僕たちは生きていくうちに何らかの競争にさらされることになる。学生時代は成績を上げることを強いられ、社会に出ると仕事の成果を問われる。
競争をするということは勝者と敗者を生むことである。
勝者となればまた次の段階での競争に参加し、そこで勝つとまた次の段階へというように延々と勝つための競争を続けることになる。
世の中の大半の人たちは競争に負けることになる。ずっと勝ち続ける人なんてほんの一握りである。
僕たちはいつかどこかで必ず負けることを宿命づけられている、ともいえる。
しかし、世の中にはこの「負け」を認めたくない人たちが多く存在する。負けたくない、とばかりに常に勝ち続けようともがいている人たちが多くいる。負けることが即転落や没落につながるという強迫観念にとらわれている人が少なくない。
競争社会自体は悪ではない。
競争することによって社会は発展するし、個々の能力が伸長することもある。競争のない完全な平等社会なんて想像するだけでも気持ち悪い、と僕は考えている。
しかし、競争が度を過ぎて、勝ち負けをはっきりとさせて負けた人たちを排除し、負けた人たちが二度と浮かび上がれないような社会は異常である。ある領域で負けた人がいたとしても、同一の領域で敗者復活が可能であるか、別の領域でチャレンジが容易にできるような社会がベターである。
そもそも負けることは悪いことなのだろうか。前述のように大概の人は負けることになるのである。
「負けるが勝ち」という言葉もある。
勝ち続ける人生が幸せだなんてとても僕には思えない。仮に勝ち続ける人生を歩んだとしても、そこには何か大きな落とし穴があるのではないか、何か大切なものを失ってしまうのではないか、と負け続けの人生を歩んでいる僕は思ってしまう。
勝ち負けをはっきりとさせて、「勝ち組」と「負け組」というレッテルを貼って悦に入っているような人を僕は信用しない。また、そのような硬直し狭量な価値観が蔓延るような世の中はどこか狂っている。
かつては「敗者の美学」的なものがあった。今もその美学は残存していると思う。歴史上の敗者といわれる人たちは魅力的である。ときには勝者とされる主役を食うこともある。
勝ち負けなんて時の運であって、人の価値を決定づけるものではない。歴史上の様々な出来事はそのことを痛感させる。
負けても、あるいは負け続けても落ち込むことなんてない。
自分を卑下することもない。
負けることによって自分の分を知ることができるし、足りないところを知って次に活かすことができる。勝つに越したことはないけれども、負けることによって得られるものは少なくないはずだ。
人生なんて一勝九敗か二勝八敗くらいで十分である。