希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

僕は変人が好きなのかもしれないという件

僕は他者から変人扱いされている人が好きだ。

確かに扱いづらいし付き合いにくい。ドギマギするような言動をするし、いわゆる真っ当な人とは異なる価値観を持っていてこちらがやきもきすることが多い。

でも、変人と付き合っていると面白いし勉強になるし刺激的である。

 

振り返ってみると僕は子どもの頃から「変わった子」とみられている人たちと友達になることが多かった。他の人たちからは好かれていない変わり者扱いされていた人と仲良くなるのが僕の取柄だった。

僕は意識して変わり者と友達になっていたわけではない。僕と波長の合う人だと感じて自然と仲良くなっただけだ。とすれば、僕も変人なのだろうか。他者から変わり者だとみられていたのだろうか。

 

僕は変わり者や変人とみられている人たちは別に特殊な人たちではないととらえている。ただ単に個性が強いだけの人たちであると思っている。

十人十色と言われるように誰にも個性がある。この個性の強弱というか濃淡というか、その程度の差がどれだけのものかという話である。

世間の常識やあるべき姿の範疇に収まる程度の個性であれば、その人は真っ当な人だとの評価がなされる。世の中の大多数の人たちはこの範疇に収まる。世間の常識からちょっとズレた人たちや逸脱した人たちが変人扱いされる。同調圧力が強い社会、均質化された社会では変人の居場所が奪われ、変人扱いされることが負のレッテルを貼られることになる。

 

古今東西、世の中を変えていった人たちの多くは変人である。既成の価値観に疑いの目を向けてそれまでになかった枠組みを創りだしたのは変わり者や変人だと見られていた人たちである。

そんなに大きな話ではなくても、たとえば新しいビジネスを生み出した人たちの中には変人や変わり者と見られていた人たちが少なくないはずである。異端者やマイノリティの力を侮ってはいけない。

 

しかしながら、変人や変わり者が英雄となり偉人となるのは後付けの話である。彼らを取り巻くいわゆる普通の人たち(世間になじんでいる人たち)はかなり振り回されたに違いない。理解に苦しんだに違いない。時として真っ当な人たちは変革を志向する変人を排除し抹殺してきた。既存の社会秩序を守り維持するためには致し方ないことである。

 

僕はどれだけ振り回されようとも、理解するために労力が費やされようとも変人と言われる人たちが好きである。変人や変わり者と付き合うことは自分の器量がいかほどのものなのかを問われることだと思っている。そんなに大げさなことではなくても、単に変人と付き合うと面白いことが多く起こるのが楽しい。

僕はこれからもどんどん「変人」と呼ばれる人たちと出会い付き合っていきたい。

ちなみに僕は自分のことを変人だなんて露ほどにも思っていない。

 

正社員としての経験だけがキャリアではない件〈再掲〉

僕は以前に社労士事務所を自営していたときの実務経験が「キャリア」とは認められない、という目に遭ったことがある。

逆に言えば大した仕事をしていなくても正社員でありさえすればキャリアとして認められるわけだ。

うーん、どうにも納得できない。

 

初出 2016/6/9

 

僕は数年前、社労士事務所を自営しながら就職活動をしたことがある。事務所の経営状況が悪化して廃業を視野に入れていた頃だ。

就業規則の作成、労働相談、社会保険実務、人事給与制度の策定等を結構な数こなしていたので、人事労務管理分野での汎用性のあるスキルを有していると自負していた。結果、見事に玉砕した。ある人材紹介会社のスタッフが本当のところを言ってくれた。この国では会社組織でこなした仕事、加えて正社員としてこなした仕事しか評価されないと。僕みたいな奴は年齢もいっているし、なまじ専門知識を持っているので扱い辛いということだった。

 

僕は社会保険労務士という資格が知名度がない、とか専門性が低いとは思っていない。資格取得後にきちんと勉強し、実務を積めば、労働・社会保障分野では弁護士に負けない専門性がある。

その弁護士にしても独立するか法律事務所にイソ弁として働く以外になかなか会社ではその専門性を活かすことができない。渉外弁護士の活躍の場が少ないのだ。他の専門資格、公認会計士や税理士、弁理士なども会社での活躍の場は限られている。

 

会社に雇われて働く際に、専門家と目される人たちは冷遇されている。確かに一部の会社、多国籍企業ベンチャー企業ではスペシャリストを活用する傾向はあるが、伝統的な日本の大企業では自社で新卒で雇った社員でまかなう。例えば法務セクションでは弁護士よりも、総合職で配属した正社員の方が専門知識はさておき「使い勝手が良い」のである。これは経理セクションでも人事セクションでも同様のことがいえる。

 

スペシャリストと目される人たちでもその専門性を会社組織では評価されないのだから、パートや派遣といった非正規雇用で働く人たちのスキルが評価されないのも頷ける。

殆どの会社では正社員として勤めたキャリアしか正当な評価はしない。昨今の非正規雇用で働く人たちの中には正社員と同等の仕事をしている人が多く存在する。本来ならば、「仕事内容」に基づく評価をしていれば、非正規雇用であろうと正当な評価がなされなければならない。しかし、非正規雇用という「身分」にこだわった「属人的」評価しかできない会社が大半であるのが実情である。その会社内での評価だけではなく、転職の際にも非正規雇用の人たちはかなりのハンデを負っている。パートや派遣という雇用形態を問題にされて、真っ当な処遇を受けることができないでいる。同一価値労働同一賃金の原則がないこの国では新たな身分制が敷かれているのである。

 

正社員として会社に雇われる働き方を放棄している僕のような者はまだいいが、大半の人たちは正社員として働くことを望んでいる。特に配偶者を持ち、子を持つ人たちにとってはそうである。正社員幻想がまだまだリアリティを持っているのだ。正社員という「身分」を得なければそこそこの生活レベルを維持できないのである。

 

ただ、正社員としてのキャリアがどこまでものを言うかと問われれば、これまた心もとないものである。ある会社でのキャリアとは、所詮はその会社でしか通用しないローカルなものに過ぎない。ほとんどのスキルは汎用性がない。それぞれの会社のやり方があり、社員はその会社のやり方にしたがって仕事をしている。下手をするとその会社のやり方に浸かってしまい他社では使い物にならなくなることもある。

 

つまり労働者である限り決して「勝ち組」(嫌いな言葉だが)にはなれないのである。

正社員としてのキャリアしか評価されない、しかし、そのキャリアも汎用性がなく、常に会社ごとのやり方に左右される。

でも、悲観することはない。救いはある。

結局生き残ることができるのは、いや生き延びることができるのは、自律的に仕事をしてきた人たちである。会社の色に染まらず、会社でのキャリアに安住しない働き方をすることで、自分の色を持つことができた人たちである。ひとつの会社にい続けるにしても、転職を繰り返すにしても。

 

これからの時代は正社員としてのキャリアのみに価値を置く考え方を改めて、非正規雇用フリーランスでのキャリアにも価値を認めるようにならないと先細りになる、会社にとっても働く者にとっても。 

負けることは悪いことではないし、落ち込むことなんてないという件

僕たちは生きていくうちに何らかの競争にさらされることになる。学生時代は成績を上げることを強いられ、社会に出ると仕事の成果を問われる。

競争をするということは勝者と敗者を生むことである。

勝者となればまた次の段階での競争に参加し、そこで勝つとまた次の段階へというように延々と勝つための競争を続けることになる。

 

世の中の大半の人たちは競争に負けることになる。ずっと勝ち続ける人なんてほんの一握りである。

僕たちはいつかどこかで必ず負けることを宿命づけられている、ともいえる。

しかし、世の中にはこの「負け」を認めたくない人たちが多く存在する。負けたくない、とばかりに常に勝ち続けようともがいている人たちが多くいる。負けることが即転落や没落につながるという強迫観念にとらわれている人が少なくない。

 

競争社会自体は悪ではない。

競争することによって社会は発展するし、個々の能力が伸長することもある。競争のない完全な平等社会なんて想像するだけでも気持ち悪い、と僕は考えている。

しかし、競争が度を過ぎて、勝ち負けをはっきりとさせて負けた人たちを排除し、負けた人たちが二度と浮かび上がれないような社会は異常である。ある領域で負けた人がいたとしても、同一の領域で敗者復活が可能であるか、別の領域でチャレンジが容易にできるような社会がベターである。

 

そもそも負けることは悪いことなのだろうか。前述のように大概の人は負けることになるのである。

「負けるが勝ち」という言葉もある。

勝ち続ける人生が幸せだなんてとても僕には思えない。仮に勝ち続ける人生を歩んだとしても、そこには何か大きな落とし穴があるのではないか、何か大切なものを失ってしまうのではないか、と負け続けの人生を歩んでいる僕は思ってしまう。

勝ち負けをはっきりとさせて、「勝ち組」と「負け組」というレッテルを貼って悦に入っているような人を僕は信用しない。また、そのような硬直し狭量な価値観が蔓延るような世の中はどこか狂っている。

 

かつては「敗者の美学」的なものがあった。今もその美学は残存していると思う。歴史上の敗者といわれる人たちは魅力的である。ときには勝者とされる主役を食うこともある。

勝ち負けなんて時の運であって、人の価値を決定づけるものではない。歴史上の様々な出来事はそのことを痛感させる。

 

負けても、あるいは負け続けても落ち込むことなんてない。

自分を卑下することもない。

負けることによって自分の分を知ることができるし、足りないところを知って次に活かすことができる。勝つに越したことはないけれども、負けることによって得られるものは少なくないはずだ。

人生なんて一勝九敗か二勝八敗くらいで十分である。

 

 

 

個人主義と似て非なる利己主義がこの国では蔓延しているのかもしれないという件

この国の人たちは集団主義であり、個人主義ではないという言説がよくなされる。

確かに個人の権利の主張をすると煙たがられるし、マイペースでは生きづらい社会ではある。

ある組織(特に会社や役所)の規範には盲目的に従う傾向がある。世間体を異常に気にする。アウトサイダー的な人を排除することも多い。

これらの傾向からは集団主義的だといえる。

 

ところが、この国の人たちはアメリカよりも個人主義であるという実験結果も存在する。

ある協力関係・協調関係を試すゲーム(実験)を日米双方で試みたところ、明らかにこの国の人の方が個人主義的な傾向がみられたのである。アメリカの人たちの方が個人主義だという俗説はこの実験においては否定されたのだ。

 

この国の人たちは未だに「ムラ社会」的な価値観を有している。

例えば会社においては社内規範に従うだけではなく、同僚の目を気にしながら仕事をする。人事権者である上司の評価だけではなく、同僚の評価も重要だと認識されている。会社へのロイヤリティから仕事に励むというよりも、その組織から疎外されないために精力を注いでいるのである。

バブル期の古い調査だが、この国の労働者はアメリカに比べて会社へのロイヤリティや仕事に対する誇りが低いというものがある。バブル期でさえ(アメリカは経済が低迷していた頃)こうなのだから、現在は推して知るべしである。

 

要するにこの国の人たちは「ムラ社会」的規範の中で生きているのだ。集団の内側ではそのルールや掟に従い、自分を押し殺すが、一歩外側に出ると「ソトの世界」の規範は平気で破る。会社の不祥事およびその隠蔽はまさにこのメンタリティである。

「旅の恥はかき捨て」という諺が示すように、ソトの世界では自分のエゴをむき出しにするのだ。周囲の目が気にならなくなるのである。

 

元々個人主義というものは自分の主義主張や存在を認めてもらう代わりに他者のそれらを認めるものである。しかしこの国では自分だけは認めて欲しいが他者はないがしろにしても良いという傾向がある。個人主義というよりも利己主義に近い。自分さえ良ければよいというエゴイズムが蔓延している。

社会的弱者に対する冷たい眼差しや、社会の不正や矛盾・不公正に対して真の怒りを表明しないことにそれが顕れている。ただ「いい思い」をしている者たちへの嫉妬があるだけである。自分よりも弱い立場の人たちをバッシングをして憂さをはらす醜いメンタリティがあるだけである。

 

僕は欧米的な個人主義が絶対的に優れているとは思っていない。

しかし本質的に他者に冷たく共感力に乏しいこの国の人たちの個人主義・利己主義もどうだかなぁ、と思っている。

僕は個人主義を是としながら、エゴイズムを克服して他者を尊重し、共感できる人になりたい。  

「怠ける権利」なんて本当にあるのか、あってもいいという件

ここんところずっと憲法の改正論議が続いている。

僕は改憲派である。

僕の主張は「怠ける権利」を認め明文化せよ、であり、勤労の義務なんかなくしてしまえというものである。

何人も怠ける権利を有し、それは人たるものの固有の不可侵の権利である、といった感じの規定を加えたら面白いのではないか、と勝手に妄想しているだけの話である。実現性はほぼゼロである。支配者層はこんなものを認めるわけがない。奴らの古めかしい堅い頭には「怠惰は罪」という考えしかない。怠惰は国力を損なう、という経済成長至上主義に凝り固まっている。

 

憲法に「怠ける権利」を、なんて話はただの僕のヨタ話である。妄言である。しかし、「怠ける権利」という考え方がちょっとだけ世の中に浸透してもいいのではないかと僕は思っている。

馬車馬のように一生の間ずっと働き続けることが正しいなんて勤勉至上主義的イデオロギーに異を唱えたいのだ。

もちろん、人それぞれの能力や意欲に応じてその人なりに働くのは当然である。ただ、働き続けていてちょっと辛いなと感じたり、疲れたり、疑問を感じたりしたときに堂々と休む、つまり堂々と怠けることができて、怠けていることを非難されないようなゆるさのある社会になればいいと僕は思っている。

 

社会保障制度に「怠惰のための給付」なんてものがあっても構わないのではないだろうか。例えば勤続5年を超えたら1年間の怠ける期間を認めてその間の生活を保障する給付制度とか。会社を辞めてもいいし、在職したままで休職扱いにして出戻りを許すような制度である。ヨーロッパでは似たような制度があると聞いたことがある。長期間のリフレッシュ休暇に似たようなものだ。

この手の長期休暇を設けるとこの国ではその期間中は自己啓発しろとか仕事のための勉強しろとかになりがちであるが、そんなことをしていたら意味がない。何をしてもいいし、何もしなくてもいいのである。ただだらだらと過ごすこと、好きなように過ごすことに意義がある。

 

怠ける権利が少しだけでも世の中に認められるとニートやひきこもりの人たちにとってはちょっとだけ居心地が良くなるかもしれない。

怠惰が決して悪でも罪でもない、となると自身の存在意義を否定することがなくなる。ニートやひきこもりをしていることへの罪悪感が減る。

怠ける権利を認めてしまうと、勤勉至上主義イデオロギーに毒されたオッサン連中はニートやひきこもりが増えて国力が衰えるといった妄言を吐くに違いない。この手の連中はニートやひきこもりの人たちに常に罪悪感を持っていてほしいし、劣悪な待遇の労働でも働けるだけましだとして自立を強いるのだ。

怠ける権利が認められると、ニートやひきこもりの人たちが世にのさばるかもしれない。僕はそれでいいと思う。たかだか働かない程度のことで、自室に引きこもっている程度のことで卑屈になることはない。大手を振って堂々とのさばってもいいのである。このようなメンタリティを持つことができれば、自ずと社会とのつながりを再び結ぶことができるようになり、自分なりに働くことができるようになる。

 

「怠ける権利」がどうのこうのなんて浮世離れしたことを言うのは僕がマイノリティに属するからである。雇われて働くことを忌避し、元々意識の低い人間が言う戯言である。

しかしながら、際限のない競争にさらされ、効率性ばかりを求められるガチガチの社会の中で居場所のない人たちが少なからず存在する。

怠けることを全面的に認めろ、と言いたいわけではない。

時と場合によっては怠けることを認めて、怠けている人たちを排除しないということだ。世間のどこかに怠ける人たちの居場所を確保するということである。

 

「怠ける権利」があってもいいはずだ、と僕は強く思う。

生きやすい、面白おかしい世の中にするためにも。

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