僕は50歳の大台を目前に控えた「オヤジ」である。
若作りとまではいかなくても、外見は清潔感を保ち「オヤジ臭く」ならないように心がけている。外見だけでなく、内面もオヤジにならないように注意している。
僕はかつて若い頃オヤジ的な言説を垂れ流す輩が大嫌いだった。
「苦労は買ってでもしろ」
「俺の若い頃はもっと厳しかった」
「今の若い奴らの考えは甘い」
といった類の俗論を恥ずかしげも無く吐くオヤジ連中を軽蔑さえしていた。
さて、実際にオヤジと呼ばれる齢に達した僕は自分が嫌っていたオヤジの行動様式を決して踏襲しないようにと強く思っている。
例えば仕事などで接する若者に対する態度である。僕は自然体で接するように気を遣っている。
変に先輩風を吹かしたり年長者を気取ったりしない。かと言って阿ることもしない。良いところは素直に認めて、悪いところがあれば相手のプライドを傷つけないようにしつつも指摘したりしている。
長く生きていると様々な体験をして生きる智慧がついてくる。
また、自分の考えや信念が決して正しいものではなく、「正義」なんて相対的なものに過ぎず、正義を相手に押し付ける行為はとても愚かなものだと分かってくる。
もっと言えば自分が無謬だと妄信し、自分だけの正義を撒き散らす輩は救いようのないバカである。だが、年輩の人でそのような行動を取って周囲から煙たがられている人たちは多くいる。
特に説教したがるオヤジは始末に負えない。
自分の偏狭な価値観や正義を疑うような真摯さの欠片も無く、自分が完璧に正しいと思い込んでいる。その底の浅い価値観を押し付け、世間の常識に過ぎないものを過剰に信じて、他人の行動や考えに介入してくる。相手のことを思っての行動ではなく、説教することで悦に入る自己満足以外の何物でもない、というケースが多い。
確かに年長者のアドバイスによって助けられることがある。耳を傾けるべきものも多々ある。でも、あくまで「助言」の範囲である。その助言は相手(年少者)が自分で考え自分で行動を起こすように手助けする程度のものでなければならない。頭ごなしに相手を否定し、自分(年長者)の意に沿うような行為を強いるものであってはならない。
僕は絶対に説教するようなオヤジにはなりたくない。
たとえオヤジとなっても、まだまだ未熟であり、成長する余地があると思っている。
もっともっと世の中のあれやこれや、何たるかを知りたいと願っている。
年少者を説教して悦に入っている姿はとても醜悪だ。
僕は絶対の正義など信じず、すべてのものを相対化する態度を取り続けたい。
僕はいつまでも柔軟であり続けたい。