希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

「面倒なことはヨソでやってくれ」というメンタリティはどうなのかという件

僕たちの経済的な自由は公共の利益に反しないかぎり保障されている。日本国憲法にも規定されている。

資本主義体制下では私的財産権が最大限に保障されてもいる。

自分の持つ不動産や動産は他者によって不当に簒奪されない。今では当たり前のことだけれども、例えば中世のように中央政府の統制がきかない社会では自分の財産が力づくで奪われるケースが多発していたのである。

 

私的財産権を保障するということは、自分の財産の価値が毀損されそうな事柄があればそれを拒否できる権利がある、ということである。

 

ごみの焼却施設や福祉施設等を作るときにしばしば近隣住民による反対運動が起きる。それらの施設は公共の利益に資するものであるから、近隣の人たちは多少の不利益を甘受しなければならない、といわれる。

公共建設物だけではなく、例えば公園でホームレスへの炊き出しをしようとするとやはり反対する住民が出る。

これらの反対運動をする住民は表向きの理由としては静かに暮らす権利や環境権などを出してくる。同時に自分の有する資産の価値が減少することをおそれている。

当事者以外の人たちはそのような反対運動を「住民エゴ」だと指弾する。

自分さえ良ければいいのかと、公益よりも自分の財産権を優先するのか、と言いたいのだ。

 

住民運動を非難する人たちは、いざ自分が同じ立場に立てばどういう行動をするのか、このあたりは曖昧なままである。

おそらく両者の間には隔たりはない。

要するに「面倒なことはヨソでやってくれ」と考えるはずである。

反対運動をする人たちは他の人に比べて公共心がないわけではない。ただ、自分(たち)だけが不利益を被るのは納得がいかない、と感じているだけなのである。

 

僕は以前に福祉施設建設に反対する住民エゴを批判的に書いたことがある。そのときから時間が経って、ちょっと待てよ、と考えを巡らせてみて、一方的に住民エゴ的なものを断罪するのは正しくないのでは、という思いに至ったのである。

公共の利益の名のもとに、個人の経済的な自由を侵すことが是とされる社会は危ないぞ、と思い始めたのである。

経済的な自由を無制限に認めることは問題がある。しかしながら、公共の利益・公共の福祉という名の権力行使(暴力と言ってもいい)が際限なく認められることも大問題である。

 

典型的なケースとして原発の問題がある。

電力の安定供給は公益であり、国益でもある。だからといって安全性が完全に担保されていない原発を国家のあるいは電力会社の恣意的な判断で稼働させることには疑問がある。ましてや「原子力村」と揶揄される既得権者の利益を守るために安全を後回しにする、という態度が透けて見えるから反対運動が続いているのである。

自分の住んでいる近隣に原発があり、そんな危ないものなんかやめてしまえ、という要求は「住民エゴ」と片付けていいものなのだろうか。

 

「面倒なことはヨソでやってくれ」と考える人たちを全否定などできない。ある意味人の持つ素直な欲求だからだ。かと言ってこのような考え方を全面的に肯定することもできない。

ただ、「面倒なことはヨソでやってくれ」という声を上げる自由は広く認められるべきである。

杓子定規的な考え方となってしまうが、公共の利益の実現によって失われる個人の財産権の侵害の度合いを少なくしつつ、公共の利益が及ぶ度合いを最大化するために個別に交渉しながら折り合いをつけるしか手はない。

 

僕が当事者ならば、「面倒なことはヨソでやってくれ」と思うに違いない。でも、人は社会的な生き物であることも承知している。

この社会で生きていくうちに、時として社会存立のために自分の自由や財産が損なわれることもある、それは仕方のないことだ、とある種の「諦め」の気持ちを持たなければならない。

同時に公権力が公共の利益・公共の福祉という美名のもとに僕たちを抑圧することがある、ということも忘れてはならない。

 

 

 

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