希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

働きたくないと思うのはある意味まともであるという件〈再掲〉

僕は雇われて働くことを忌避している。

典型的な怠け者のダメ人間である。

このブログはそのような自分を正当化するために書いているのかもしれない。

 

初出 2016/10/4

 

僕はこのブログでたびたび働きたくないと公言している。「仕事」をすることは嫌いではないけれども、雇われて働くことがたまらなく苦痛なのである。

世間の常識や良識からすると「働きたくない」と口にすることは自殺行為である。働きたくないと思っていることがバレてしまうと即「使えない人間」「怠け者」といったラベリングがされ人に非ずと非難されることになる。

 

世のサラリーマンは本当に働きたくないとは考えていないのだろうか。例えば宝くじで数千万、数億円というまとまったカネが入っても働き続けるのだろうか。たとえカネがあったとしてもブラブラしていたら世間体が悪いので働く、といった感じになるのだろう。

労働至上主義的な考え方が根付いているこの社会では働くことに拒否反応を示す人たちを異端視し時には排斥する。

 

僕のようなダメ人間でも働くことによって得られるものがあることは重々承知している。自分で稼いだカネで生計を維持することができると一人前になったなという感覚になる。働くことによって自分の居場所を確保できるという側面もある。

しかしながらである。

労働者として働くことによって失われるものがあまりにも多すぎる、と僕は思ってしまう。

わずかばかりの賃金と引き換えに自分の時間と精神、肉体を会社に差し出さなければならない。会社に生殺与奪を握られて会社に対して隷属的な立場に陥ってしまう。有体にいえば、自分の「自由」を奪われ、自分の「自由」を差し出すことによってようやく自分の立ち位置を確保できる。「安定」という幻想に縋りつきながら。

 

僕は自分のナリワイをきちんと持って仕事をしている人たちに憧れている。たとえ収入が不安定であろうと、仕事がいつ無くなるか分からない不安定さがあろうとも、雇われて働くよりは人間らしい生活であると思う。

かつてそう遠くない昔では、人々は自分のナリワイを持ち自律的に働いていた。会社や工場や役所等で働くことが多数派になったのは最近のことである。会社等に雇われて働くことが自明のものになった歴史はごく浅いものである。

僕は昔に帰れと言いたいわけではない。僕のように雇われて働くことを忌避している人間が生き延びることができる隙間みたいなものがあればいいと思っているだけだ。

 

僕は世間から後ろ指をさされることを承知で言いたい。

働きたくない、と思うのはまともな神経を持っているからだと。

僕は確かにダメ人間であるし世間から少しズレた感覚を持っている。しかし、それがゆえに異端視され排斥されるいわれはない。

僕は自分が「まとも」であると信じている。 

中間管理職なんて本当に必要なの、という件

僕の職業生活の大半はフリーランス非正規雇用である。

正社員のサラリーマンとして働いた期間は長くはない。

そのサラリーマン時代にはロクな上司に当たらなかった。信頼に足ると感じた上司・管理職は2,3人程度で他は仕事以外では絶対に付き合いたくないと思うような人たちであった。

 

僕が公務員時代の最後の方で関わった直属の上司は最悪であった。

以前のブログにもちょっとだけ書いたけれども、この最悪な上司はまさに「昭和的な」労働観の持ち主だった。この上司は僕が前任者から引き継いだ仕事の効率化を図って残業を大幅に減らしたことに怒りを露わにし、様々な嫌がらせを僕にした。勤務時間内に決済印を押さない、退勤時間間際にどうでもいいような仕事を今日中にやれと振ってくる、などなど僕に残業させようとあの手この手を使ってきた。果ては「そんな仕事のやり方では出世できないぞ」と説教までする始末。この最悪な上司がいたおかげで僕は公務員に見切りをつけることができたので、今となっては感謝している。

 

僕の全くな個人的な経験だけを基にして僕の考えを表明するのはどうだかなぁとは思うけれども、やはり言いたいことがあるので言っておきたい。

「そんなにたくさんの中間管理職なんて不要だよ」と。

僕が正社員として勤めたのは役所(規模が大きい)と中小企業という両極端な組織であって、特殊なケースなのかもしれない。

僕が勤めた中小企業ではワンマン経営のところが多く、自分の意見がダイレクトに経営者に届いて、それはそれでよい面があった。しかし、経営者の意向がすべてだということでもあり、弊害もある。

 

やたらと中間管理職の多い会社は組織の維持にはうってつけかもしれないが、経営環境や社会の変化に対応できないし、さらなる発展がしにくいのではないか、と思う。全くの僕の独断と偏見ではあるけれども。

巷に流布する経営論等では分厚いミドル層こそが日本的経営が成功した要因であると述べられていた。一旦はこの論は衰退し、フラットな組織でないと会社は発展しないとなった。ところが、また中間管理職のポストを再び増やす傾向にあるという。

 

組織をフラット化し役職を減らすと、個々の管理職の仕事が増えて管理しきれないことになった、ということで再びミドル層の見直しが行われている。

これはおかしい。

部下に適切に権限や裁量を委譲できてないだけのことである。いや、部下に裁量を与えることで管理職の権限が奪われると思い込み、それができない無能な管理職が多いだけなのである。

また、中間管理職に就くことによって得られた好待遇を手放したくない、つまり既得権を手放したくないと考えている中間管理職たちが、屁理屈を並べ立てて自分の地位・既得権に固執しているのである。

また、中間管理職の数が多くなると「口出し」をする人が多くなり組織が硬直化する。下手をすれば「中間管理職たちを食わす」ために会社組織が存続することにもなりかねない。本来の意味でのマネジメントができる資質や経験を有する管理職だけがいれば十分なのである。

 

僕のような正社員としてのサラリーマン経験が少ない者が中間管理職なんて必要最低限でよい、殆どの中間管理職なんて不要だ、と言っても説得力はないのかもしれない。

しかしながら、サラリーマン根性に毒されていない、組織の論理に絡め取られていない(と勝手に自負しているだけだけれども)奴の言葉にも耳を傾けて欲しい。

 

「人権」はイデオロギーのひとつに過ぎないけれどもやっぱり大切なものという件

「人権」という概念はひとつのイデオロギーに過ぎない。普遍的な絶対的な真理ではない。人権思想を金科玉条とすると、「人権教」という宗教となり、人々はその教義に盲従するようになる。これはとても危険なことである。

 

僕は何も人権思想を否定しているわけではない。むしろ逆でとても大切な考え方だと思っている。ただ特定のイデオロギーを盲信することは危険だし愚かなことだと言いたいだけだ。

 

この国で基本的人権の尊重が広く受け入れられるようになったのは日本国憲法の制定以降である。戦前の明治憲法では「臣民の権利」という留保付きの人権が認められていたに過ぎない。国情が変化すると国民の権利は制限されたのである。人権思想が普遍的な真理のようなものになったのは戦後70年ほどの浅い歴史しかない。

 

僕は人権イデオロギーを「使い勝手の良い」概念だと思っている。一見普遍的な真理のような仮面をかぶったイデオロギーは様々な場面でその力を発揮する。

社会保障、特に生活困窮者の支援について考えてみる。

生活が困窮している人たちを助けるべきというコンセンサスは一応存在する。ただし、最底辺の労働者以下の処遇でも構わないという「劣等処遇」の原則を貫徹せよと考えている人たちは未だに多い。働かない人たちを怠け者だと断罪し、それらの人たちは野垂れ死にしても構わないという労働至上主義的なイデオロギーが未だに幅を利かせている。その労働至上主義的イデオロギーに対して「人権」という「強い」イデオロギーが社会政策を実施するうえでは必要となってくる。この強い人権イデオロギーによって人は誰でも人間に値する健康で文化的な生活を営むべきだという考えが導かれ、またその考えが正当化される。

この世知辛い世の中で何とか社会保障が実行され、生活困窮者が助けられているのは、生存権という強い人権イデオロギーに基づく権利が周知されているからである。

 

時折噴出する生活保護バッシングは生存権という強い人権イデオロギーに違和感を持ち、庶民の肌感覚としてある「働かざる者。食うべからず」という労働至上主義イデオロギーが顔を覗かせて、ふたつのイデオロギーがせめぎ合いを起こすことに端を発している面がある。

 

人権を錦の御旗に掲げて活動している市民運動に僕が違和感を持つのは庶民のリアリズムと乖離しているからだと思う。

また、これまで述べてきたように人権思想が単なるイデオロギーに過ぎないのに、「人権教」の信者となり何事も人権ありきという思考様式、行動様式を採る人たちに不信感があるからである。

社会運動は今、そこにある問題を解決するために行うものである。生きづらさを失くし、「生存」の危機を失くすためのものである。人権イデオロギーを広めるためのものでもなく、「人権教」の布教のためのものでもない。

 

ここまでつらつらと人権イデオロギーの負の面を述べてきたが、何だかんだ言って「人権」思想は大切なものであることには変わりはない。

人権イデオロギーを盲信するのではなく、ただ「使い勝手が良い」イデオロギーであると割り切ることも必要である。

この世に真の正義、普遍的な真理などないのだから。

真っ当な生き方をしなくても、楽しく生きていけるという件

世間で言うところの「真っ当な生き方」をしていれば大過なく人生を送ることができる。

世間との軋轢も避けることが出来るし、社会的信用もそこそこついてくる。

ある組織に帰属して「安定」した地位と待遇を受けていれば安泰だとかつては考えられていた。この組織は大きければ大きいほど良いとも思われてきた。

組織の一員としての自分、というアイデンティティを持つことが推奨されていた。自分という「個」を強く押し出すと、わがままだの扱い難いだのネガティヴな評価を受けるケースが多く見られた。

 

この社会は同調圧力が強く個人に圧し掛かる。

皆と同じがよい、横並びが普通でまともだと思われてきた社会である。

「意識の高い人」(良い意味で)は自分が抑圧され、能力が発揮できないと考え、ついには組織を飛び出すことになる。

僕のように意識の低い人間は違った意味で組織にい続けることが息苦しくなり、やはり組織から零れ落ちることになる。

いずれにせよ、両者とも「真っ当な」社会のレールから外れた生き方をせざるを得なくなる。

 

「真っ当」とされる生き方から外れても、そのことによって不幸になるわけではない。ちょっとだけリスクが高い生き方になるだけである。

起業したり、フリーランスになって成功すれば、組織人のときには考えられないような報酬や名声を得ることができる。一方で失敗すれば多大な負債を負う可能性もある。また、「安定」からは程遠い状態をずっと続けなければならない場合もある。

 

組織に留まって相対的に安定した生活を続けることが「真っ当な生き方」だと世間的に是認されている社会では、それを拒み違った生き方を選択することはいわば「逆張り」であるといえる。

当然にリスクは大きいし、不安定なものになりがちである。

成功する保証はどこにもない。

僕は公務員を辞めてフリーランスとして生きることを決めたときには、最悪の場合はホームレスになることを覚悟していた。まあ、実際はその当時は両親が健在でそこそこの生活レベルにあったので、何もかもを失った時には両親の許にやっかいになっていただろうけど。

 

僕はずっと「逆張り」の生き方を続けているわけだけど、意外と居心地が良いと感じている。確かにビンボー生活がずっと続いているけれど、悲壮感とは無縁である。少しばかりの「自由」があるのが何より嬉しい。将来はなるようにしかならないと、開き直っている。社会的な地位や信用は無きに等しいが、そんなものは屁でもない。

僕は「逆張り」の生き方を勧めているわけではない。真っ当に生きることが出来る人は、真っ当に生きた方が良いに決まっている。

真っ当に生きることは「王道」であると僕は思っている。

 

僕もかつては「真っ当に」生きようとしていた。自分にはそれが出来て当たり前だと思っていた。

けれども、どうも怪しいぞ、僕はダメ人間らしいぞ、と悟ったときに腹を決めて「逆張り」人生を進むことを決めたのだ。いや、違う、そうならざるを得なかったという方が正しい。

 

逆張り」人生もなかなかに面白い。  

僕はひきこもり体質である件〈再掲〉

僕は出不精であり面倒くさがりである。

だから意識しないとひきこもり的な生活になってしまう。

僕の場合の「ひきこもり」は病的なものではなく体質的なものである。

 

 

初出 2016/9/29

 

僕は短期間ではあるが何度かひきこもり生活を送ったことがある。その原因は不登校であったり、働くことに疲れてうつになったことである。

運が良いことに僕のひきこもりはこじらせることなく済んでいる。ある一定の期間をひきこもっていると「このままではいかん!」という気持ちが湧き上がってきて何らかの形で社会復帰の動きをし始めるのである。

ただ、安心してはいけない。

僕はどうやら「ひきこもり体質」らしいからだ。ちょっとしたきっかけでまたひきこもり生活に舞い戻る可能性を秘めている。

 

僕はかつてはこの自分のひきこもり体質を毛嫌いしていた。こんな調子ではまともな社会人になれないと恐れていた。社会での競争から脱落してしまい役立たずな劣った人間になってしまうと思い込んでいた。

僕は今では自分のことをダメ人間であると受け入れている。他者から怠惰な人間、やる気のない人間だと見られても何も感じなくなっている。馬車馬のように働き続ける人生に懐疑的になっている。人は働くためだけに生まれてきたのではない、との信条を持っている。

 

僕の全くの個人的な考えであるが、健全な(?)ひきこもり生活を送るためには「自己肯定感」が必要であると思っている。自己否定を伴い、社会を世間を呪ってのひきこもりはこじれてしまうからである。一度こじれてしまうと元に戻ることは困難となる。無理してこのどうしようもない社会に適応することはないとは思うけれども、何とか世間や社会と折り合いをつけて自分なりに楽しく生きていくためには少なくとも自分という存在を認める必要がある。

自己肯定感を持ち続けていれば、傍から見てどうしようもないような状況であっても悲観することはない。

 

僕はひきこもりやニート的な生き方をすべて肯定するつもりはないし、また全否定する気もない。もし、一生食うに困らない資産があるのならばひきこもりを続けても良い。

このエントリーはひきこもり問題の解決云々を述べるものではない。また、僕にはひきこもりやニートにかかる問題の解決を図るような意見を持ち合わせてはいない。

 

僕は自分がひきこもり体質であることを自覚してから、少しだけ生きやすくなった。親に多少の迷惑をかけても、親子関係が破綻するような事態に陥らないのならば、時と場合によってはひきこもり生活をしてもいい、と思えれば気が軽くなった。

母親には諦めてもらおう。

世に言う成功者とは縁遠い生活をしているこのバカ息子、ダメ人間の僕という存在を認めてもらおう。

 

何かの弾みでまた僕はひきこもり生活を送る羽目になるかもしれない。そのときは自己肯定感を失うことなく、心地よくひきこもり生活を送りたい。ただ、僕はまだ終わっていない、僕の人生はこれからだ、という思いを強く持ち続けながら。

 

誰でも即実践できます!あなたの不調をやわらげます あなたの心に灯をともす、根本的な解決法を伝授します