希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

僕はサラリーマンが嫌いである件

僕はサラリーマンという人種が嫌いである。

と言ってしまったら世間の殆どの人たちを敵に回してしまう。小心者の僕としては敵は作りたくない。

ちょっと言い換えて補足しよう。

僕は「サラリーマン根性」にどっぷりと浸かった人たちが嫌いなのである。サラリーマン根性に首まで浸かっているのにそれを自覚していなくて自分は立派に自立していると錯覚している人が嫌いなのである。

正社員として働くことがまともであり、立派であると思い込み、それ以外の生き方や働き方を認めようとしない狭量さが大嫌いなのである。

 

僕はサラリーマン根性に浸かった人たちは現代の奴隷であると思っている。会社にいいようにこき使われても抵抗しようともしない。会社にしがみつかないと生きていけない。そのくせその奴隷根性を他者に押し付け、またそれを正当化しようとあがく。

ちょっでも有名であるとか大企業であるとか世間から見られている会社の正社員というだけで労働者という事実を忘れている。

僕が許せないのは、普段は自己責任論をぶって社会的弱者を蔑視しているくせに、いざ自分がリストラされたら住宅ローンが残っているだの子どもの学費がかかるだの泣きを入れることだ。はっきり言って住宅ローンを組んだのも子どもを私立学校に入れたのも自己責任である。住むところに関しては賃貸住宅や公営住宅に移れば良いだけの話である。子どもの教育に関しても公立学校に行かせれば済む話である。単なる見栄である。

 

多くのサラリーマンは視野が狭く価値観が偏っている。様々な生き方・働き方があり、それらには優劣がないことを分かっていない。そのために自分の生き方の幅を狭めている。

 

僕がフリーランス(社労士を自営)しているときによく勉強会や異業種交流会に顔を出し、多くの人たちと接する機会があった。サラリーマンとの接触の機会も多かった。その中で僕のような立場の人間を明らかに見下している人がいた。僕を値踏みして自分の仕事での利益にならないと判断すれば交流さえ拒む態度を取る輩が多くいた。起業家や経営者の多くは仕事につながらなくても、何か繫がれる点があれば積極的に交流しようとしていたことからするとその差は歴然としていた。これは僕の独断と偏見、とは言い切れない。僕の知り合いのフリーランサーや経営者に聞いても僕と同様の感想を持っていた。

自分の仕事に直接関係する人としか付き合わない、という近視眼的な行動しか取れないのもサラリーマン根性である。いわゆる「できる人」は仕事に直接関係のない人的ネットワークを持ち、有効に活用している。

 

僕はサラリーマンがこの国の経済発展に寄与してきたことは認める。懸命に仕事に取り組んでいることも認め、尊敬している。しかしながら、大多数のサラリーマンの行動様式や思考が社会の閉塞感を生み出していることに目を背けてはならないと思っている。会社第一主義のメンタリティ、体制に従順であるメンタリティが覆う社会はクソ面白くない。

 

ああ、また世間のマジョリティを敵に回すようなエントリーになってしまった。

やはり僕は世間の片隅でひっそりと生きていくしかないのかな。

マイノリティ・異端者でどこが悪い、と堂々と生きていきたいのだけれども、まだまだ無理かな。

芸能・シャーマニズム・売春と差別についての件

歴史上最も古い職業は芸能民と遊女と占い師だといわれている。これらの職業はシャーマニズムアニミズムに源流がある。太古の昔の人たちは芸能の民や遊女に畏敬の念を抱いていた。普通の人たちからすると、神懸り的なものに見えたからだ。

そして、国家体制が次第に整ってきた古代から中世の律令国家となると、遊女や芸能の民は国家の末端に組み込まれた。「賎民」として扱われたのである。ただ、賎民として賎視はされたが、今で言う差別とは違った性質のものであった。一般の良民からすると、自分たちとは違うという意識があり、賎視と畏怖の念というアンビバレントな感情を抱いていたと考えられる。決して差別や迫害ということばかりではなかったのである。

 

律令国家が衰退し体制に動揺が見られだすと、末端の芸能の民や遊女、占い師等が国家の保護からはずれ、世間に放り出されることになる。

漂泊せざるを得ない人々は世間から偏見の目に晒され、排除されることになる。

時の権力者、公家にせよ武家にせよ、税負担する定着した良民こそが望ましい姿という点で一致していたのだ。

他方、漂泊を続ける芸能民や遊女はアウトサイダーとして偏見や差別の対象となる。

 

しかしながら、社会からの冷たい視線を浴び続けながらも、芸能は独自の発展を遂げる。今の時代にも残っている能や狂言、歌舞伎、人形浄瑠璃などは伝統芸として高い評価を受けている。

これらの芸能の内、能は足利義満が保護したためにいわば国家公認の芸能という地位を得ることになる。ただし、今も演じられている演目で傑作とされるのは義満の保護以前に創作されたものらしい。芸能は権力者と結びつき、自由奔放さを失うと作品のレベルが落ちるといわれる。

歌舞伎は何度も弾圧を受けながらも、庶民の人気を得て、河原乞食と蔑まれながらも、経済的にも大成功を収める。

 

国家権力の基盤が強固になり、その力が強くなればなるほど、異端者・アウトサイダーへの排除の論理が働くようになる。

社会的・政治的に好ましくないとカテゴリーされる集団を異端視し排除するようになる。

今の日本社会で好ましい集団はサラリーマンである。税金は源泉徴収で徴収漏れが少ないし、社会保険料も給料から控除して徴収できる。仕事が忙しすぎて社会運動や社会活動に参加するのは少数派である。このサイレント・マジョリティがこの社会を成り立たせている。

 

今の時代に白眼視されるのはニートやホームレス、引きこもり、フリーターフリーランスなどである。いわゆる真っ当な生き方をしていないと勝手に「まともな人」から見られている人たちである。

かつての漂泊の芸能民や遊女のような存在である。

 

僕は思う、強く。

国家権力の望むような生き方を拒否することに意味があるのだと。

たとえ、差別されたり排除されたりしても、である。

  

組織に順応しすぎると副作用もある件〈再掲〉

学校教育は結局のところ組織に順応する人たちを生み出すためにある。

国家に会社に役所に従順な人たちが多数を占める社会が安定した社会なのである。

そんな社会をクソ面白くもない、なんて思っている僕はただのはぐれ者なのだ。

 

初出 2015/3/3

 

僕たちは学校にしても会社にしてもあるいは広くとらえて社会にしてもその組織に順応することを強く求められる。組織に順応してこそまともな人間だと認知される。

組織に順応できない人はその人の資質や性格に問題があるとされ、組織から排除される。

 

確かに組織に順応できるとその場においては組織の構成員と認められ、役割を与えられ、居場所を確保できるメリットがある。大過なく生きていくことができる。

だからこそ学校教育では個の確立よりも集団の中でのあるべき立ち居振る舞いをインプットし続けるのだ。

 

各々の組織には特有のルール(掟)が存在する。組織に順応するということは、フォーマルなルールとインフォーマルなルールの双方を受け入れそれらに従うことである。

縛りの強い組織では各成員の一体感を作り出す。

 

僕はこの一体感をはじめとする組織の論理が肌に合わない。まずは自分ありきだとの意識が強いのである。もちろん一旦会社に勤めればルールには従うが、不条理と思えるルールに自分を殺してまでも従うことをよしとはしない。例えば付き合い残業なんてその最たるものである。

 

とはいえ僕は組織のルールの存在自体を否定するものではない。組織にルールや掟があるのは当然であり、組織に属する者はそれらに従って然るべきである。ただ、ものには限度があるということだ。

 

組織に過剰に適応する人たちがいる。世間一般の評価では、それらの人たちは真っ当な人であり時には優秀だと看做される。それらの人たちは組織内で高い評価を受け、高い報酬や地位や役職が与えられる。

問題はその組織から一歩出たときにどうなるかである。極端な言い方をすれば、組織に庇護された人たちは本当に「自立」しているのかということである。また、ある組織に飼い慣らされていると、その組織のルールが至上のものと思い込み、かつ自分の価値観がその組織のそれに染まってしまうことになりかねない。

俗に言う「サラリーマン根性」や「お役所根性」である。周囲の(上司や同僚)の目を極端に気にして横並び意識にとらわれる。自分の意見や主張を抑えて、空気を読み、同調する。

自分の意見や主張を強く押し出せば煙たがられ、出世できない。組織の縛りを嫌って辞めれば「裏切り者」のレッテルを貼られたりもする。

これからは「個」の時代だとかというお題目が唱えられているが、実態は旧態依然とした組織が未だに多いのではないだろうか。会社あっての自分だと思い込んでいる人たちも結構多いのではないだろうか。

 

組織に順応しすぎると、知らず知らずのうちに自分というものを失くしていく。ただ、このことが一概に悪いとはいえないことに大きな落とし穴がある。ある組織に適応して生きることは、その間は心地よいことが多いからである。

 

もしかすると、組織に馴染めず、自分を押し殺すことに我慢がならない僕のような人間はこの社会で世間でマイノリティであり、存在を許されない人間なのかもしれない。

この事実を受け止めて、僕はアウトサイダー的な生き方を全うするしかない。

  

「役立たず」と誹られても堂々としていればよい件

人を罵倒する言葉は沢山あるが、「この役立たず!」というフレーズはぐさりと心に刺さるものである。

人や社会の役に立ってない、と言われると自分のアイデンティティを危うくするおそれがある。役立たずはこの世に存在してはいけないのかと思い悩んでしまう。

 

僕は思う。

全く社会の役に立ってない人って本当にいるのだろうか?

仮に役立たずの人がいるとして、その役立たずは社会に存在してはいけないのだろうか?

 

実際に役立たずかどうかの判断基準は絶対的なものでなく、曖昧な主観的なものになりがちである。分かりやすい指標としては、経済的な価値を生み出す人が有益な人であり、それを生み出さない人が役立たずとみなされる。

分かりやすい例としてニートが挙げられる。ニーとは一般的に役立たずの典型的な例として取り上げられることが多い。確かに働いていないニートはその点では社会の役に立っていない。しかし、ニートも消費活動をしている。その点においては十分に社会の役に立っている。引きこもりの人たちについても同様のことがいえる。

労働至上主義や勤勉教が蔓延るこの社会では、働いていないということだけで即役立たずのレッテルを貼られてしまう。ならば働くことができない障害者や高齢者や心身の病気に罹っている人たちはすべて役立たずになってしまう。この考え方は非常に危険である。極端な話にはなるが、ナチスホロコーストにも繋がる虞もある。ナチスユダヤ人だけでなく、国家の役に立たない存在として精神障害者身体障害者、ロマ人をガス室送りにした悲惨な歴史的事実がある。

 

この社会において、ナチスのような極端なことはしなくても、障害者やニート引きこもりなどを社会に役に立たない存在として排除することになるかもしれない。その可能性は十分にある。

 

そもそも人を社会に役に立つ存在かそうでないかで判断すること自体が間違っているのではないだろうか。その判断基準を経済的な面だけでなすことは愚かなことだとも思う。

例えば兵器を製造する会社や武器商人は莫大な富を生み出すが、その兵器・武器は多くの人の命を奪い兵器の製造と販売は究極の反社会的行為であり、全く社会の役に立っていないといえる。しかし実際は軍需産業のトップはエスタブリッシュメントと強く結びついている(あるいは自身がエスタブリッシュメントになっている)。まさに欺瞞である。

 

仮に世間から役立たずと見られたとしても、全く自分を卑下することはない。

役立たずとのレッテルを貼られても、堂々と生きていけばよい。

 

社会に役立っているかどうかなんて、実ははっきりと分からない曖昧なものなのだ。

いや、すべての人たちは何らかの役に立っている存在である。障害者であろうとニートであろうと犯罪者であろうと。

人間の存在意義を役に立つかどうかで判断することは実に薄っぺらなものである、と僕は思う。

 

 

 

 

 

  

生活保護を受けている人たちにいきなり自活できる仕事をしろというのは無茶である件

僕は自立のための就労支援は必要であり、その理念は正しいと思っている。働ける人は働いた方がよい。

問題はそのやり方である。

生活保護の打ち切りを重視するあまりに劣悪な労働条件や意に反した仕事でも無理に働かせることはあってはならない。

 

そもそも生活保護を受けている人たちは何らかの理由があって働けないのである。杓子定規に年齢が若いから、元気そうだからといったことで就労を強いてはならない。無理やり働かせてもこじらせるだけである。一旦生活保護から抜けてもまた戻ってくるだけである。

 

確かに就労可能な年齢の人たちが生活保護を受給するとなかなか抜け出せないのは事実である。それには様々な理由がある。本人の怠惰のみにその理由を帰するのは誤っている。劣悪な労働環境、例えば低賃金、長時間労働、仕事の内容などにも原因がある。また世間の精神疾患に対する偏見にも問題がある。この社会に存在する歪み、矛盾などから目を背けて、すべてを本人の資質や態度に収斂することは間違っている。何の解決にもならない。

 

生活保護を受給する人たち、特に単身者は自分の居場所がないためにこじらせているケースが多いように思う。

その居場所作りの一環として、有償のボランティアに近い仕事の場を作り、社会とのつながりをもたせるような施策が求められる。

心身にそれほど負担のかからない仕事を創るのである。週に2日でも3日でもよい。一日の労働時間が4,5時間程度のものでよい。小遣いになる程度の額でよい。その貰った労賃は生活保護費から控除はしない。福祉的就労に近いものではあるがそれに限定せずにもっと範囲を広げる。ボランティアと労働の中間的な仕事である。ひとりでやる仕事よりもチームでやるような仕事が望ましい。

そのような働き方によって慣れてもらい、社会とのつながりを得てもらい、将来的に就労に結びつくように誘うのである。ただし強制であってはならない。そのボランティア的な仕事に就かなければ生活保護を打ち切る、といったような強権的な手法は取ってはならない。あくまで本人の自由意志に基づくものでなければならない。

生活保護を受けている人たちに自活・自立を必要以上に強いるのは間違っている。いきなりフルに仕事をしろ、というのは無茶である。身体が弱っている人にフルマラソンを走れというようなものである。

 

ここまで書いてきた内容に対して、「甘やかすな」「人は働くべきものだ」と誹謗する人もいるだろう。

弱っている人たちを甘やかすのが悪いことなのだろうか。

殊更に他者に厳しさを突きつける社会が本当に生きやすい社会なのか。寛容な社会なのか。

人は生きているだけでいい。無条件の「生存の肯定」を認めるべきである。

人は働くべきである、社会に役立つ存在であるべきである、というのはただのイデオロギーである。勤勉至上主義、労働至上主義といった近代以降に形成されたイデオロギーである。その単なるイデオロギーに盲目的に従っているだけである。

 

自分の苦しさの捌け口を弱っている人たちに向けるような行為は愚かである。

市井に生きる人たちが少しばかりの優しい眼差しを困っている人たちに向けることができれば、世の中は変わるはずである。

 

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