ある一定のレベルを維持し続けることは難しい。どのような領域においても。
ずっと走り続ける人生は果たして幸せなのだろうか。
初出 2015/8/18
勤め人であってもフリーランスであっても、「できる人」と見られたいと誰もが望むはずだ。
「できる人」と見られれば仕事が次々と舞い込むし、他者からの信頼も得られる。
世の自己啓発物やビジネス書はいかにしてできる人になるかを指南している。できる人にならなければ社会から落ち零れるとの強迫観念さえ植え付ける。
まるでできない人は存在価値が無いと言いたげである。出来る人こそが社会を動かしていると言いたげである。
僕もご他聞に漏れずできる人を目指していた。
公務員をしているときも、専門学校の講師をしているときも、社労士を自営しているときも、急き立てられるようにできる人になるように疾走していた。
他者からの評価に一喜一憂し、いかに多くのかつ質の良い仕事を振られるかばかりに精力を注いでいた。
以前のエントリーでもふれたが、僕は40歳を過ぎた頃にキレてしまいそれまでの生き方・働き方をリセットした。できる人になること、できる人を装うことに心底疲れてしまったのだ。
できる人を目指しても行き着く先は仕事の奴隷なのではないかと思ってしまった。
終着点が見えず、青天井なのではないかと気付いてしまった。自分の全人生を仕事に費やすことがバカらしくなった。
できる人と思われなくても、十分に幸せに生きていけるしそうした生き方がありなのではないかという確信が芽生えてきた。
傍から見て、できる人はつらいのだろうなぁ、と思う。まあもっとも、当の本人はそれほどプレッシャーを感じていないのかもしれない。できる人であることが自明のものであり、できる人であり続けることがその人のアイデンティティなのだ。
しかし、老婆心ながら思う。自他共に認めるできる人がリストラされたり、左遷されたりしたら相当にショックをうけるだろうなと。開き直ってそれまでのできる人としての人生観や労働観を変えることのできる柔軟な思考ができればよいが、ずっと変わらずに自分はできる人間であり、今の境遇は不当だと恨み節を嘆き続けるようなことになっては目も当てられない。
そもそも「できる人」の判断基準に絶対的なものはない。その場その場で変化する曖昧なものである。
できる人というものを持ち上げすぎるとそこには落とし穴があるように思う。
僕は「できない人」と思われるのはさすがにイヤだが、さりとて無理に「できる人」になろうとは思わない。
自分に与えられた役割を淡々とこなし、目立つようなことは只管避け続ける。
いたらいたで邪魔にならない、ちょっとは役に立っている、という程度の評価や評判を得られるだけで十分である。
「できる人」となり、「できる人」であり続けるのは疲れてしまうから。