希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

「寄らば大樹の陰」というメンタリティには陥りたくないという件

「寄らば大樹の陰」。

僕が最も嫌いな故事成語である。

「強いものには巻かれろ」と同じくらいに。

確かにこの世知辛い世の中を泳ぎ渡るのに必要な処世術だとは思う。権力に抵抗しても碌なことにはならない。強い者に媚び諂って生きた方が結果として「実」を取ることになる、とシニカルに言う人が多い。

 

強き者、権力を持つ者に魂を売って実利を得るという生き方に僕は強い拒否感を持つ。それでは奴隷と同じではないかと思ってしまうのだ。

僕は弱き者として生きていきたい。弱い者ながらも誇りと矜持を持って生きていきたい。

 

僕のような実利をないがしろにした生き方をしていれば社会的地位を得ることもなく、また経済的な豊かさを享受することなく朽ちていくことになる。世に出ることもなく無名の人生を全うすることになる。僕はそれはそれでいいと思っている。

できれば名誉を得たいというエゴ、カネを得たいと言うエゴをすべて棄て去りたい。

 

そもそも「寄らば大樹の陰」という生き方が本当に成り立つのか疑わしいと僕は思っている。

寄るべき「大樹」が未来永劫存在し続けるわけではない。

支配者層がいつまでもその椅子に座り続けることはない。歴史が指し示しているように。

ましてや大企業がいつまでも繁栄し続けることなんてありえない。

「大樹」を失えばそれに寄りかかって生きていた人たちはどうすればよいのだろう。また別の「大樹」を見つけて、それに寄りかかって生きるのだろうか。

 

弱者にやたらと「自立」を強いる人たちに、「寄らば大樹の陰」的な生き方をしている人たちが多いのは滑稽以外の何物でもない。彼らこそ全く自立をしていない、その事実に目を背けている哀れな人たちなのだ。

 

僕は「寄らば大樹の陰」的な生き方をよしとするメンタリティが理解できない。自分を失ってまでも得るべき果実とはそんなにおいしいものなのだろうか。それとも、人は大きくて強いものに寄りかかれずにはいられない生き物なのだろうか。

 

自分の頭で考え、判断し、自分なりの道を切り開いていく生き方が面白くてワクワクする生き方である。青臭い理想論だとは重々承知している。

でも、この理想の実現をはなから諦めて、他の何かに従属する生き方をすることを僕は潔しとはしない。

 

僕には寄るべき「大樹」は不要である。

経済的・物質的に報われない人生でも、それを受け容れていく覚悟がある。

 

 

 

 

 

  

仕事を生活の中心とするな、という件

表題の言葉は僕のオリジナルではない。

ニートや引きこもり支援をしているニュースタート事務局を主宰している二神能基さんの著書で用いられている言葉である。

説得力のある名言なので引用させていただいた。

 

多くの人たちは仕事が生活の中心となっていることを自明のものとしている。

趣味や社会活動の時間は仕事をやりくりして捻出するように、何事も仕事ありきで考えがちである。このことを半ば常識であると捉えている。

自分の仕事に支障が出るようなことは極力排除するようにしている。

自分の仕事以外の活動のために有給休暇を取ることは何となく憚られるような風潮がある。

仕事を「公」のものと考え、滅私奉公をすることがまともな社会人である、という一見古臭い考え方が未だに残っている。

 

僕は何度もこのブログで仕事は人生の一部に過ぎない、と言ってきた。

この仕事観、人生観、価値観はあくまで僕個人が持っているものなので絶対的に正しいとは言えない。仕事=人生だとの価値観を持っている人たちを否定するものではない。自分の仕事に全精力を注ぎこむ生き方を選んだ人たち、そんな仕事に巡り合った人たちはある意味幸せである。

しかしながら、仕事一筋の人生は何となく歪である、偏っていると思えてならないのだ。もし、その仕事を失ったり、仕事ができなくなる状況に陥ったときにどうするのだろう、と心配になってくる。

 

殆どの人たちは自分の生活を営むために何らかの形で仕事をしなければならない。雇われる形であれ、フリーランス・自営であれ。

元々は生活費を稼ぎだすための手段として仕事をしているはずだ。仕事が人生の目的になっているわけではないはずである。

巷では仕事を通して自己実現を図るだの、仕事が人生を決めるなどといった言説がまかり通っている。よくよく考えてみるとおかしいことである。会社は利益を追求するために存在するのであって、労働者個々の自己実現なんて関係のないことである。労働者は会社に「搾取」されることを前提に自分の労働力を売っている、それ以上でも以下でもない。「自己実現」の類は会社が労働者を統制するための道具に過ぎないのである。

 

人々の生活は仕事の場以外の家庭や地域社会、様々なコミュニティでの営みも大切なものである。言い換えれば、自分の「居場所」を確保し、そこで自分の役割を果たして他者に承認され自身の存在意義を確かなものとするのである。

仕事の場以外に自分の居場所がない状況に陥ると人生の幅が狭まるし、何より生きづらさが増幅することになる。仕事を生活の中心とすると容易にこのような状況に陥ることになる。

 

今は、あるいはこれからは仕事を生活の中心としないような生き方を選択することがより良い人生を送るためのひとつの方法となる、と僕は思っている。

会社や役所等の組織はその成員に仕事中心の生き方を強いて、組織の論理に絡め取ろうとする力学を働かせる。放っておけば個々の「私」の領域をどんどんと侵食してくる。そして次第にそれに抗う気概や気力を奪ってしまう。

フリーランスという働き方を選んだ場合でも、仕事中心の生活をしていると同様のことが起きる。

 

僕は「仕事を生活の中心となるな」という言葉を常に心に留め置いておこうと思っている。労働至上主義イデオロギーに毒されないためにも、勤勉至上主義イデオロギーに抗うためにも。

人に何と言われようと、仕事だけの人生で終わりたくない。

非正規雇用という働き方は悲惨なのかという件〈再掲〉

正社員と非正規雇用という「身分差」はなくした方が良い、と僕は考えている。そのためには同一労働同一賃金の原則を確立する必要があるだろう。

何よりも非正規雇用という雇用形態も「真っ当な」働き方である、というコンセンサスがこの社会に浸透する必要がある。

 

初出 2016/7/5

 

全就業者に対する非正規雇用の割合が40%に達している。

この統計から導き出される結論は論者によって異なる。「安定」した働き方を重視する立場からは大問題となるしグローバル化を是認する立場からはさもありなんということになる。

僕は派遣やパートタイム等の非正規雇用労働者はこれからもずっと増え続けるし、それは仕方がないという立場である。

 

経済格差を問題視するような著書やコラム等で非正規雇用労働者の悲惨さを殊更に強調する論者が数多くいるが、僕はそれらに違和感を覚えている。その主張の多くは正社員と非正規雇用社員との格差や非正規雇用の人たちの「貧困」を強調し、さらには正社員になるルートがかなり狭いことを問題にしている。そこには正社員こそがあるべき働き方であり、正社員になりさえすれば様々な問題が解決するという偏った価値観が見え隠れする。正社員という働き方が正しい、スタンダードだという古い労働観が透けて見える。

 

正社員か非正規雇用かという働き方が問題なのではない。

両者の間に存在する処遇の格差が問題なのである。身分差別ともいえる不合理な格差こそが問題なのである。

会社に隷属する正社員という働き方を忌避する人たちも多くいる。会社は生活費を稼ぐための場だと割り切った働き方をしたい人たちは多い。社畜化してまでも正社員の座に座り続けたいという人たちはそれほどの多数派ではない。ただ仕方なく会社にしがみつき、正社員という立場を守り続けているのである。

 

完全なる同一労働同一賃金に移行するのは無理がある。しかし、一部の正社員層の処遇を切り下げ、非正規雇用労働者の処遇を切り上げる手立ては講じるべきである。少なくとも非正規雇用でも都市部でちょっとだけ余裕のある生活レベルの一人暮らしが可能なほどの処遇が確保できれば大方の問題は解決する。

結婚して子育てをする段になっての住宅政策、教育費の無償化等の社会政策が適切になされればもう正社員にこだわることもなくなる。

 

非正規雇用労働者が悲惨だとされるのは、都市部で一人暮らしが困難なこと、いざ結婚となれば子育て費用や住宅費の負担が重い現状、社会政策の不備のツケをもろに個人が被るからである。これは正社員にとっても同様で、住宅費と子女の教育費の過重な負担が転職や起業の芽を摘み、会社にしがみつく要因となっている。

 

ただ、社会政策の拡充には時間もかかるし財政上の制約もある。

今は堅牢な社会システムに対して個人として向き合うしかない。人それぞれの置かれた状況や価値観は異なるので絶対的な処方箋は存在しない。

まずは高度消費社会の常識から自由になることだ。カネがなければ何もできないという常識から逃れることだ。必要最低限の生活費を見直し、少ないカネで生活できる体質に変換する。人の欲望にはキリがない。その限りない欲望を肯定し、それを原動力にしているシステムが資本主義なのである。

さらには非正規雇用という働き方も真っ当な、立派な働き方であるということを忘れないことだ。世間に蔓延する正社員だけが真っ当な社会人だという狭い偏った労働観や人生観に同化しない。会社に隷属する生き方を疑ってかかることだ。非正規雇用という働き方をしている人々が劣っているなんて決してない。ただの働き方の違いに過ぎない。

 

資本主義の経済・社会システムからちょっとだけズレた思考様式を持つことができれば、どんな働き方を選択しても飄々としかも楽しく生きていくことができる。

非正規雇用という働き方が悲惨なんて妄言を笑い飛ばすことができる。

  

僕は中年のオッサンだけれども、若者批判の俗論には辟易しているという件

気が付けば(と言うか気が付かないようにしていて)僕も立派な中年のオッサンになってしまった。

若い頃は今の僕くらいの年齢になれば分別も付いて人格円満になると思っていたが、ところがどっこい「成熟」には程遠い現状に直面している。

相変わらず色んなことに腹が立つし、他者に対して寛容になれない。

達観とは程遠く、人生の何たるかが分からないまま、もがいている。

 

オッサンになって僕はひとつだけこれだけはすまいと心に決めていることがある。それは安易に若者バッシングをしないこと、それらに類した言説に与しないということだ。同時に若者に迎合もしない。

年少者に対してリスペクトの念を忘れず、かと言って下手に出ることもせず、対等な人間として常に向き合いたいと思っている。

 

思えば僕は若い頃、オッサン連中が大嫌いだった。自分が近い将来にオッサンになることに思いが至らず、自分とは住む世界が違う人たちだと思っていた。

オッサンがする自慢話に辟易し、オッサンの好きな根性論や精神論に嫌悪感を抱いていた。オッサンたちほどコミュニケーション能力が低い連中はない、と思っていた。人の話、特に若者たちの話を聴くことができない。自分の手柄話をさも絶対の真理のごとく押し付けてくる。会社ありきの人生に疑いを持たず(そのように見えていた)その人生観をこれまた押し付けてくる。

自分の人生を半ば諦めているのに、それを受け入れることができない、往生際が悪いことがオッサンの本質だと思っていた。世の中に不満を持っているのに、それを変えようという気概を持っていないこともオッサンの本質である。

 

オッサン連中の不満の矛先は大抵は若者たちに向かうことになる。

サラリーマンなら部下の殆どは若者たちであり、実際に接する機会が多いために若者を批判したくなる気持ちは分かる。しかしながら、若者をバッシングしても何も生まれない。

若者はいつの時代も未成熟であり、上の世代から見れば理解不能であり、オッサンとは相容れないものである。

 

どの時代の若者も特有の行動様式があり、特有の価値観を有していて、その時代の世間の空気に抗うような面を持っているものである。

オッサン連中はそれらに眉を顰めて、批判をすることで自分の存在意義を確認していたのである。あるいは未成熟な若者に自分を対置させて優越感を持つことで安心していたのかもしれない。

 

オッサンが若い人たちを理解できないのは当たり前である。

人は自分が生きた時代の「空気」みたいなものを取り入れて自分の価値観なり人生観を作り上げていく。長く生きれば生きるほど世間のしがらみに絡め取られていく。

自分とは異なる価値観や常識を持った人たちとの対話を拒否していれば何もそこから生まれないし相互理解も不可能である。

 

オッサンは若者をバッシングして溜飲を下げるようなことばかりしていてもいけないし、かと言って訳知り顔で理解したつもりになってもいけない。両者の間に差異があるのが当然として、普通に付き合っていけばいいのである。その「差異」も実はとるに足らないものであることが多い。

自分とちょっとだけ「異質」な人たちと向き合い、受け入れることが実はとても面白くて楽しいことなのである。

この程度の寛容さは是非とも持っておいた方がよい。

強いリーダーなんて要らないという件

混沌とした世の中になってくると人々は強いリーダーを求めがちである。

確かに昨今のこの国のリーダーたちは不甲斐ないと見えるし、実際にその資質が疑われるケースが多発している。

僕は「強い」リーダー待望論に懐疑的である。

リーダーに強さばかりを求めると取り返しのつかない事態に陥るのではないか、と心配になるのである。

 

僕は「誰もがリーダー」なんて悪しき平等主義にも拒否反応を示す。

やはり、リーダーとしての資質を持つ人が人の上に立つべきだと考えている。

僕の個人的な意見なのだけれども、リーダーとしての資質は次のようなものだと考えている。

まずは社会的な弱者とみなされる人たちの思いや立場を理解できること。「共感」というレベルまでは要しない。自分が強者であることを自覚しつつ強者の目線のみでものごとを捉えないことである。

次に自分とは異なる意見や思想、立場の人たちを包摂し、時にはそれらの人たちの利益に資する行動を採ることができるような勇気を持つことである。一方的に自分の持つ考えを押し付けないことである。

 

上述のようなリーダー像は時として弱いリーダーと映るかもしれない。

しかし、自分の考えや理念をごり押しすること、特定のイデオロギーを普遍的な真理だとして人々に押し付けるような「強い」リーダーよりはよっぽどましである。

特定の思想、考え方のみが正しくて、それ以外のものは異端だとする狭量な態度は人々に不幸しかもたらさないことは歴史が証明している。

 

元々この国では「独裁者」を生み出さないようなインフォーマルなシステムとなっており、それを許さない人々のメンタリティが根底に存在する。

何も決められないことは問題であるが、強いリーダーの一存で誤った方向に行くことはもっと大問題である。

優れたリーダーとは多種多様な意見や考えを一旦受け入れて、場面に応じた解決策を選択する決断力を持った人だと僕は思っている。最適解を導き出す能力に秀でた人がリーダーたる者だともいえる。

 

どのような人がリーダーにふさわしいか、この問いに対する明確な答えはないように思う。

学校教育や社員教育で育まれるとは思えない。

仕事の場や学校で得た経験ももちろん必要ではあるけれども、それ以外の場での様々な経験で得たものがリーダーたる人の肥やしとなる、としか言いようがない。

歴史を学び、社会がいかにして成り立っているかを考察し、人と人との関わり方を経験して学ぶことなど、様々な知識と経験の積み重ねを経てリーダーとしての資質を備えるのである。

 

一見、「強そうに見える」リーダーには警戒すべきである。

強さ=器量ではない。

そして、強いリーダーに丸投げする態度は最も忌むべきものである。

強くは見えなくても、「支え甲斐のある」リーダーが最も適っているリーダーなのかもしれない。

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