希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

(自分ことは差し置いて)本当のバカとは誰のこと、という件

この世では多くのバカが棲息している。

大人しくしていればいいものを、バカに限って大手を振って世間を跋扈している。

 

僕がバカだということは一旦置いといて、この世に蔓延っているバカな人たちについて私論を述べていきたい。

 

高学歴だからバカではない、とはいえない。

官僚や政治家、大企業の経営者や幹部など社会的地位が高い人たちの中にもバカは沢山いる。

自覚症状のないバカが世の中を牛耳っているからこのクソつまらない社会が変わらないままで続いている。

 

僕がバカだと思う人たちの特徴其の一。

やたらと精神論と根性論を振りかざす人たち。

「死ぬ気になって頑張れ」とか「やる気を出せ」とかすぐに言い出すバカが多い。

ある課題を解決するためには合理的に状況を分析し、効率的な解決策を考え出して実施すべきなのは自明の理である。ビジネスにしても公的なセクションにおいてもそうである。

精神主義も時には有用ではあるが、あまりにも精神論に傾くと、問題の本質から乖離していくことを想像できない輩が多すぎる。戦前の軍官僚たちがその典型例である。

人のやる気や意欲を奮い立たせる手法は、責任を負うべき者たちの無責任体質を生み出す。結果が伴わないのは、本人のやる気のなさ、努力不足だとの言い逃れを可能にするからだ。

バカに限って精神論や根性論を好む。合理的で具体的な解決策や手法を編み出す能力が欠如していることを覆い隠しているのである。

 

バカの特徴其の二。

すぐに感情的になる人たち。

対話や議論が成立しない人たち。

こちらの主張を受け容れる器量を持たず、かつ自分の器の小ささに気付かずに、すぐに感情的になって聞く耳を持たなくなる人たちもまた多い。何か意見をされると自分の存在が否定されていると感じるようなメンタリティを持っている。一種の被害妄想を抱えているのである。

この感情的な人たちは前述の精神論・根性論と親和性が高い傾向にある。

これらの両方を併せ持っていると、タチの悪いバカとなる。

 

バカの特徴其の三。

自分の価値観を他者に押し付けて恥じない人たち。世の中には多様な価値観があり、人それぞれが有する価値観は違うということが理解できないバカが多い。

典型的なのが「今の若い奴らはなっていない」とか「俺の若い頃はこんなものじゃなかった」とかすぐに言い出すオヤジ連中である。

自分が経験した狭い範囲での話をさも普遍的な真理だと思い込んでいるバカはオヤジ連中に限らず世間では多く棲息している。

確かに自分が経験したこと、特に成功体験は他者に有意義なヒントを与えることは時々あるにはある。しかし、それらはあくまで個人的な体験であって、普遍的なものではない。多くの成功体験は他者にとっては有意義なものとはならないことを胆に銘じておかなければならない。自分が持つ価値観はあくまで自分だけのそれであって、他者に押し付けるべきものではない。

 

ここで書いたバカ論は全くの僕の独断であって人口に膾炙するものではない。重々承知している。

僕は頭が良くないが、バカにだけはなりたくない。

僕は救いようのないバカにならないためにも、常に謙虚さと内省を忘れないようにしたいと、心しておきたい。 

「働き方」は個人の自由なのに国家が介入するなんて無意味だという件

現政権が「働き方改革」なるものを掲げている。

僕はこのことに強い違和感を持っている。

どのように働くかなんて全くの個人の自由である。あるいは個々の会社が独自に決めるべき性質のものである。

僕は労働至上主義イデオロギーに強い拒否感を抱いてはいるけれども、働き方が生き方に少なからぬ影響を与えるということについては肯定的である。

 

正社員と言う雇用形態による勤務が唯一真っ当な働き方であり、非正規雇用、短時間労働、掛け持ち、フリーランス等の働き方は異端である、というような考え方は時流にマッチしていないしあまりにも硬直的である。

正社員を標準モデルとして組み立てた社会保障制度はもう限界にきている。ライフモデルが多様化しているのに働き方の選択肢が少ないと生きづらさを抱える人たちを大量に生み出すおそれがある。

それぞれが好きなような働き方をして好きなように生きる、そんなライフスタイルが許容される社会が望ましい、と僕は強く思っている。

 

かつては人々を均質化し標準化した方が経済成長を果たすことができ、同時に権力者層が統制しやすくなると考えられていた。事実そのとおりとなった。しかし、工業化社会から脱し、経済成長が一段落すると社会の活力が失われることになった。

人をある特定の枠にはめること自体に無理があるのである。

働き方や生き方についても同様であって、国家やあるいは社会・世間が推奨する特定のモデルを設定し、それを人に当てはめようとすると様々な問題が生ずるのである。ひきこもりやニートについても、それらは個々の資質の問題だけではなく、社会システムの歪みによってもたらされたものである。

 

国家が個々人の「働き方改革」について旗振りをするのは一見良いことのように思われる。

しかし、天邪鬼の僕からすれば「一見良いこと」に国家が介入するのは裏があるのではと勘繰りたくなるし、またそもそも論として個人の自由に関わる事柄に国家が介入すればロクなことにはならない、と思えてならない。

国家が「働き方」を改革せよ、というのはまた同時に国家がその改革の枠組みを決めて、結果として人々を一定の鋳型に押し込めて、国家にとって都合の良い人たちを多く生み出していくことにしかならないと思ってしまうのだ。

 

働き方の改革、働き方の多様性とはつまるところ会社にとって都合の良いものとなり、同時に働く人たちにとっても好都合のものにならないと意味がない。会社と労働者が双方とも利益を得られないと発展性がなくなるのである。

国家の介入がないと働き方改革ができない、とするのは政治家や官僚の思い上がりに過ぎない。「民間」のもつ潜在的能力を低く見積もっていることの証左である。政治家や官僚どもの思考力の低さ、柔軟性の欠如、問題解決力の欠如はグランド・デザインを欠く政策によって現状の社会の閉塞感を生み出している事実を鑑みれば自明のことである。

 

働き方改革にしても、「民草」に全面的に委ねればいいのである。

会社や労働者が自律的に行動を起こし、結果何とかなるはずである。

嫌なことや辛いことから逃げることは悪いことではないという件

人は誰しも嫌なことをしなくても済めばそれに越したことはない。

嫌なことをやり続けると精神衛生上良くないし、そのことによって心身を壊してしまうこともある。

この国では古来から嫌なことをやり続けることが美徳であるという風潮がある。何事も我慢が肝要で、我慢を続けることによって人格が磨かれるなどという、僕からすれば妄言と思えるような言説がまかり通っている。

確かに人生の途上において嫌なことをしなければならないこともある。我慢を要する出来事にも出くわすこともある。

だが、嫌なことや我慢しなければならないことをすべて甘受する必要はない。

時には嫌なことから逃げても良いと思う。

我慢できないことには素直に我慢をしない選択をしてもよい。

 

過労死や過労自殺に至った人たちは我慢強い人が多かったのではないだろうか。この国では美徳とされる忍耐強さや我慢強さによって生命を絶たれることになってしまう。不条理である。

働きすぎることによって死んでしまうなんて異常なことだ。

責任感が強いことや忍耐力があることが徒となってしまうなんて絶対におかしい。

過重な仕事から逃げるという選択肢を常に用意しておくことが必要なのかもしれない。

 

この社会では何事かから「逃げた」人たちを非難する傾向がある。ある問題に正面から立ち向かい最後までやり遂げることが尊いという考えが一般的になっている。

確かに困難な出来事に遭って、それを克服するためには少々のことで逃げてはならないと思う。あれこれと解決策を考え、試行錯誤を繰り返すことによって人間的に成長するとも思う。

しかし、自分の限界を超えてしまったとき、にっちもさっちもいかなくなったときには「逃げる」という道も開かれておくべきだ。

人はそれほど強い生き物ではない。

学校でイジメに遭って追い詰められたときには学校を休むなり転校してもよい。本来はいじめる側に何らかのペナルティを課すべきではあるが、公立の義務教育では現実問題として難しい。

イジメに負けるな、という悪しき精神論に従ってはならない。

劣悪な労働条件で働くことを強いられている人たちも我慢の限界を超えたら、その会社を辞めて転職をすればよい。

会社や同僚に義理立てをする必要はない。

自分の命や健康を最優先に考えるべきである。

誰にもこの行為を非難する資格はない。

 

人は自分の好きなことをすれば快楽を感じる。

当たり前の話だが、この当たり前のことが意外とないがしろにされているのではないだろうか。

好きなことばかりをしている人を見ると、多くの人たちは眉を顰める。嫌なことから逃げた人に対しても同様の態度を取りがちだ。

 

人生は楽しむためにある、と僕は思っている。

嫌なことの内の何割かは「逃げて」、自分にとっての居心地の良さを追求してもよいはずである。

   

「安定」ばかりを追い求めるとそこに落とし穴があるという件〈再掲〉

僕は安定なんて幻想だと思っている。

安定がないと不安だという心理は理解できるが、安定ばかりを求めると何か大切なものを失ってしまう、と思えてならない。

 

初出 2016/7/11

 

僕たちは常に何らかの不安を抱えながら生きている。

病気になったら、会社が潰れたら、老後はどうなるか、などなど考え出したらキリがない。

これらの不安を打ち消すために、「安定」を得ようともがくのだ。

学歴を得る、大きい会社に勤める、正社員になる、貯蓄に励む、結婚して子を得る、といったように。

しかし残念ながら「安定」を得ようとすればするほど不安は増大していく。際限なく増大する不安感を払拭しようとさらに安定を求めてもがき続ける。

 

僕はかつて安定の代名詞的な公務員をしていた。

そこで出会った人たちは世間の噂通り、かっちりと生活設計をしている人が多かったように思う。20代のうちから住宅財形貯蓄をして貯め込んでいる職員もざらにいたし、まだ定年には程遠いのに自分の退職金を計算している人たちも多くいた。独身なのにローンを組んで持ち家を購入している人もいた。

何より大半の職員は、自分の今の生活が永遠に続くということに疑いを持っていなかった。安定を自明のものとしていた。大過なく職業生活を送ることを旨としていた。僕はこの雰囲気に最後まで馴染めずにいた。

 

公務員ほど極端ではないにしても、多くの正社員は似たようなメンタリティを持っているのではないだろうか。大企業といえども安泰ではない、リストラに遭う可能性が高くなっている、という事実に対してどこか対岸の火事のように思っている人たちが多いのではないだろうか。「安定」という幻想に縋り付いている。

 

「安定」を得ようとして、その方策を実行していくと、知らず知らずのうちに自分の生き方の幅が狭くなっていく。毎月一定の収入を得るために今勤めている会社に居続けなければならない。ローンを払い続けるため、今の生活水準を保つためにやはり今の仕事を変えるわけにはいかない。安定した生活を守るために雁字搦めになっている今の状態を受け入れなければならない。

 

僕は「安定」という幻想を捨て、その縛りから逃れる生き方もありなのではないかと思っている。

人とは大したもので、ずっと不安定な状況が続くとそれが当たり前となり、不安定さを感じなくなってくる。下手をすればその不安定な状態が心地よくなってくるものだ。

安定と不安定の間に大きな溝などなくて、両者の間には薄壁1枚の隔たりがある、その程度のものである。

 

「安定」を捨てるとそこから何かが始まり、新しい風景が見えてくることがある。月並みな表現だが、「自由」らしきものを得られることがある。

「安定」を得るためにあくせくすることと、それを捨て楽しく生きること、どちらが良いとは一概には言えない。人それぞれの価値観による。

 

僕は「安定」はなくても楽しく人生を送りたい。 

苦労することを賛美するのはとても無責任だという件

僕は苦労なんてしたくない。

できれば楽をして生きていきたい。

効率的に稼いで自由時間をたっぷりと確保してその自由を満喫し面白く楽しく生きていきたい。

 

「苦労は買ってでもしろ」と先人は言ったらしい。この言葉を金科玉条としている人が結構いる。成功者と言われる人の中にも苦労は多くした方が良いといった類の教訓を垂れる人がいる。世間ではそのような人たちの言葉をありがたく受け取る風潮がある。

何のことはない。成功者はその道で成功したから苦労しろ、と無責任に言えるのだ。苦労と成功の間に相関関係はない。苦労なんかせずに、あるいは苦労とは感じることなく成功した人なんてごまんといる。

成功者といわれる人たちは本来ならば苦労なしで効率的に成功する方法を広めるべきである、と僕は思っている。

 

苦労することを賛美することは悪しき精神論、根性論に即時に転化する。

何事かを為すためには苦労せねばならない、となると人のチャレンジ精神を削ぐことにもなりかねない。

通常、成功に至るプロセスを踏むことは「苦行」「苦労」であってはならない。それは「快楽」を伴うものであって然るべきである。

世の多くの人たちは楽しんですいすいと成功した人を好まない傾向がある。「うまいことやりやがって」とそのような成功者を妬み、ひどいときには引きずり降ろそうとさえしようとする。苦労することは成功者の免罪符的なものなのかもしれない。

 

若者をバッシングする若者論のひとつに今時の若者は苦労が足りないからダメだ、というものがある。これは全く根拠の無い俗論である。

多くの苦労をした人が人格者であるというのはこれまた根拠の無い俗論である。散々苦労をして人格が歪み、人間不信になった人なんて星の数ほどいるのである。

 

要は人というものは、他人の成功を心から喜ぶことができず、その成功を妬み、その妬みや嫉みを正当化するために苦労云々を持ち出すのである。

エリート的な人たちに対するネガティブな感情もその表れだと言える。

人は生まれながらに持つ資質に差がある。これは否定できない事実であるにもかかわらず素直にそれを受け入れることができないのだ。悪しき平等主義に毒されているのである。人はすべて平等である、というのは幻想に過ぎないのにである。

 

僕は苦労することを賛美し、他者に苦労することを強いる人を信用しない。

自分の苦労話を(その苦労によって成功した俺ってすごいだろう的な)得意げに話す人たちのメンタリティが理解できないし、その言葉は全く耳には入らない。自分の苦労話を恥ずかしげもなく他者に押し付けるのは品のない行為である。

 

苦労なんてしないに越したことはない。

傍から見ればものすごい苦労をしているのにそれを淡々と話す人、苦労なんてこれっぽちもしていないとあっけらかんとしている人が僕は好きだ。

そのような人たちはみないい顔をしている。

 

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