希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

他者の自由を奪うことは快楽につながるという件

僕は自由に生きること、自由であり続けることを大切にしている。完全なる自由など幻想にすぎないと分かってはいるけれども、限定はされていても自由であり続けたいのである。

 

人は人が大切にしているものを奪うことに快感を覚える、という側面がある。倫理的には良くないことだが、友人の恋人を奪ったり、不倫をしたりするとえも言えぬ快感を得ることがある。

 

僕の全くの個人的な意見なのだけれども(このブログは僕の全くの個人的な意見を発露する場である)、大きな価値を持つとされる自由を奪う行為はとてつもない快楽を得るものだと思っている。

人々を支配し統制することはその最たるものである。

支配ー被支配の関係は他者を隷属させることによって支配者は満足感を得るものであるが、他者の自由をはく奪し、その自由を自己のコントロール下に置くことに快楽を覚えるのである。この快楽は毒性の強い麻薬のようなものである。

 

これも全くの僕の独断なのだけれども、恋愛関係においても相手の自由をコントロールすること、あるいは相手の自由を奪っている状態になると心が燃え上がる。自分のために相手が自由であることを放棄しているさまが楽しくて仕方がないのだ。

建前上は「君のあるがままの姿でいてほしい」とかなんとか言ったりするが、本音では自分の支配下に置いて、自分のために縛られた状態であることを甘受している姿を見て悦に入るのである。

このような状態は対等な関係ではない。

しかしお互いに相手の自由を奪い束縛し合うことで愛情を確かめ合っている面もあることは否定できない。

親子関係においても同様のものがある。

子どものためだと称して必要以上に子どもを抑圧する親が結構な数存在する。ちょっと前に話題になった「毒親」がそうである。子どもが健やかにのびのびと育つことよりも親のエゴ、つまり子供を抑圧する(自由を奪い、支配下に置くこと)快感が上回ってしまうのである。

 

僕は自由を大切にしているので、大抵は僕の自由を奪い、僕をコントロールしようとする様々な言動に対して抗うことになる。恋愛関係でもそうだし、その他の人間関係においてもそうである。

しかし、人は皆自由を希求し、自由を奪うものに対しては抵抗するとは限らない。ことはそう単純ではない。

「支配されたがる人たち」は後を絶たない。「分かりやすい言葉」で人々を扇動する「強いリーダー」に盲従し、自由を差し出すことなんて古今東西数多く見られる現象である。

恋愛関係において束縛されることに喜びを見出す人なんて星の数ほどいる。

 

他者の自由を奪うこと、自分の自由を奪われることは快楽につながる。

とてつもない力を持つ魔力なのである。

これは人の持つ業なのかもしれない。

人の持つ本質的な何かなのかもしれない。

この魔力に骨の髄まで侵されないということはとても困難なことである。

しかしながら、僕たちはこの恐ろしい魔力に抗うことを忘れてはならない。

 

ある人たちのことを「非国民」とレッテル貼りをすることの危険性、という件

戦時中、国家の意に沿わない言動をする人たちを「非国民」呼ばわりして攻撃の対象としていた。たちが悪いのは人を非国民として詰っていたのは一般大衆だったことだ。当時の「常識」に外れる人たちはすべて非国民だったのである。

この「非国民」という言葉は死語に近いものとなっている。しかし、人を非国民呼ばわりするようなメンタリティはなくなってはいない。例えば会社等の組織の論理に馴染めない人たちを排除し、社会人失格のレッテルを貼る行為は同根のものである。

 

さて、この国の誇るべき人物であるバカボンボン総理のアベが唱える「一億総活躍社会」というスローガンである。こんなに内容がスカスカの空疎なスローガンは噴飯ものである。でも、アベの頭の悪さを揶揄している場合ではない。実はこのスローガンがこの国の真っ当と言われる人たち、いわゆる多数派に意外とフィットしているのだ。

「生涯現役社会」だの「ひとりひとりが輝く社会」といった類のスローガンに同調する人たちと親和性が高いのである。

 

僕は人が良いので「一億総活躍社会」といった空疎なスローガンを臆面もなく言うアベちゃんが腹に一物を持っているとは考えない。おそらくアベちゃんは本気であるいは善意からこのスローガンを作り出したのだと思いたい。

このスローガンが時の経過と共に霧消すれば問題はない。ああ、あの頃なんか言うてたな、といった感じで人々の記憶から消えてしまえばいい。

ただ、「一億総活躍社会」というスローガンが少しでも実効性があるものになったとしたら、少々厄介になる。

 

厄介になると言っても、多数派にとってではない。僕のような少数派、会社に馴染めず、世間から少しでも離れたいと思っている人間にとっては厄介になるのではと怖れているのだ。

つまり「活躍」しない、あるいはしようとはしない人たちを「非国民」扱いしやしないかということである。

僕の考えすぎなのかもしれない。

しかし、この国の多くの人たちは「空気」に流されやすい性質を持っている。もっともらしいスローガンに盲目的に隷従する性質を持っている。このことは過去の歴史が物語っている。

 

ただでさえ、世間ではとても同調圧力が強い。

正しいかどうかは二の次で、「みんな」が決めたこと「みんな」が思っていることに従わないと異端視される社会である。

「みんな」が自分たちの価値観を疑うこともなく、その価値観から外れた人たちを非国民としてバッシングすることは「みんな」にしてみれば容易いことなのだ。

 

それらのことは「一億総活躍社会」というスローガンへの対応だけに限った話ではない。

政府(権力者・支配層)が推し進める政策等に異を唱える人たちに対する執拗なバッシングは後を絶たない。最近は特にその傾向が強い。

異論が封殺されるような社会は歪な社会であり、とても不健全な社会である。

「非国民」であるとして人にレッテルを貼る行為は、異論を封殺する最も卑劣な行為である。また、人を思考停止に至らしめる危険な行為である。

 

「非国民」とは一体誰のことなのか。

安易に他者に対して「非国民」のレッテルを貼る行為は自分の首を絞めることになることを忘れてはならない。エスタブリッシュメントの手のひらで踊らされていることを忘れてはならない。

 

 

 

 

サラリーマンという働き方が「まとも」だという考え方を捨てようという件〈再掲〉

会社に雇われるという働き方が多数派となったのは高度経済成長期以降であって、歴史は浅い。

サラリーマン、正社員として働くのがまともだと、勝手に僕たちは思い込んでいるだけなのである。

 

初出 2016/9/13

 

会社や役所という組織に雇われて働く人たちが大多数になっている社会ではその価値観がサラリーマン仕様になるのも仕方がない。

学校を卒業してブランクがなくどこかの会社に雇われて働く、特に正社員として働くことが真っ当な社会人だとされている。やれ多様化だの個性化だのといった掛け声がなされても、この硬直した考え方は未だに幅を利かせている。

 

僕は雇われて働くという生き方を否定したいわけではない。現実問題として、殆どの人たちは何らかの形で組織に雇われる働き方を選ばざるを得ない。起業したり、フリーランスとして仕事をするのはなかなかにハードルが高く感じられる。

雇われて働くということは例外なく会社に「搾取」されているという事実に向かい合わなければならない。資本主義体制下では搾取自体は悪でも何でもない。労働者でいる限り、生活を営むのに必要な程度にしか稼げない、という現実を受け入れるしかないということだ。

 

僕は雇われて働くことの一番の弊害は組織の論理に絡み取られること、分かりやすく言えばサラリーマン根性にどっぷりとつかってしまうことだと思っている。サラリーマンを辞めたのにサラリーマン根性から抜けられない人たちも多くいて中には悲惨な状況に陥ったりする人もいる。

僕の友人A氏のエピソードを。

A氏は大手の銀行を辞めて独立起業を模索していた。ある時某県の就農セミナーに参加した。そのセミナーには実際に就農した人たちが講師として参加していた。その講師たちが「ボーナスがない」「給料をもらうことがうらやましい」等のボヤキを連発していたとのこと。この元サラリーマン就農者の話を聞いてA氏はやる気をそがれ、就農を辞めてしまった。

この元サラリーマン就農者の嘆きも理解できないわけではない。ずっと給料をもらってきた身からいきなり自分で稼がなければならない身になって辛かったのだろう。自営を始めたのにサラリーマン根性から脱することができないと、目も当てられない状況に陥ることが多々ある。僕も何人もこのような類の人たちと出会い、相談を受けたこともあるのだが、生憎と解決することは不可能だった。

 

サラリーマンを長く続けていると、サラリーマン的価値観に染まってしまい、なかなかその呪縛から逃れることができない。いわゆる組織人として優秀だった人たちにその傾向がみられる。サラリーマンとしては模範的で優秀な人たちが独立して成功するとは限らない。

サラリーマン、特に正社員という働き方がまともだと思い込んでいる人たちはフリーランスとして独立しても起業しても失敗する確率が高い。僕の全くの個人的な意見だけれども。

 

サラリーマンという働き方が真っ当だという考え方は幻想に過ぎない、と醒めた見方をしないといけないような気がしてならない。

たまたまこの国が経済成長を果たし、資本主義体制が成熟したから雇われて働くという人たちが多数派を形成しただけのことなのだ。国家や経営者連中の思いのままになっているだけなのだ。サラリーマンという働き方がまともだとされるのは、一過性のものに過ぎないのかもしれない。今は異端視され色物扱いされるような稼ぎ方、例えばせどりやネットビジネス等々によって生計を成り立たせている人たちを下に見るような風潮は近い将来に消滅している可能性がある。

 

どのような稼ぎ方をしても反社会的なものでない限り個人の全くの自由である。

サラリーマン、雇われて働くということだけがまともだという狭い偏った価値観が世間に蔓延っている限り、生き方の多様性が奪われ、生きづらさを感じる人たちを多く生み出す状況が続くことになる。

どんな形であれ、自分の食い扶持を稼いでいれば、その人は「まとも」なのである。

 

 

  

「家族団らん」が当たり前だと思っていた件

僕は高校を卒業するまで両親と暮らしていた。

数年前に父の死をきっかけとして実家に戻るまで20年以上ひとり暮らしを続けていたことになる。

両親とともに暮らしていた頃の記憶はかなり薄れてきているのだけれども、家族団らんの雰囲気は未だに覚えている。

父は必ず晩酌をしていて、そんなに僕と会話を交わすことはなかったけど、父が常に夕食の席にいるというだけで安心感のようなものがあったことを覚えている。

 

父は大体6時過ぎに仕事から帰ってきていた。年に1,2回、決算期のときにちょっとだけ遅くなることはあったが、残業は全くせずに早い時間に帰宅していた。

だから、僕は夕食の家族団らんは当たり前のことだと思っていた。どの家もうちと同じだと思っていたのだ。

高校生の時に仲の良かったガールフレンドが自分の父親はいつも深夜に帰宅するという話をしてとても驚いたことがある。たぶんガールフレンドのお父さんは大企業に勤めていたのだと推察される。友人連中に聞いてみると、大抵はガールフレンドのお父さんと似たり寄ったりで帰宅は遅いということだった。世のお父さんたちの多くは僕のところとは違って、「企業戦士」として夜遅くまで働き詰めに働いていることをそのときに知ったのである。

 

僕の父はいくつもの職を転々としたらしいが、僕が物心つく頃は中小企業の財務・経理責任者の仕事をしていて安定した状況だった。

僕が中学生のときに父の勤めていた会社が倒産したが、すぐに同じ職種で別の会社に転職できて、その会社で70歳まで勤め上げた。そのおかげで僕は私立大学に行くことができたのである。さらには長い間サラリーマンをしていたおかげでかなりの額の厚生年金を受けることができ、亡くなってからも母がそこそこの額の遺族年金を受けることができていて、僕は今少なからずその恩恵を受けている。

 

僕は父の働きぶり等にかなりの影響を受けている。

あいにく父の持つ勤勉さや真面目さは受け継がなかったけれども、定時退社が当たり前で残業なんかしない、会社と一定の距離を置くという態度は受け継いでいる。僕が長時間労働や残業を忌み嫌うのは、父の働き方に共感し、家族団らんが当たり前のこととして我が家に定着していて、そのことが良いこととして僕の心に刻み込まれていたからである。

もし、僕が結婚して家庭を持っていたならば、かなりの確率で家族団らんに重きを置くマイホームパパになっていただろう。でも、まあこれはないものねだりである。

 

僕は今は亡き父にとても感謝をしている。父を支え続けていた母にも感謝をしている。

父は無名のままに人生を全うしたけれども、何気ない「普通」の日々の積み重ねがとても大切なことだと僕に気づきを与えてくれたことが僕の財産となっている。

父をまじえた家族団らんの日々がもう戻ってこない、ということに時々淋しさを感じる。

父が生きているときにもうちょっとだけ父と話をしておきたかった、と思う。

 

 

 

会社になんか行きたくない、そう思っているあなたはまともだよ、という件

以前のエントリーでもふれたが、会社に行きたくないと思うことは誰にでもあることだ。

職場の人間関係が良好でない、上司がバカである、仕事自体がつまらない等々理由は様々である。 

 

僕は常に会社に行きたくない病に罹っている。仕事がつまらなくなくても、会社に長時間心身ともに拘束されるのがイヤでたまらないのだ。これで仕事がつまらないものだったら本当に地獄である。この心情はかつて僕が不登校になったことを鑑みて、僕が持って生まれた資質によるものなのかもしれない。

 

しかしながら、会社に行きたくない病は個人の資質や性格のみにその要因を求めるのは誤っていると思われる。

大多数の人たちが、程度の差はあるにせよ会社に行きたくないという気持ちを抱えているはずである。生活を成り立たせるために仕方なく仕事に行っているというのが実情ではないだろうか。あるいは「世間の目」を憚って、真っ当な社会人を演じるために重い足取りで会社に向かうのではないだろうか。

 

会社に行きたくないとの気持ちを抱くのは、サラリーマンが実際は「賃労働者」であることによるものだと僕は考える。

労働者はその本質において心身の大部分を会社によってコントロールされている。生殺与奪を会社に握られているのだ。

労働者の従事する仕事も会社の利益追求のためにのみなされるものである。

労働者が働けば働くほどその成果は会社に搾取される。労働者が受け取る成果としての報酬は利益のほんの一部に過ぎない。これは資本主義社会の大原則である。資本主義社会は労働者の「搾取」によって成り立っているといっても過言ではない。

「搾取」自体は悪ではない。

労働者は自覚するにせよしないにせよ、「搾取」されることを前提として働く場を与えられ、幾ばくかの賃金を得て、ようやっとギリギリの生活を維持できるのだ。

いくら働いても生活が楽にならない、と思っている人たちは多いはずだ。

それは当然のことである。

資本主義自体がそのようなシステムになっているからである。労働者は「生かさぬよう、殺さぬよう」に使い倒して、会社は儲けを出す。尤も、労働者を「殺す」だけのブラック企業という資本主義の鬼っ子も存在するが。

このように「賃労働者」の本質を見れば、僕たちが無意識下で(あるいは意識して)会社に行きたくなくなる気持ちは理解できる。

会社に行きたくない、という思いを抱く人たちはある意味まともな神経の持ち主だということだ。

 

会社に行きたくないときには、時にはサボって休んでみてもよい。そのために有給休暇がある。

自分が休めば仕事が回らないなんて、考えないほうがよい。そんな会社・部署はマネジメントがなっていないだけの話なのだ。1日や2日休んでも会社は潰れない。このように割り切ることも大切だと僕は思う。

 

何より、自分は「労働者」であると自覚することが大切である。ビジネスマンやホワイトカラー等の見せ掛けの呼び名に騙されないことだ。

自分は会社に搾取され放題の一労働者に過ぎないとの自覚と、同時に矜持を持つことだ。

労働者であるという自覚と、労働者としての矜持が、自分を変えることになるかもしれない。

 

 

   

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