希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

「不良社員」万々歳である件

僕は雇われて働くことがイヤである。

ただし現実問題として、生活していくためにはカネを稼がなければならない。大方はどこかの会社に雇われて労働者としての道を歩むことになる。

 

会社に雇われて働くにしても、僕たちは会社に完全に隷属してはならない。僕たちは会社の奴隷ではないのだ。

昨今は社員の自立を強調したり、副業を推奨したりする会社が世を賑わせたりもしているが、根本的には会社は社員を縛り統制することには変わりはない。

 

多くの労働者は会社に良い評価をもらうことを第一に考え、「良い子」であろうとする。これが度を過ぎると会社人間になり社畜となる。

 

僕はもっと労働者は「不良社員」になってもいいのではないかと思っている。

不良社員といっても、仕事をサボりまくるとかやたら上司に反抗するとか横領まがいのことをするとかを意味するのではない。

まずは労働者としての権利を行使する。サービス残業はすべて拒否し、付き合い残業なんかも拒否する。有給休暇はすべて取得する。強制参加の飲み会なんかに参加しない。

やたらと長い時間の意味のない会議ではさっさと切り上げるように仕向ける。そもそもそんな会議なんて不要だと主張する。

上司の顔色をうかがうことなんてきっぱりと辞める。同僚からの同調圧力には抗う。

これらのことは実際は言うは易しだが実行することはなかなかに難しい。しかし、この程度のことをしないと社畜への道にまっしぐらとなる。

この程度に不良社員化しても現行の法制度ではそうそうクビにはならない。せいぜい閑職にまわされるか左遷されるくらいが関の山である。

 

そもそも上述のような自己主張程度で「不良社員」扱いされる方がどうかしている。

会社によって金太郎飴のように画一化した「人材」にされることそのものに危機感を持つべきである。労働者も規格外の不良品扱いされることを誇るようなメンタリティを持った方がよい。長い目で見れば、そのような人がいざという時に力を発揮するのである。リストラされるなどして職を失っても、雑草のように逞しく生きていける。

 

所詮は仕事なんて人生のほんの一部に過ぎない。

仕事で自己実現を図るとか成長するとかは眉唾物であり幻想に過ぎないものである。

仕事によって得られる能力とかスキルなんてたかが知れていると覚めた目で見ることも時には必要である。

 

世のサラリーマンのひとりでも多くが不良社員化すれば面白くなる。結構会社も利益が上がり、この国の経済も成長したりするかもしれない。

 

僕にとっては今まで書いてきた不良社員的な働き方・生き方はごく当たり前のことである。

だからこそ、会社勤めには馴染めないのだと今更ながらに痛感する次第である。

 

僕はいつも「このままでは終わらない」と思っている件〈再掲〉

僕は競争社会から身を引いている。

世間の常識に照らせば、落ちこぼれの負け組であり、僕はそれでいいと思っている。

でも、完全に人生を諦めたわけではない。

 

初出 2015/3/5

 

僕はダメ人間である。

意識が低い人間でもある。

でも心の奥底では「このままじゃ終わらない」と密かに思っている。

 

何も世界征服を企んでいる訳ではない(当たり前か)。

起業してリッチになろうとか、何かの分野でメディアに取り上げられて時の人になろうとか、そんな邪な野望を持っている訳ではない。

今より少しは懐が暖かくなり、かつ自分のペースで仕事ができれば良い、というささやかな希望を持っているだけだ。

 

僕のダメさ加減は歳を取るごとに酷くなっている。数年前まではフルタイムで働く意欲があったのだが、今はとてもじゃないがフルタイムの労働なんて苦行そのものだ。

人付き合いも悪くなっている。以前は人と会うのが楽しみで、すすんで色々な人に会おうとしていたし、気の合う仲間と会うために労を惜しまなかった。それが今は人と会うのが面倒くさくなったのだ。人嫌いになったという訳ではない。中島義道氏のように人嫌いを徹底すれば立派なものだと思うが、僕にはそこまでの勇気はない。

何だかんだ言って僕は人が好きなのである。

 

こんなダメさ加減満開の僕が「このままじゃ終わらん」と考えているのは噴飯ものかもしれない。

でも僕だってにんげんだもの。

少しばかりの向上心は持ち続けている。

人として成長したいと思っている。

教養を身に付けたいと願っている。

世の中を変えるような働きをしてみたいと希望している。ほんのちっぽけな存在だけれども。

 

僕は今の自分に不満を持ってはいない。等身大の自分らしき生き方をしている。ダメ人間なりに矜持や誇りを持っているつもりだ。

しかしそれらが他者に伝わらない。

人から見れば僕は単なる怠け者であり、社会からの落伍者である。

それはそれで構わないのだが、ちょっとだけ淋しい。

僕だってにんげんだもの。

ちょっとは存在を認められたい。

 

そうか、僕は「ちょっとだけ存在を認められたい」のだな。これが僕が生きる原動力になっている、と書き進めながら気付いた。

飽きもせずにこのブログを続けてきたのもそういった理由からだ、きっと。

 

僕はこのまま終わってしまうかもしれない(その可能性のほうが高い)。それならそれでその結果を受け容れよう。このまま終わっても、僕は結構楽しい人生を送ってきたと思っている。

でも、ちょっとだけ贅沢を言わせて欲しい。

僕は「このままでは終わらない」と思い続けることをどうか笑わないで欲しい、許して欲しい。 

僕はサラリーマンが嫌いである件

僕はサラリーマンという人種が嫌いである。

と言ってしまったら世間の殆どの人たちを敵に回してしまう。小心者の僕としては敵は作りたくない。

ちょっと言い換えて補足しよう。

僕は「サラリーマン根性」にどっぷりと浸かった人たちが嫌いなのである。サラリーマン根性に首まで浸かっているのにそれを自覚していなくて自分は立派に自立していると錯覚している人が嫌いなのである。

正社員として働くことがまともであり、立派であると思い込み、それ以外の生き方や働き方を認めようとしない狭量さが大嫌いなのである。

 

僕はサラリーマン根性に浸かった人たちは現代の奴隷であると思っている。会社にいいようにこき使われても抵抗しようともしない。会社にしがみつかないと生きていけない。そのくせその奴隷根性を他者に押し付け、またそれを正当化しようとあがく。

ちょっでも有名であるとか大企業であるとか世間から見られている会社の正社員というだけで労働者という事実を忘れている。

僕が許せないのは、普段は自己責任論をぶって社会的弱者を蔑視しているくせに、いざ自分がリストラされたら住宅ローンが残っているだの子どもの学費がかかるだの泣きを入れることだ。はっきり言って住宅ローンを組んだのも子どもを私立学校に入れたのも自己責任である。住むところに関しては賃貸住宅や公営住宅に移れば良いだけの話である。子どもの教育に関しても公立学校に行かせれば済む話である。単なる見栄である。

 

多くのサラリーマンは視野が狭く価値観が偏っている。様々な生き方・働き方があり、それらには優劣がないことを分かっていない。そのために自分の生き方の幅を狭めている。

 

僕がフリーランス(社労士を自営)しているときによく勉強会や異業種交流会に顔を出し、多くの人たちと接する機会があった。サラリーマンとの接触の機会も多かった。その中で僕のような立場の人間を明らかに見下している人がいた。僕を値踏みして自分の仕事での利益にならないと判断すれば交流さえ拒む態度を取る輩が多くいた。起業家や経営者の多くは仕事につながらなくても、何か繫がれる点があれば積極的に交流しようとしていたことからするとその差は歴然としていた。これは僕の独断と偏見、とは言い切れない。僕の知り合いのフリーランサーや経営者に聞いても僕と同様の感想を持っていた。

自分の仕事に直接関係する人としか付き合わない、という近視眼的な行動しか取れないのもサラリーマン根性である。いわゆる「できる人」は仕事に直接関係のない人的ネットワークを持ち、有効に活用している。

 

僕はサラリーマンがこの国の経済発展に寄与してきたことは認める。懸命に仕事に取り組んでいることも認め、尊敬している。しかしながら、大多数のサラリーマンの行動様式や思考が社会の閉塞感を生み出していることに目を背けてはならないと思っている。会社第一主義のメンタリティ、体制に従順であるメンタリティが覆う社会はクソ面白くない。

 

ああ、また世間のマジョリティを敵に回すようなエントリーになってしまった。

やはり僕は世間の片隅でひっそりと生きていくしかないのかな。

マイノリティ・異端者でどこが悪い、と堂々と生きていきたいのだけれども、まだまだ無理かな。

芸能・シャーマニズム・売春と差別についての件

歴史上最も古い職業は芸能民と遊女と占い師だといわれている。これらの職業はシャーマニズムアニミズムに源流がある。太古の昔の人たちは芸能の民や遊女に畏敬の念を抱いていた。普通の人たちからすると、神懸り的なものに見えたからだ。

そして、国家体制が次第に整ってきた古代から中世の律令国家となると、遊女や芸能の民は国家の末端に組み込まれた。「賎民」として扱われたのである。ただ、賎民として賎視はされたが、今で言う差別とは違った性質のものであった。一般の良民からすると、自分たちとは違うという意識があり、賎視と畏怖の念というアンビバレントな感情を抱いていたと考えられる。決して差別や迫害ということばかりではなかったのである。

 

律令国家が衰退し体制に動揺が見られだすと、末端の芸能の民や遊女、占い師等が国家の保護からはずれ、世間に放り出されることになる。

漂泊せざるを得ない人々は世間から偏見の目に晒され、排除されることになる。

時の権力者、公家にせよ武家にせよ、税負担する定着した良民こそが望ましい姿という点で一致していたのだ。

他方、漂泊を続ける芸能民や遊女はアウトサイダーとして偏見や差別の対象となる。

 

しかしながら、社会からの冷たい視線を浴び続けながらも、芸能は独自の発展を遂げる。今の時代にも残っている能や狂言、歌舞伎、人形浄瑠璃などは伝統芸として高い評価を受けている。

これらの芸能の内、能は足利義満が保護したためにいわば国家公認の芸能という地位を得ることになる。ただし、今も演じられている演目で傑作とされるのは義満の保護以前に創作されたものらしい。芸能は権力者と結びつき、自由奔放さを失うと作品のレベルが落ちるといわれる。

歌舞伎は何度も弾圧を受けながらも、庶民の人気を得て、河原乞食と蔑まれながらも、経済的にも大成功を収める。

 

国家権力の基盤が強固になり、その力が強くなればなるほど、異端者・アウトサイダーへの排除の論理が働くようになる。

社会的・政治的に好ましくないとカテゴリーされる集団を異端視し排除するようになる。

今の日本社会で好ましい集団はサラリーマンである。税金は源泉徴収で徴収漏れが少ないし、社会保険料も給料から控除して徴収できる。仕事が忙しすぎて社会運動や社会活動に参加するのは少数派である。このサイレント・マジョリティがこの社会を成り立たせている。

 

今の時代に白眼視されるのはニートやホームレス、引きこもり、フリーターフリーランスなどである。いわゆる真っ当な生き方をしていないと勝手に「まともな人」から見られている人たちである。

かつての漂泊の芸能民や遊女のような存在である。

 

僕は思う、強く。

国家権力の望むような生き方を拒否することに意味があるのだと。

たとえ、差別されたり排除されたりしても、である。

  

組織に順応しすぎると副作用もある件〈再掲〉

学校教育は結局のところ組織に順応する人たちを生み出すためにある。

国家に会社に役所に従順な人たちが多数を占める社会が安定した社会なのである。

そんな社会をクソ面白くもない、なんて思っている僕はただのはぐれ者なのだ。

 

初出 2015/3/3

 

僕たちは学校にしても会社にしてもあるいは広くとらえて社会にしてもその組織に順応することを強く求められる。組織に順応してこそまともな人間だと認知される。

組織に順応できない人はその人の資質や性格に問題があるとされ、組織から排除される。

 

確かに組織に順応できるとその場においては組織の構成員と認められ、役割を与えられ、居場所を確保できるメリットがある。大過なく生きていくことができる。

だからこそ学校教育では個の確立よりも集団の中でのあるべき立ち居振る舞いをインプットし続けるのだ。

 

各々の組織には特有のルール(掟)が存在する。組織に順応するということは、フォーマルなルールとインフォーマルなルールの双方を受け入れそれらに従うことである。

縛りの強い組織では各成員の一体感を作り出す。

 

僕はこの一体感をはじめとする組織の論理が肌に合わない。まずは自分ありきだとの意識が強いのである。もちろん一旦会社に勤めればルールには従うが、不条理と思えるルールに自分を殺してまでも従うことをよしとはしない。例えば付き合い残業なんてその最たるものである。

 

とはいえ僕は組織のルールの存在自体を否定するものではない。組織にルールや掟があるのは当然であり、組織に属する者はそれらに従って然るべきである。ただ、ものには限度があるということだ。

 

組織に過剰に適応する人たちがいる。世間一般の評価では、それらの人たちは真っ当な人であり時には優秀だと看做される。それらの人たちは組織内で高い評価を受け、高い報酬や地位や役職が与えられる。

問題はその組織から一歩出たときにどうなるかである。極端な言い方をすれば、組織に庇護された人たちは本当に「自立」しているのかということである。また、ある組織に飼い慣らされていると、その組織のルールが至上のものと思い込み、かつ自分の価値観がその組織のそれに染まってしまうことになりかねない。

俗に言う「サラリーマン根性」や「お役所根性」である。周囲の(上司や同僚)の目を極端に気にして横並び意識にとらわれる。自分の意見や主張を抑えて、空気を読み、同調する。

自分の意見や主張を強く押し出せば煙たがられ、出世できない。組織の縛りを嫌って辞めれば「裏切り者」のレッテルを貼られたりもする。

これからは「個」の時代だとかというお題目が唱えられているが、実態は旧態依然とした組織が未だに多いのではないだろうか。会社あっての自分だと思い込んでいる人たちも結構多いのではないだろうか。

 

組織に順応しすぎると、知らず知らずのうちに自分というものを失くしていく。ただ、このことが一概に悪いとはいえないことに大きな落とし穴がある。ある組織に適応して生きることは、その間は心地よいことが多いからである。

 

もしかすると、組織に馴染めず、自分を押し殺すことに我慢がならない僕のような人間はこの社会で世間でマイノリティであり、存在を許されない人間なのかもしれない。

この事実を受け止めて、僕はアウトサイダー的な生き方を全うするしかない。

  

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