人は決して生まれながらに平等ではない。
これは市井に生きる人なら分かりきっている真実である。
恵まれた環境の中ですくすくと育つ人がいればそうでない人もいる。恵まれた資質や才能を持っている人がいればそうでない人もいる。
人は生まれながらにして人権を有し、平等である、というのは近代以降に生成したイデオロギーである。
「神の下での平等」というキリスト教的価値観をベースにしたイデオロギーに過ぎないのである。この国でも、戦前に「天皇の下での万民は平等」という皇国イデオロギーが存在した。
平等主義というイデオロギーは人々のリアルな態様をベースにしたものではなく、人の頭の中で人為的に作り出されたものである。
平等主義というものは媚薬のようなものである。
それを一旦自分に取り込めば、現実社会の中で置かれている自分自身の立ち位置から目を背けることができる。自分は取るに足る人間だと思い込むことができる。そういった意味においては平等主義イデオロギーには効用があるといえる。
教育の世界では、子どもはみな等しく能力を備えていて、「正しく」教育を行えばみんなができるようになるという幻想が生きている(1960年代からそうなったらしい)。
この子どもの能力観が幻想に過ぎないことは、教育に関わっている人たちからすれば自明のことである。できる子はできるし、できない子はできない。
1950年代までの教育界では、子どもの能力は持って生まれた資質や家庭環境等によって大きな格差があることを認めていた。したがって能力別の学級編成を敷いていた学校もあったという。ところが、1960年代に入り、前述の子どもの潜在能力は平等だとのイデオロギーが入り込み、現在に至っているわけである。
子どもの潜在能力が平等だという前提にしてしまうと、勉強にしてもスポーツにしても芸術にしても「やればできる」という努力至上主義が蔓延することになる。
自明のことだが、誰もがイチローやウサイン・ボルトになれるわけがない。誰もがノーベル賞を受けるような知性を身につけれるわけがない。
自分の「分相応」な生き方を選択し、それによって自分なりの幸福な人生を送れることが大切なのである。「非凡な人」が必ずしも凡人よりも幸せだとは限らない。
平等主義を否定すると、「差別を助長する」との批判を受けることになる。
もちろん僕は「いわれのない」差別には断固反対する。
家柄とかいわれているもの、心身の障害、とかいったものに由来する差別には反対する。
克服可能な領域で生じている差別についてはそうではない。
呉智英さんがその著書で「差別のある明るい社会」をと唱えていたが、僕も概ね同意する。
平等主義の下、均質化された人々が群れる閉塞した社会よりも、差別はあるが明るい開かれた社会の方がいい。
まともな知性を持つ人たちは、人はみな平等ではない、という事実を自明のものとしてそれを受け入れて日々を送っている。
平等ではないからこそ、ひとつ上の高みを目指して自分なりの課題を設定し乗り越えていこうという営為を積み重ねているのである。
僕はそういった人でありたいし、そういった人たちに敬意と信頼を抱いている。
人はイデオロギーによって生かされているのではない。
自分を取り巻く現実社会を少しでも善きようにしようと、コツコツと自分のできることを確実にこなし、かつじぶんのできることをちょっとずつでも増やす営為を続けているのである。
僕は常にそうでありたい。