希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

僕は実生活やビジネスに直接役に立たない読書が好きだ、という件

僕の日々の過ごし方は読書の時間をいかに捻出するかに重きを置いている。

活字中毒と言ってもいい。

まあ、ヒマ人的生活を送っているので、読書時間の捻出は簡単ではある。

 

僕がなぜ読書が好きで、それにこだわるのか。

それは本を読むことが好きだから、というトートロジーになってしまう。

幼少の頃から本を読むことが好きだったので、それが続いている、習慣になっているというだけのことである。

 

僕がどんな本を好んで読んでいるのかと言えば、それは実生活に直接的には役立たないものということになる。自己啓発書や実用書、ビジネス書は読まない。なぜそれらの本を読まないかと言えば、特に理由はない。僕にとって面白くないからとしか言いようがない。

人文科学・社会科学・ノンフィクションを好んで読んでいるが、ただ単に僕が知的興奮を覚えるからである。

読書によって得た知識を実生活に直接に活かそうという発想はない。

ただ、間接的に活きているという実感はある。

 

僕が若い頃、サラリーマンをし自営業を営んでいた頃は、今とは違い小説と実務書ばかりを読んでいた。特に実務に関する本は、仕事をする上での必要に迫られて読んでいたので、面白くはなかった。

そして、僕はうつに罹り、意欲が失せて、全く本を読めなくなる状況に陥った。

本好きの僕にとってはとても苦しいものだった。

自営の仕事を廃業し、うつが寛解し、僕の読書傾向は変わった。

とことん好きなものだけを読んでやろう、実生活に役に立つか立たないかは度外視して、「教養」がつくものを読んでやろう、というものに変化し、現在に至っている。

 

僕はヒマ人でダメ人間だけれども、知的好奇心は旺盛なままでいる。

世の中には僕の知らないことが山のようにある。死ぬまでにどれほどのことを知るようになるかはたかが知れているかもしれない。それはそれで仕方がない。

この社会の成り立ちやありようや歴史的な経緯を少しでも知りたい。

まともな人間なりたい、という一心である。

 

今の僕のビンボー生活から抜け出すには、僕の読書のやり方は適切ではない。

ビジネスを成功させる方法(そんなものがあるとすればの話だが)を得ることはできない。仕事で成果を出すようなノウハウも得ることはできない。

ただ、何となくだけれども、何らかの形で成果を上げるには、歴史学や哲学、社会思想等のアナロジーで対処するのが最適だとの思いがある。

遠回りかもしれないけど、地に足がついた確実な方法だとの思いがある。

 

僕は今の読書のやり方を変えるつもりはない。

すぐに役立つ知識はすぐに陳腐化して使い物にならなくなる。

生きていくうえで本当に大切なものを知るために読書をする、というスタンスを変えたくない。経済的な成功や社会的地位なんか二の次でいい。

この世から去る瞬間に「ああ、そこそこのいい人生だった」と思えればそれでいい。

「苦労の押し付け」をする輩はみな老害であるという件〈再掲〉

「苦労は買ってでもしろ」という慣用句がある。

僕の嫌いな言葉である。

精神主義や根性主義の最たるものである。

涼しげな顔でひょいとやり過ごすのがスマートで格好いい。

 

初出2019/1/17

 

この社会では未だに根性主義や精神主義が蔓延している。

「やる気を出せ、やる気を見せろ」とか「やる気があれば何とかなる」といった類の言葉を浴びせられた人は多いと思う。

 

度が過ぎた精神主義は思考停止の状況に陥ってしまう。また、実証性や客観性を軽視する反知性主義へと至ることにもつながる。

 

僕が若い頃、先輩や上司といった年長者からたびたび「苦労すること」を押し付けられた。意味のない長時間の残業や理不尽なクレーム対応など、それらが意味のあることでそれらをこなしてこそ成長するんだと教え込まれた。また、一見つまらなさそうに見える仕事にも意味があって、疑いを持ってはいけないとも言われた。

今となっては長時間の残業なんて単なる時間の浪費だし、つまらない仕事は無意味だったと断言できる。

 

なぜ、多くの年長者は若年者に苦労を押し付けたがるのか、僕には理解できない。

僕ならば、年長者の智慧を活かし、いかに効率よく無駄な回り道をしないで成果を出すかを若い人たちに伝えようとするだろう。苦労が成長につながるなんて根拠のない戯言である。

 

昨今のスポーツの領域において、結果を出しているチーム(駅伝の青山学院やラグビー帝京大学等)は従来の体育会的な指導法から脱し、またきつい上下関係を廃しているという。科学的なトレーニングを重視し、しごきや長時間に及ぶ練習をやめて、それによって良い結果が出ている。

スポーツの世界では長い間精神主義が蔓延していた(今も残っている)。

しかし、一部でそれらを変えて、楽しみながらスキルを上げようとする流れが出てきている。これは良い傾向であると思う。

スポーツ以外の他の領域でも、この流れが加速すればよい結果が出ると思う。

 

「苦労は買ってでもしろ」という言葉はもう死語にしてもいい。

そもそも、ある目標に達するまでのプロセスを納得してしていれば、苦労だなんて感じることはない。それを苦労していると感じているということは、どこかに無理があるということである。

 

苦労の押し付けをしたがるオッサン連中が絶滅種になれば、この社会の未来は明るいものとなるはずである。

まだまだこの手の連中は数多くあちらこちらに棲息している。現在の閉塞感をもたらしているひとつの要因はこの手のオッサンが社会のあちらこちらに居座っているからである。苦労の押し付けが好きなオッサン連中を一気に排除するのは可哀そうなので(彼らはは居座ろうと強く抵抗するはずである)、旧来の価値観を変えるような流れを地道に作り上げるような営為を続けるよりほかに手立てはない。

 

僕は苦労の押し付けをするようなオッサンにならないように心しておかなければならないと強く思っている。

別に若者に迎合するわけではない。

自分がされて嫌なことはしない、ただそれだけのことである。 

老害にだけはなりたくない、ただそれだけのことである。

認められたいとか役に立ちたいという意識を強く持たない方がよいという件

僕たちは誰かに認められたり、人の役に立っているという実感を持つと生きる活力が湧いてくる。「承認欲求」であり、それが満たされることによって人は充実感を得ることができる。

人は社会的な生き物であるので、承認欲求が社会を成り立たせる大きな要因になっているのは確かだ。

 

僕のこれまでを振り返ってみると、やはり人に認められることを行ったときには喜びを感じたし、誰かの役に立つ行いをしたときにも充実感を得ることができた。

承認欲求を満たされるということは自己肯定感につながる。

この自己肯定感さえ持ち続けていれば、少々の困難なことにぶち当たっても何とかやりすごすことができる。

 

仕事においてもあるいは学生時代の勉学やクラブ活動においても常に承認欲求がつきまとう。自分のためだけに仕事や勉強をしても、そこには限界がある。他の誰かに認められる、役に立っているという実感が伴って、自分の限界を突破することができるようになるのである。

そういった意味では承認欲求とは、人の成長にとって必要不可欠なものであるということができる。

 

しかしながら、誰かに認められたいとか役に立ちたいという意識はときに人を縛り付けるものにもなる。

他人の眼を気にしすぎる行動様式を採ることにもなる。

他者からの期待がプレッシャーになり、それに押しつぶされて心身に不調をきたすこともままある。

 

他者からの期待に応えようとして、頑張りすぎて燃え尽き症候群に至ることもある。

あるいは長時間労働を余儀なくされて、最悪の場合過労死や過労自殺に至ることもある。

 

そして何より、認められなかったり役に立たないと感じることにより、自己の存在意義を見失う事態に陥ることがある。

僕は誰かに認められたり役に立つことによって人としての存在意義があるという考え方にどうも違和感がある。

人は無条件にその存在を認められるはずだとの思いがある。

たとえ誰かのあるいは社会の役に立っていないと見える人も当然に存在意義があるはずだ。

そもそも誰かのあるいは社会の役に立っていない人なんかいない。

誰もがその人なりのやり方で役に立っている。

 

承認欲求とは諸刃の剣である。

人を成長させ、自己肯定感を育むものであると同時に、使いようによっては人の尊厳を損なう場合もある。

また、承認欲求を悪用することによって「やりがいの搾取」的なこともありうる(ブラック企業の常套手段となっている)。

 

ものには限度があるということである。

承認欲求を満たすために、心身の健康を損なったり生命を失っては本末転倒である。

所詮、他人は自分のことなんかそれほど見ていない、それほど気にかけていないと開き直る意識を持つことも大切なことであると思う。

何事もほどほどに。

 

 

 

カネがないと時間をつぶせないという人は危ないという件

何度もこのブログに書いているが、僕はヒマ人的生活を満喫している。

僕は「ヒマつぶしの達人」を目指している。それは余分なカネを使わずに楽しく面白く時間をつぶすことである。

 

僕は若い頃、時間つぶしが下手くそであった。

同時にカネを使わないとヒマつぶしができないと思い込んでいた。

多くの人たちはカネがないと時間つぶしができないと思い込んでいるような気がしてならない。余暇も消費資本主義のドグマに侵されているのだ。

 

ヒマつぶしはカネの有無に関係はない。

いや、むしろカネがない方が良い。

いかに楽しくヒマつぶしをするかに頭を使って創意工夫を凝らすことに意義がある。

とはいってもそう難しいことではない。

カネのかからない時間つぶしの方法なんていくらでもある。面白いと感じることは人それぞれだ。そして、カネがかかっている趣味等を見直し、本当にそれをしているときに楽しく感じているのかを再点検してみる。

 

僕はラジオを聴いたり、ネットで動画を観たり、散歩したり(時たまついでに喫茶店に入る)、本を読んでいるときが楽しい。

読書については書籍代がかかるが、今は本を買うだけの余裕はあるので(ほとんどが古書であるけれども)負担感はない。書籍代が捻出できないような経済状況であれば図書館に行けばいい。図書館では長時間いても注意されないし、規定の範囲内であればどれだけ借りても何も言われない。

ラジオについては受信機器が安価であり、ラジコは数百円払えば全国のラジオ番組が聴取できる。

ネットで動画を観たり、ラジコを聴くにはパソコンが要るが(僕はスマホを持っていない)それも今はかなり安く買える。僕が持っているノートパソコンは中古品で、とても安く買えた。

パソコンがあれば、動画を観たりラジコを聴いたりする以外に色々な用途に使える。ヒマつぶしにはもってこいである。

 

カネのかからないヒマつぶしはかなり有効な生存戦略になる、と僕は確信している。

時間をつぶすのにコストがかかると、そのコストを捻出するために働かなければならない。長時間働いて、つかの間の余暇にカネがかかるという状態は、資本主義に呑み込まれていることを意味する。その無限ループから抜け出さないと、貧乏暇なし状態はずっと変わらないままである。

 

僕はヒマ人だけれども、全く退屈ではない。時間が足りないくらいだ。

カネなしで面白くヒマつぶしをしようと志向した賜物である。

僕の今の生活様式、生き方が正しいとは思っていない。しかし、間違っているとも思えない。

いい加減に生きている僕のひとつの信念。

人生は大いなるヒマつぶしである、と。

 

僕は「まともな人」になりたいという件

ヒマ人的生き方を満喫し、根っからのダメ人間になろうとしてる僕だけれども、常々まっとうな人間になろうと自分なりに努力している。

僕が思う「まっとうな人間」とはおかしいことに対してはおかしいと言うこと、批判精神を持つこと、物事の本質を捉えるように思考すること等である。

必ずしも会社に雇われて正社員として働くことや結婚することを意味しない。

世間で真っ当とされるライフスタイルを採っている人たちの中でも僕が思う「まっとうな人」は多くはない。

 

まっとうな人になるということは言うは易しだが実は意外と難しい。

この社会では「個の確立」や自己主張をしたりすることは忌み嫌われている。

だからこそわざわざ教育の目標に盛り込まれるのである。

相変わらず、この社会では相手を慮ることや空気を読むことが重要視され、「みんな」と同じ行動をすることが推奨されている。

まっとうな人になるためには、この同調圧力や空気を読むことを強いることに抗わなければならない。これがなかなかに難しくてしんどいことなのである。

 

こんな僕でも対人関係では空気を読むし、忖度するし、相手に同調しようと努めたりすることが多い。

相手がやたらと自己主張が激しかったりすると、げんなりもする。

これはこれで仕方がないと半ば諦めの心境なのではあるけれども、時と場合によっては言いたいことを言い、きちんとした対話に持っていこうとしようとは思っている。

それがすんなりとできるようになれぱ、僕の成長である。まっとうな人に近付いている証となる。

 

僕は友人知人から「はっきりと物を言う」タイプの人間だと言われていたが、全然そんなことはない。言いたいことの半分も言えず、歯がゆい思いをしてばかりいた。

特にサラリーマンをしていた頃、それとフリーランスの頃はひどかった。

サラリーマンをしていた頃は組織になじもうとして、ある種の過剰適応を来していたのだ。フリーランスの頃はクライエントに対して過剰に慮っていたのである。

今はこれらのことを反省している。全くまっとうではなかったと思っている。

 

忖度すること、空気を読むこと、相手を慮ることなどは組織人としては正しい振る舞いであろうと思う。これらのことができないサラリーマンは出世しづらい。

でも、僕はサラリーマン的な生き方は好まないしできない。

自己正当化の手段あるいは世間に対してちょっとだけの抵抗をするための理論武装として、僕なりの「まっとうな人」の定義を提示しているのだ。

世の中の大半の人たちは僕のこの考えに同調してくれないだろう。

それでもいい。

それでもいいから、僕は「まっとうな人」になりたい。

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