希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

人材派遣業者は必要悪であるという件

少し前、経済格差やワーキングプアが盛んに取り上げられたとき、特にリーマン・ショックの影響で派遣切りが横行したときに派遣会社が諸悪の根源としてやり玉に挙げられたことがある。

低賃金で細切れの雇用契約、寮費や生活必需品等を高額で控除する等散々非難されていた。

資本主義体制、特に新自由主義的な経済システムの矛盾とグローバリズムの流れによる労働者への負の影響という本質的な問題をスルーして派遣業者がスケープゴートにされた感がある。

 

元々人材派遣業そのものは一部の例外を除いて禁止されていた経緯がある。労働者に対する賃金は「全額を・直接払い」すべきものとされているので、中間業者が「ピンハネ」をする形となる人材派遣業は原則として認められなかったのである。

戦前のタコ部屋と呼ばれた建築現場、遊郭への身売り、前金・支度金名義の前借りを伴う紡績会社の女工等の事例が多数あって、それらは人身売買的性質を有し人権の侵害が甚だしいものだったことを踏まえての人材派遣業に対する強い規制が加えられたのである。

人材派遣業はいわば奴隷的労働に関する負の遺産を背負っているので、何らかの問題が生じたときに矢面に立たされるのである。

 

僕は人材派遣会社を結構利用していて、時折お世話になっている。

僕のような中年男でしかも専門的技術を持っていない者にとっては人材派遣会社はありがたい存在である。

ただ、個人的な感覚では長期間に渡って派遣会社の紹介によって働くことは結構辛いものがある。一回の契約期間が短くて常に契約満了による失職のプレッシャーがかかる。単純作業的な職種に就くと、自分のキャリア・パス、スキルの面で将来が不安になる。

反面、「つなぎ」的な仕事をしようとすれば派遣会社は有用である。正規雇用として雇われるまで、フリーランスとして一本立ちできるまで、あるいは自分の夢を叶えるまでの「つなぎ」として十分に活用できる。

 

正社員のパイが減っていく雇用環境では、長期間派遣という形で就労する労働者が増えることが予想される。派遣という雇用形態が持つメリットを活かしつつ労働条件を良くする方向にもっていった方が良いと思う。正社員として働くメリットが少なくなっているし、正社員として働きたくないあるいは正社員としては働けない人たちも多くいるからである。

派遣会社の過当競争、賃金の安売り合戦をなくし一定水準の賃金を確保できるようにする。要するに派遣会社が登録スタッフを「高く売りつける」ことができるようにするのである。また、派遣会社の「ビンハネ」率の公表を義務化し、その率が適正になるように規制する。僕は私的な活動に対する国家権力の介入は極力なくすべきだとの立場だが、派遣会社への規制はやむを得ないと考えている。放置していれば、派遣労働者の処遇が間違いなく劣悪化するのが目に見えているからである。

 

この国の労働市場では派遣会社はなくてはならないものとなっている。

派遣会社は必要「悪」なのである。多くの労働者にとっては最後の砦のようなものになっている。

「必要悪」が本物の「悪」にならない限り派遣会社は存在意義がある。

漂泊する芸能民・遊女と差別について考えてみる件

歴史上最も古い職業は芸能民と遊女と占い師だといわれている。これらの職業はシャーマニズムアニミズムに源流がある。太古の昔の人たちは芸能の民や遊女に畏敬の念を抱いていた。普通の人たちからすると、神懸り的なものに見えたからだ。

そして、国家体制が次第に整ってきた古代から中世の律令国家となると、遊女や芸能の民は国家の末端に組み込まれた。「賎民」として扱われたのである。ただ、賎民として賎視はされたが、今で言う差別とは違った性質のものであった。一般の良民からすると、自分たちとは違うという意識があり、賎視と畏怖の念というアンビバレントな感情を抱いていたと考えられる。決して差別や迫害ということばかりではなかったのである。

 

律令国家が衰退し体制に動揺が見られだすと、末端の芸能の民や遊女、占い師等が国家の保護からはずれ、世間に放り出されることになる。

漂泊せざるを得ない人々は世間から偏見の目に晒され、排除されることになる。

時の権力者、公家にせよ武家にせよ、税負担する定着した良民こそが望ましい姿という点で一致していたのだ。

他方、漂泊を続ける芸能民や遊女はアウトサイダーとして偏見や差別の対象となる。

 

しかしながら、社会からの冷たい視線を浴び続けながらも、芸能は独自の発展を遂げる。今の時代にも残っている能や狂言、歌舞伎、人形浄瑠璃などは伝統芸として高い評価を受けている。

これらの芸能の内、能は足利義満が保護したためにいわば国家公認の芸能という地位を得ることになる。ただし、今も演じられている演目で傑作とされるのは義満の保護以前に創作されたものらしい。芸能は権力者と結びつき、自由奔放さを失うと作品のレベルが落ちるといわれる。

歌舞伎は何度も弾圧を受けながらも、庶民の人気を得て、河原乞食と蔑まれながらも、経済的にも大成功を収める。

 

国家権力の基盤が強固になり、その力が強くなればなるほど、異端者・アウトサイダーへの排除の論理が働くようになる。

社会的・政治的に好ましくないとカテゴリーされる集団を異端視し排除するようになる。

今の日本社会で好ましい集団はサラリーマンである。税金は源泉徴収で徴収漏れが少ないし、社会保険料も給料から控除して徴収できる。仕事が忙しすぎて社会運動や社会活動に参加するのは少数派である。このサイレント・マジョリティがこの社会を成り立たせている。

 

今の時代に白眼視されるのはニートやホームレス、引きこもり、フリーター、フリーランスなどである。いわゆる真っ当な生き方をしていないと勝手に「まともな人」から見られている人たちである。

かつての漂泊の芸能民や遊女のような存在である。

 

僕は思う、強く。

国家権力の望むような生き方を拒否することに意味があるのだと。

たとえ、差別されたり排除されたりしても、である。

   

住宅政策は社会保障制度の根幹である件

衣食住の中でも「住」の確保が最もカネがかかる。

そして「住」のレベルがどの程度のものかは社会政策が機能しているかどうかの判断基準となる。残念ながらこの国の住宅政策はとても貧弱であり、社会政策のレベルは低いと言わざるを得ない。

 

労働者の所得は今後上がることはない。たとえ経済成長があったとしても、その果実は会社・経営者層・株主がすべて収奪する。

所得上昇がなくても生活レベルを上げるための最も有効な手立ては住宅政策の拡充である。公的な住宅を増やすこと、住宅手当の制度を創ることにより、労働者の可処分所得を増やすのである。新たに公的な住宅の建設が難しいのならば、空き家の活用や老朽化した団地等のリノベーションを行うなどして良質な住宅を確保する政策を推し進めるべきである。従来の持ち家政策なんて愚の骨頂である。労働者の生活を破壊するだけで、住宅会社・不動産業者・金融機関が丸儲けをするだけの愚策である。自民党議員とこれらの業者が結託して甘い汁を吸うために持ち家政策が採り続けられているのである。

 

僕が大学を出ることができたのは公営住宅住まいだったことが大きい。父は中小企業のサラリーマンで裕福ではなかったが、公営住宅に住み続けることによって家賃コストが低く抑えられたので、何とかそこそこの生活レベルを維持することができ、僕を私立大学に行かせることができたのだ。

そして今、僕は母と二人公営住宅に住んでいる。今住んでいる住宅は10数年前に新築されたもので、両親が抽選で当てて転居した住宅である。父が亡くなって母一人となり、僕が一人暮らしを辞めて戻ってきた。やはり家賃が安いので母の遺族年金と僕のパート収入でも何とかやっていけているのである。僕は住宅政策の恩恵を受けている数少ないケースである。もし、公営住宅に住むことが出来ないでいたら僕と母は生活に困窮していただろう。

 

ヨーロッパの多くの国では住宅政策を重視している。勤労者住宅をはじめとした公的住宅が充実している。住宅手当の制度もある。僕はヨーロッパが優れていて盲目的にそれに倣う、ということはいかがなものかとは思うが、こと住宅政策に関してはその良い点を取り入れるべきだと思っている。

 

生活困窮者の問題、ホームレスの問題等は住宅政策の拡充でかなりの部分が解決される。

仕事を失い、家賃が払えなくなってホームレスという負の連鎖を断ち切ることが出来る。住むところさえ確保できていれば、再就職の活動もできるし、もし病気ならば療養することもできる。何より住むところの心配がないということは精神衛生上も良い。また、就職支援や生活支援もやりやすくなり、その効果が上がるはずである。

 

適切な住宅政策は生活困窮者やホームレスを減らすだけでなく少子化対策や高齢者対策にも資するものである。

現状の財政難の中では社会保障全般を拡充することは難しい。ならば住宅政策を最優先事項とすることを切に望んでいる。

 

 

転職を繰り返すジョブ・ホッパーこそが組織に縛られない働き方であるという件

今はかなり様相が変わってきたが、何度も転職を繰り返す人は高い評価を得ることができなかった。たとえ能力に秀でていても「堪え性がない」「協調性がない」とみなされて会社社会では評価されなかったのである。

ある人が犯罪を犯したときにその経歴を伝える際に何度も転職をしていたとしたならば、その事実をネガティブなものとしてとらえる風潮があった。

 

僕がかつて社労士の廃業を模索し就職活動をしていたときに何社か人材紹介会社に登録したが、案件の中で転職回数を2、3回までと制限していたものが多かった。中堅規模以上の会社のほとんどが転職回数が多い人たちを排除していたのだ。その人の能力やスキルに関係なく転職が多いという事実だけで採用の機会を与えない。会社は本来は労働者の能力を買うものなのに、実態は無難に組織の一員として収まる人を求めているのである。

 

かつては欧米でも転職を繰り返す人たちを「ジョブ・ホッパー」と呼び歓迎されていなかった。

年功序列・終身雇用をデフォルトとする社会ではジョブ・ホッパーは異端者であり、真っ当でないとみなされていたのだ。

ジョブ・ホッパーの経歴をもつ企業家・創業者、フリーランスでの成功者が多いのは、企業社会のつまらない掟に背を向けた結果として自分で仕事をつくる人たちがたくさんいたからである。

 

僕はこれからの働き方は組織人ではなく仕事人であることが必要であると考えている。組織に埋没するような働き方ではなく、一定レベル以上の汎用性のあるスキルを磨いて、自分の力を頼りに会社を渡り歩く働き方がベターであると思う。

現在は仕事人的な働き方が評価をされつつあるが、相変わらず組織人を求める会社も多い。転職を繰り返す人たちをネガティブにしかみなさない会社も多い。労働者を会社という組織に「囲い込む」のは組織の病理である、と気付いていない会社が多数を占める。

元々会社の人事労務システムは軍組織・官僚組織を範としている。経済成長期にはうまく作用したこのシステムも今や制度疲労を起こしている。

 

一部の幹部候補的な社員はひとつの会社に勤め続けることにメリットがある。昇進を重ね、ゆくゆくは経営者や幹部に取り立てられる。出世コースから外れたゼネラリストは使い道がほとんどなくなるというのが現実である。出世することに価値を見出さない人たちは不毛な出世レースから降りて、自分のスキルで勝負できる仕事人となることが合理的な選択である。そもそも同じ会社に何十年もい続けることを善とする価値観を疑ってかかるべきである。

所属している会社での居心地が良くないと感じれば転職してもよいし、起業してもよいしフリーランスに転向してもよい。選択の幅が増えると余裕をもって働くことができるようになる。

仕事人的な働き方をしている人たちにとっては、ジョブホッパーとなることが組織に縛られない生き方を選び取ることになるし、生き延びるための有効な手立てとなる。

 

「我慢」なんて全然美徳ではない件〈再掲〉

人は生きていくうえである程度の我慢は必要である。

しかし、我慢することを必要以上に神聖視したり絶対視すると様々な問題が起きる。人としての尊厳が損なわれる場合もある。

 

初出 2016/2/12

 

僕たちは幼少時から我慢することを我慢の大切さを教え込まれる。

我慢ができない子どもは忍耐力に欠ける子として問題児扱いされる。我慢ができずに自己主張する子どもは協調性に欠ける子としてこれもまた問題児とされてしまう。

学校教育では教師の言うことを何の疑いもなく聞き入れる子ども、我慢をして素直な子どもが良い子どもとされて、そのような子どもたちを量産しようとする。国家や会社に従順な労働者を大量生産するかのごとく。

 

働くようになるとなおさら我慢が強調される。

特に会社や役所等の組織に勤めると我慢合戦を強いられる。

バカな上司の指示に従うこと、意に反した転勤や単身赴任を受け入れること、長時間労働サービス残業、接待、長時間の無駄な会議等々数え上げればキリがないほどの「我慢」をしなければならない。

我慢をすることが当然とされ、我慢ができない人は出世ができないし、酷い場合にはその職場にいられなくなったりする。

 

経営者あるいはもっと大きくとらえて国家は我慢は美徳だというイデオロギーを垂れ流す。

我慢ができる人たち、我慢を我慢とも思わない人たちを「良民」とし、我慢ができない人たちを劣った人だとのレッテルを貼り排除する。

 

僕は当然ながら我慢ができない人のカテゴリーに属する人間である。我慢ができなくて公務員を辞めたし、もう必要以上の我慢なんてしたくないから勤め人になることを拒んでいる。

こんな僕でもある程度の我慢は当然だと思っている。僕はどちらかと言うと我慢強い方の人間である。忍耐力は人並み以上にある。

要は自分が納得できる範囲の我慢はするが、自分の価値観に反する我慢、人としての尊厳を奪うような我慢はしたくないだけだ。

 

これらのような主張をすると「社会人として失格」だの「子どものままで大人になっていない」といった説教を喰らう。世の「大人」たちは何でも我慢ありきで物事を考え、その考えを他者に押し付ける。この狭量さが嫌いなのである。

世の多くの人たちは我慢することによって自己保身を図っているだけに過ぎない。空気を読んで我慢してその場を取り繕っているだけなのだ。そして、その我慢合戦の積み重ねが様々な問題の解決を先送りにし、結果としてこの閉塞した今の状況を生み出したといっても過言ではない。

 

自分さえ我慢すれば波風が立たずにうまくいく、といったメンタリティは危うい。目の前にある問題に対峙せず、我慢してやり過ごすことばかりをしていれば結局はドツボに嵌ることになる。

世の中の進歩や発展は我慢をせずに自己主張を始めた人たちがその原動力になっているのである。

 

「我慢」が美徳という価値観に僕はこれからもずっと抗い続けていく。 

誰でも即実践できます!あなたの不調をやわらげます あなたの心に灯をともす、根本的な解決法を伝授します