希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

「就活」がうまくいかなくても何とかなるという件

新卒時の就活に失敗すると人生が詰んでしまうという極端な暴論が広まっている。

新卒時に正社員として雇用されないと、以後はずっと非正規雇用フリーターとなり、生涯賃金に大きな格差が生じるという。一生浮かばれないとの強迫観念に捉われる。

典型的な「フリーター悪玉論」である。

 

新卒段階で意に反した就職をしたり、あるいは正社員として採用されずに非正規雇用になったとしてもまだまだチャンスは残っている。

確かにごく一部の超有名企業のように新卒採用で充足する(あるいは僅かな中途採用で充足)ケースもあるが、知名度の低い大企業や中堅・中小企業では既卒者にも門戸は開かれている。フリーターから正社員として採用される会社も多く存在する。

30代の男性に限れば、雇用者の内9割は正社員である。もっとも女性の正社員率が低いのは問題である。つまり、新卒時に就活に失敗しても、「敗者復活戦」はあるのだ。多くの人たちは中堅・中小企業で働くことにはなるのだが、会社の規模が小さいからといって大企業に劣っているとは限らない。大企業に匹敵する待遇の中堅中小企業もあるし、たとえ待遇が劣っていても働きやすい職場であることも多い。

要はある人にとって楽しくてストレスが少ない働き方ができる、自分に合った職場であれば良いのである。有名企業に勤めていて、会社名を聞くと相手が感心することに喜びを感じるなどというのは単なる虚栄心や自己満足に過ぎない。自分がどこに勤めて、どのような仕事をしているのかは、ぜいたく品のブランドのごとく扱う筋合いのものではない。

 

また、正社員(総合職的な)という働き方のみが正しいものではない。待遇がもっと上がればという条件はつくがフリーター的な働き方や限定正社員という働き方ももっと認められてもよいと思う。その人の人生観や労働観その他の価値観に応じて働き方を選択できれば、色々な形の幸せが生まれ、豊かな生活を営むことができるようになる。例えば5年間はみっちりと働いて、1年間は自分の好きなことをして過ごし、また仕事の場に戻るという風に。

 

話が少し逸れてしまった。

これまで述べてきたように、新卒時の就活がうまくいかなくても、いくらでも取り返すことができるのだ。

就活など人生のほんの一コマに過ぎない。

たとえ、就活に成功して有名企業に総合職で採用されたとしても、そのことが人生の幸福をもたらすという保障はない。

人の一生においては実に様々な出来事に遭遇する。

良いこともあれば悪いこともある。

喜びもあれば悲しみもある。

人はいつか必ず死を迎える。人生トータルで満足できるものであれば良いのではないか。

 

新卒時の就活で一生が決まるという偏狭なものの見方を今一度見直すことも大切だと、僕は思う。

  

もしかすると、ビンボーも遺伝してしまうのか、という件

僕はこれまでこのブログで貧困に関する問題を度々取り上げてきた。シリアスな内容なので、堅い文になりがちであった。

今回は肩の力を抜いた感じで書き綴っていきたいと思う。

 

ビンボーは遺伝するのか、という問いかけは貧困の世代間連鎖などというハードなものではないし、学術的にもならないし、あくまで僕の体験に基づいた主観論である。

 

僕は今はビンボー人ではあるが、小学校の高学年から実家を出るまでの僕の家庭の経済状況は中かやや下程度であった(僕の幼少期はかなり生活が苦しかったらしい)。ただ、公営団地住まいだったので住宅ローンはなく、可処分所得はそこそこあったと思う。高価なものは買ってもらえなかったが、野球道具やゲーム(当時は人生ゲームなどのボードゲーム)は十分に買ってもらえた。以前のエントリーにも書いたが、少年少女文学全集や百科事典を買い与えられたし、何より私立大学の学費と生活費を出してくれた。僕は国立大学に落ちたので私立に行くことになるのだが、親はそれでもイヤな顔一つせずに僕を送り出してくれたのだ。

 

僕の父はいわゆる地方の名家に生まれた。地元では「神童」と呼ばれていたらしいが、旧制中学ではなく旧制商業学校に進学した。当時は小学校のクラスで1人か2人しか上級学校に進学しなかったという。父が商業学校に在学した時期は戦争とまるまる重なっていて、勤労奉仕に駆り出されて勉強が殆どできなかったという話をよく聞いた。卒業時は敗戦の混乱期でさらに上の学校への進学を断念した。父はまず当時の逓信省の出先機関に就職したが、すぐに辞めて地元の地方銀行に職を得た。そこではそこそこ出世もしたらしいのだが、理由は分からないが(生前僕には教えてくれなかった)辞めて、後に職を転々とする。その頃に母と出会って結婚し僕が生まれた。僕が生まれた頃には借金があり(これまたなぜ借金を負ったのか教えてもらえなかった)、家と土地を失う。父は僕を母方の実家に預けて、広島へ行き、そして和歌山に流れ着く。和歌の浦という観光地の旅館の下足番から始めて再起を図ったのだ。そして紆余曲折があり、大阪の貝塚市に移り、木材商社の管理職(経理の責任者)となり生活が安定する。

 

父のライフ・ヒストリーを長々と書いてしまったが、僕は父はかなり優秀な人だったと思っている。高い社会的地位を得たわけでもなく、経済的に成功したとはいえない。しかし、僕と母との生活を守るために実直に働いていた。勤めていた会社での評価も高く、70歳までそこそこの待遇(嘱託ではなく正社員)を得ていた。僕は母によると父と性格が似ているらしいのだが、実直さや勤勉という性質は受け継がなかったようだ。

父はよく僕にカネに綺麗になれと言っていた。カネに執着することは人としてはしたないと、僕に伝えたかったのだ。そして、自分の思うように生きろとも、言葉にはしなかったが僕に伝えた。

 

父のカネに対する態度が僕の思考様式を決定付けた側面がある。

僕がビンボーでも自分を卑下せずに堂々としていられるのは、父の教えや生き様の賜物である。前フリが長くなったが、そういった意味で我が家ではビンボーは遺伝しているのである。

僕の場合、あくまでビンボーなのは自己責任である。遺伝だけではない。

自分自身で今の生き方や働き方を選択した結果のビンボーであるので、社会を恨んでもいないし、自分の選んだ道を後悔もしていない。ある意味、僕は恵まれた環境にいるのである。

 

ただ、恵まれない環境で生まれ育った結果の貧困問題、人生の途上で思いがけない困難に直面した結果の貧困問題についてはこれからもコミットメントし続けたいと思っている。 

カネが持つ魔力に飲み込まれないようにしたい件〈再掲〉

カネがあれば大概のモノやサービスが買える。

カネは万能薬である。しかし、時として激しい副作用を伴う。

単なる交換手段以上の力を持っている。

 

初出 2015/3/10

 

カネには人を惑わせる魔力が備わっている。

多くの人たちはカネのためにのみ働いているわけではない。カネ儲け至上主義に異を唱える人も多いはずだ。

しかし、資本主義体制下の社会ではカネを生まない人や物事は無価値だとされる。カネの多寡によって人は選別されるし、カネを持つ者、カネを生み出す人が優秀だと判別される。

 

カネはモノやサービスを買うための交換手段に過ぎない。ただの金属片であり紙切れに過ぎない。あるいは「記号」に過ぎない。

それらのことを心の片隅で理解はしていても、カネを儲ける事が目的になり、カネを巡っての悲喜こもごもの出来事が僕たちの周りに充満している。

 

僕たちが暮らしている社会は高度消費社会である。物質的には豊かな社会である。大概のモノやサービスはカネで買うことが出来る。また、殆どの揉め事はカネで解決できる。

裏を返せば、カネがなければ生活に支障を来たすことがあるということだ。例えば、衣・食・住に関するモノは自分で作ることは可能である。しかし、殆どの人たちはその術を知らない。現実には住むところ、食べるもの、着るものはカネを出して買わなければならない。僕たちはカネに取り込まれているわけである。

 

カネは「万能薬」的なものなのでもある。

カネは大抵の生活の不安を解消する。

同時にカネが無いと生活が覚束なくなるという不安をもたらしもする。これは万能薬にも副作用があるということだ。カネは劇薬にもなる。

カネという万能薬の処方を誤って、命までを奪われてしまうこともある。

 

僕たちはカネの持つ魔力に取り憑かれたままで生涯を終えなければならないのだろうか。

カネの持つ魔力から逃れる術はないのだろうか。

経済体制が資本主義である限りは僕たちはカネから完全に逃れることはできないように思われる。

世間から完全に遮断された完全自給自足の隠遁生活でも送らない限りはカネから逃れられない。これは無理な話だ。

あるいは資本主義以外の経済体制を選択するという手もあるが、これは非現実的な話である。

 

結局はひとりひとりがカネとどう向き合うか、という話になってくる。

カネはあくまで交換「手段」だと冷静に突き放して捉える視点を持ち続ける。

カネ儲けを神聖視せず、さりとて卑下することもしない。

カネを使わずに別の手段でモノやサービスを手に入れる方法を考え実践する。物々交換や労力を提供するなどの方法もありだと考えてみる。

カネの力を過信しない。一方でカネの持つ力を適正に認識しておく。

 

僕はカネの持つ魔力に振り回されることなく、ほどほどにカネを有効利用していきたい。

カネを儲けすぎず(これは僕には無理だが)、けれどもカネが無いと悲嘆しない程度に。 

「不良社員」万々歳である件

僕は雇われて働くことがイヤである。

ただし現実問題として、生活していくためにはカネを稼がなければならない。大方はどこかの会社に雇われて労働者としての道を歩むことになる。

 

会社に雇われて働くにしても、僕たちは会社に完全に隷属してはならない。僕たちは会社の奴隷ではないのだ。

昨今は社員の自立を強調したり、副業を推奨したりする会社が世を賑わせたりもしているが、根本的には会社は社員を縛り統制することには変わりはない。

 

多くの労働者は会社に良い評価をもらうことを第一に考え、「良い子」であろうとする。これが度を過ぎると会社人間になり社畜となる。

 

僕はもっと労働者は「不良社員」になってもいいのではないかと思っている。

不良社員といっても、仕事をサボりまくるとかやたら上司に反抗するとか横領まがいのことをするとかを意味するのではない。

まずは労働者としての権利を行使する。サービス残業はすべて拒否し、付き合い残業なんかも拒否する。有給休暇はすべて取得する。強制参加の飲み会なんかに参加しない。

やたらと長い時間の意味のない会議ではさっさと切り上げるように仕向ける。そもそもそんな会議なんて不要だと主張する。

上司の顔色をうかがうことなんてきっぱりと辞める。同僚からの同調圧力には抗う。

これらのことは実際は言うは易しだが実行することはなかなかに難しい。しかし、この程度のことをしないと社畜への道にまっしぐらとなる。

この程度に不良社員化しても現行の法制度ではそうそうクビにはならない。せいぜい閑職にまわされるか左遷されるくらいが関の山である。

 

そもそも上述のような自己主張程度で「不良社員」扱いされる方がどうかしている。

会社によって金太郎飴のように画一化した「人材」にされることそのものに危機感を持つべきである。労働者も規格外の不良品扱いされることを誇るようなメンタリティを持った方がよい。長い目で見れば、そのような人がいざという時に力を発揮するのである。リストラされるなどして職を失っても、雑草のように逞しく生きていける。

 

所詮は仕事なんて人生のほんの一部に過ぎない。

仕事で自己実現を図るとか成長するとかは眉唾物であり幻想に過ぎないものである。

仕事によって得られる能力とかスキルなんてたかが知れていると覚めた目で見ることも時には必要である。

 

世のサラリーマンのひとりでも多くが不良社員化すれば面白くなる。結構会社も利益が上がり、この国の経済も成長したりするかもしれない。

 

僕にとっては今まで書いてきた不良社員的な働き方・生き方はごく当たり前のことである。

だからこそ、会社勤めには馴染めないのだと今更ながらに痛感する次第である。

 

僕はいつも「このままでは終わらない」と思っている件〈再掲〉

僕は競争社会から身を引いている。

世間の常識に照らせば、落ちこぼれの負け組であり、僕はそれでいいと思っている。

でも、完全に人生を諦めたわけではない。

 

初出 2015/3/5

 

僕はダメ人間である。

意識が低い人間でもある。

でも心の奥底では「このままじゃ終わらない」と密かに思っている。

 

何も世界征服を企んでいる訳ではない(当たり前か)。

起業してリッチになろうとか、何かの分野でメディアに取り上げられて時の人になろうとか、そんな邪な野望を持っている訳ではない。

今より少しは懐が暖かくなり、かつ自分のペースで仕事ができれば良い、というささやかな希望を持っているだけだ。

 

僕のダメさ加減は歳を取るごとに酷くなっている。数年前まではフルタイムで働く意欲があったのだが、今はとてもじゃないがフルタイムの労働なんて苦行そのものだ。

人付き合いも悪くなっている。以前は人と会うのが楽しみで、すすんで色々な人に会おうとしていたし、気の合う仲間と会うために労を惜しまなかった。それが今は人と会うのが面倒くさくなったのだ。人嫌いになったという訳ではない。中島義道氏のように人嫌いを徹底すれば立派なものだと思うが、僕にはそこまでの勇気はない。

何だかんだ言って僕は人が好きなのである。

 

こんなダメさ加減満開の僕が「このままじゃ終わらん」と考えているのは噴飯ものかもしれない。

でも僕だってにんげんだもの。

少しばかりの向上心は持ち続けている。

人として成長したいと思っている。

教養を身に付けたいと願っている。

世の中を変えるような働きをしてみたいと希望している。ほんのちっぽけな存在だけれども。

 

僕は今の自分に不満を持ってはいない。等身大の自分らしき生き方をしている。ダメ人間なりに矜持や誇りを持っているつもりだ。

しかしそれらが他者に伝わらない。

人から見れば僕は単なる怠け者であり、社会からの落伍者である。

それはそれで構わないのだが、ちょっとだけ淋しい。

僕だってにんげんだもの。

ちょっとは存在を認められたい。

 

そうか、僕は「ちょっとだけ存在を認められたい」のだな。これが僕が生きる原動力になっている、と書き進めながら気付いた。

飽きもせずにこのブログを続けてきたのもそういった理由からだ、きっと。

 

僕はこのまま終わってしまうかもしれない(その可能性のほうが高い)。それならそれでその結果を受け容れよう。このまま終わっても、僕は結構楽しい人生を送ってきたと思っている。

でも、ちょっとだけ贅沢を言わせて欲しい。

僕は「このままでは終わらない」と思い続けることをどうか笑わないで欲しい、許して欲しい。 

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