によって大きな格差があることを認めていた。したがって能力別の学級編成を敷いていた学校もあったという。ところが、1960年代に入り、前述の子どもの潜在能力は平等だとのイデオロギーが入り込み、現在に至っているわけである。

子どもの潜在能力が平等だという前提にしてしまうと、勉強にしてもスポーツにしても芸術にしても「やればできる」という努力至上主義が蔓延することになる。

自明のことだが、誰もがイチローウサイン・ボルトになれるわけがない。誰もがノーベル賞を受けるような知性を身につけれるわけがない。

自分の「分相応」な生き方を選択し、それによって自分なりの幸福な人生を送れることが大切なのである。「非凡な人」が必ずしも凡人よりも幸せだとは限らない。

 

平等主義を否定すると、「差別を助長する」との批判を受けることになる。

もちろん僕は「いわれのない」差別には断固反対する。

家柄とかいわれているもの、心身の障害、とかいったものに由来する差別には反対する。

克服可能な領域で生じている差別についてはそうではない。

呉智英さんがその著書で「差別のある明るい社会」をと唱えていたが、僕も概ね同意する。

平等主義の下、均質化された人々が群れる閉塞した社会よりも、差別はあるが明るい開かれた社会の方がいい。

 

まともな知性を持つ人たちは、人はみな平等ではない、という事実を自明のものとしてそれを受け入れて日々を送っている。

平等ではないからこそ、ひとつ上の高みを目指して自分なりの課題を設定し乗り越えていこうという営為を積み重ねているのである。

僕はそういった人でありたいし、そういった人たちに敬意と信頼を抱いている。

人はイデオロギーによって生かされているのではない。

自分を取り巻く現実社会を少しでも善きようにしようと、コツコツと自分のできることを確実にこなし、かつじぶんのできることをちょっとずつでも増やす営為を続けているのである。

僕は常にそうでありたい。

 

 

 

 

 

僕はこの社会の片隅で機嫌よく暮らしていきたいという件〈再掲〉

日々を「機嫌よく」暮らしていければ、それに越したことはない。

不機嫌に生きていると、様々な悪しき副産物を生む。

機嫌よく生きるためには、大層な条件が必要なわけではない。

 

初出2019/2/12

 

僕は毎日を機嫌よく過ごしたい。

今の僕の生活の指針はこれだけである。

 

機嫌よく過ごすために必要なことはそれほど多くない。

嫌なことは嫌と言う、嫌なことはできるだけしない。世間の人を判断する評価基準に踊らされない。必要以上のカネを求めない。まあ、大体これくらいである。

僕は若い頃、嫌なことを嫌と言えず、嫌なことを我慢することが成長につながると思い違いをしていた。世間の評価を随分と気にしていた。人並みにカネを追い求めていた。

結果、僕はその頃は不機嫌に生きていた。

 

嫌なことを嫌と意思表示をし、他者からの評価を気にせず、カネを追い求めなくなったら、それだけで毎日を機嫌よく過ごせるようになった。

これはこれでいいことではある。

しかし、物事には表と裏がある。メリットとデメリットがある。

僕が機嫌よく生きられるようになったら、その代償として「もう終わっている人間」扱いされるようになった。これはこれでちょっとだけ悲しいものがある。世間の評価なんてどうでもいいと独り強がってみても、僕は社会の成員なのだから、その成員としての存在価値を低く見積もられるとモヤモヤとした気分になる。

機嫌よく過ごせることの楽しさと、モヤモヤした気分とのせめぎあいの中、僕は日々を過ごしている。

 

もうひとつ、「社会の片隅」で機嫌よく過ごすというところがミソである。

これは僕の居場所をこの社会のどこかに見出すという意味合いである。ひっそりと息を潜めて自分の存在をかき消すということではない。メインストリートではなくてもいいから、裏道や路地を堂々と歩くといったニュアンスである。

多数派に属さず、少数派として生きるということでもある。

少数派に属していると、なかなか機嫌よく過ごすことは難しい。なのに、あえて少数派でありながら機嫌よく生きたいという僕の意志の表れである。

 

僕はもう社会のメインストリームの中に身を置けないことに一抹の寂しさを覚えるけれども、機嫌よく生きるためには仕方がないと諦めている。

無理をしてマジョリティに属そうとすると、きっとつまらなくなる。少しばかりの社会的地位を得るために、つまらない日々を過ごすことになるなんて我慢できない。

 

やはり僕はこれからも社会の片隅で機嫌よく暮らしていきたい。

面白くて楽しい日々を過ごしていきたい。

こんな贅沢なことはない。

ほかにはもう何も望まない。

 

 

近頃、ほとんどテレビを観なくなった、という件

僕はほとんどテレビを観ない。

最近のテレビ番組が面白くなくなってきたからだ、と言ってしまえば話がそれで終わってしまうので、なんやかんやと理屈をつけてみたい。

 

ひとつの仮説は僕の老化現象というもの。

何を観ても心が揺さぶられることがなくなってきた。だから、テレビを観る気が失せてきたという説。確かにこの頃は「感動」する機会がめっきり減ってきている。別のエントリーでも書いたが、小説を読まなくなってきたのも心が硬くなってきたことの証左である。

こうなってしまうと、テレビのコンテンツの質がどうのこうのという問題ではなくなる。何を観ても面白くないとかいう輩にどんな番組を提供しても同じである。

反証。

僕は深夜帯のテレビ番組は観ている。面白いと感じる番組も幾つかある。

となると、僕の老化現象にすべての要因を求めることは無理があることになる。

 

もうひとつの仮説。

それは本当にテレビ番組が面白くなくなったというもの。コンテンツの質の劣化にテレビを観なくなった要因を求めるもの。

特にゴールデンの時間帯の番組は似たようなものばかりである。グルメ、クイズ、旅、といったものに偏っている。ドラマも刑事ものと医療ものばかり。

民放は「視聴率」という強い縛りがあるので致し方ない面もある。

なかなか冒険的な企画は通りづらいのだろう。

だから、比較的縛りのゆるい深夜帯の番組に、僕が面白さを感じるものがあって、僕はそれらだけを観るということになっているのだろう。

 

結局は「人」の問題に帰結することになる。

番組制作のスタッフの質の問題になる。

僕が好んで観る番組のプロデューサーは特定の人たちに偏っている。

ただ、制作側の人たちの質の劣化があるというわけではないだろう。

テレビ局自体のマネジメントの問題が関わってくるのだと思う。

局によっては、面白そうな斬新な企画が通りにくいという内部事情が絡んでいるのでは、と推測する。

これはテレビ局だけの問題ではなく、この国の会社というものが抱えている宿痾と言える。いくら現場が優秀でも、会社の上層部が無能だとどうしようもない。

 

今は娯楽が多様化している。

ヒマつぶしのための道具も昔に比べて格段に増えた。だから、テレビを観なくてもなんら別条はなくなっている。そんな状況なのだから、テレビ番組を作る側も大変なのだと理解はできる。

したがって、金科玉条に「テレビがつまらなくなった」とバッサリ切り捨てても意味がないような気がする。

 

元々がテレビっ子だった僕からすれば、今の状況はちょっとだけ淋しい。

テレビにはテレビの良さがある。

そのテレビの良さは何かと問われれば、よくは分からないけれども、程よいヒマつぶしの道具であることは確かだ。「ヒマつぶし」というものは実は高度な文化的な営為である、と僕は思っている。

それとも多くの人たちが「ヒマ」自体を喪失しているのかもしれない。

 

 

僕は自分のことを運がいいと思い込んでいるという件

僕はこれまでにまわり道をしたり寄り道をしたりの人生を送ってきた。

大半の期間がビンボー生活だった。

自分の思うようにならないことばかりだった。

でも、僕は自分のことを運がいいと思っている。

 

僕のこれまでの人生で「ヤバい」と思ったことは何度もある。

フリーランスの時にうつになり多くの顧客が離れたとき、神戸の震災に遭ったとき、小学生の時に不登校になったとき、等々。

危機的状況に陥っても、そこから先の奈落の底には落ちることはなかった。

すんでのところで踏みとどまったのである。

なぜ、そうなったかといえば運が良かったからだとしかいえないのだ。

 

人生で起きる様々なことのすべてを運の良しあしで決めることは良くないと言われる。

運の良しあしで物事を判断することは、責任回避の態度であり、成長にはつながらないとよく言われる。

確かにそうだろう。

成功や失敗の要因を「運」の一言で片づけてしまったら、進歩も発展もない。

悪い意味での他力本願になってしまう。

 

しかし、僕は多くの物事は運で決まるのではないかと思っている。

僕の経験した事柄(大したものではないけれども)を通じて得た肌感覚である。

いくら努力し頑張っても結果がでないことがあり、たいして努力もしていないのに好結果を得られることもある。これは誰もが経験していることではないだろうか。

僕は世間的に成功した人がその要因を尋ねられて「運が良かっただけ」と言う人に好感を持つことが多い。その人は謙遜しているだけなのかもしれないが、自分の資質や努力に成功要因を帰結させずに、ただ運が良かっただけと言いきるところに共感するのである。

一方で、恵まれた状況にいる人がその要因を自分の能力や努力のみに求める態度に卑しさを感じるのである。その人の器量のなさをどうしても感じてしまうのである。

 

僕は若い頃、自分はつくづく運がない人間だと思い込んでいた節がある。

大学入試のときに共通一次試験で失敗したのも、最初の勤め先に馴染めなかったのも、自分に運がないからだと言い逃れをしていた。

ところが、この歳になってこの頃、自分の人生を振り返ってみると、「俺ってそこそこ運が良かったんじゃないか」と思えるようになってきた。

行き当たりばったりの生き方をしてきても、貧困に陥らずに、何とか生活を送ることができている。

こんなに幸運なことはない。

しみじみとそう思っている。

 

これから先の僕の人生には何が起きるか分からない。

良いことも悪いことも起きるだろう。

どんな困難が我が身に降りかかろうと、何とかなる、と楽観的にとらえている。

僕は運がいい、と思い込むことによって。

根拠はないけれども、ただ何となくそう思っている。

根拠のない思い込みほど、強いものはない。

 

 

 

 

僕は実生活やビジネスに直接役に立たない読書が好きだ、という件

僕の日々の過ごし方は読書の時間をいかに捻出するかに重きを置いている。

活字中毒と言ってもいい。

まあ、ヒマ人的生活を送っているので、読書時間の捻出は簡単ではある。

 

僕がなぜ読書が好きで、それにこだわるのか。

それは本を読むことが好きだから、というトートロジーになってしまう。

幼少の頃から本を読むことが好きだったので、それが続いている、習慣になっているというだけのことである。

 

僕がどんな本を好んで読んでいるのかと言えば、それは実生活に直接的には役立たないものということになる。自己啓発書や実用書、ビジネス書は読まない。なぜそれらの本を読まないかと言えば、特に理由はない。僕にとって面白くないからとしか言いようがない。

人文科学・社会科学・ノンフィクションを好んで読んでいるが、ただ単に僕が知的興奮を覚えるからである。

読書によって得た知識を実生活に直接に活かそうという発想はない。

ただ、間接的に活きているという実感はある。

 

僕が若い頃、サラリーマンをし自営業を営んでいた頃は、今とは違い小説と実務書ばかりを読んでいた。特に実務に関する本は、仕事をする上での必要に迫られて読んでいたので、面白くはなかった。

そして、僕はうつに罹り、意欲が失せて、全く本を読めなくなる状況に陥った。

本好きの僕にとってはとても苦しいものだった。

自営の仕事を廃業し、うつが寛解し、僕の読書傾向は変わった。

とことん好きなものだけを読んでやろう、実生活に役に立つか立たないかは度外視して、「教養」がつくものを読んでやろう、というものに変化し、現在に至っている。

 

僕はヒマ人でダメ人間だけれども、知的好奇心は旺盛なままでいる。

世の中には僕の知らないことが山のようにある。死ぬまでにどれほどのことを知るようになるかはたかが知れているかもしれない。それはそれで仕方がない。

この社会の成り立ちやありようや歴史的な経緯を少しでも知りたい。

まともな人間なりたい、という一心である。

 

今の僕のビンボー生活から抜け出すには、僕の読書のやり方は適切ではない。

ビジネスを成功させる方法(そんなものがあるとすればの話だが)を得ることはできない。仕事で成果を出すようなノウハウも得ることはできない。

ただ、何となくだけれども、何らかの形で成果を上げるには、歴史学や哲学、社会思想等のアナロジーで対処するのが最適だとの思いがある。

遠回りかもしれないけど、地に足がついた確実な方法だとの思いがある。

 

僕は今の読書のやり方を変えるつもりはない。

すぐに役立つ知識はすぐに陳腐化して使い物にならなくなる。

生きていくうえで本当に大切なものを知るために読書をする、というスタンスを変えたくない。経済的な成功や社会的地位なんか二の次でいい。

この世から去る瞬間に「ああ、そこそこのいい人生だった」と思えればそれでいい。

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