僕にとって最も大切なものは「自由」である。
完全なる自由など幻想にすぎず、そんなものは存在しないとは分かっている。
自由には責任が伴う。
人は世間のしがらみからは逃れられない。
自由を殊更に強調し、自由な生き方を追求するのは無責任である。
ちょっとだけ自由に生きたいと口にしただけでこれらの言葉が浴びせかけられる。
自由になりたい、自分の好きなように生きていきたいと意思表示をすれば、もれなく周囲の人たちから「世の中や人生をなめている」とのありがたい言葉を頂戴することになる。
「愚行権」という概念がある。愚行権とはどのように愚かと思われる行為でも他者に危害を及ぼさない限り、認められ尊重されるべきだという考え方である。一見愚かだとみなされる行為でも、その行為を規制してはならなず、できるかぎりその人の自由を尊ぶべきだということである。
世間や人生をナメたような行為はこの愚行権の一種である。世の中をナメたような言動をしても、他者は常識の檻の中に封じ込めるようなことをしてはならないのである。
とは言え世の中をナメきったことばかりをしていては周囲の人たちはみんな遠ざかっていく。ものには限度がある。他者から見切りをつけられる手前で止めておかなければならない。
世の良識や常識とのバランスを取りながら、世の中をナメていかなければならない。
例えば「働かずに生きていきたい」というナメた態度を取りたいと思ったら、安易に行政をだまして生活保護を受けようと考えてはならない。人とは違った稼ぎ方をしてみるとか、雇われないで仕事をする方法を考えてみるとか、ヒモ生活をするならばいかに相手を満足させるが努力するといった最低限の自助努力は必要である。
世の中をナメた生き方をするとは、単に怠惰(怠惰が悪いわけではないが)な生活をするのではなく、人とはちょっと違った一見「楽」に見える方法を選択することである。ナメた生き方をしたからといって楽になるとは限らないのである。
世間の常識や良識に沿った生き方をしていれば、他者や社会との軋轢を生むことはないし、社会的な信用を得ることができる。
額に汗して働く、苦労に耐える、前向きに生きる、といったことが尊ばれるこの社会ではちょっとだけレールから逸れたり、一見楽に見える生き方をしていると寄ってたかって非難されることが多い。
世間一般で真っ当とされる人たちはちょっとでも世の中をナメているような人たちが生理的に許せないのだ。一部のフリーランス的な働き方をしている人たちやニートに対するバッシングが起こるのは、世間の多数派を形成している人たちの根底にある何かが起動するためである。その「何か」とはナメた生き方をしている人たちに対する嫉妬であったり、勤勉至上主義イデオロギーに基づく嫌悪感であったりする。
愚行権が広く認められた社会、即ち多元的な価値観を認める社会では世の中をナメた生き方をしている人を目にしても、人は人、自分は自分といった感じで放っておいてくれる。他者の有する自由には干渉しないのだ。
残念ながら今のこの社会では愚行権は広く認められていない。
それでもやはり僕は世の中や人生をナメた生き方を肯定する。
人生は楽しむためにある、という価値観を僕は譲れない。
ちょっとくらい世の中をナメたような生き方をしたほうが面白いし楽しいと思えてならない。
世の中や人生は甘いものではない、けれども甘いことも多々ある、それだけの話である。