僕たちは困っている人を見れば無下にすることはできない。大抵の人は自分ができる手助けをするだろう。この助け合いの精神がなくならない限り、この世に絶望することはない。
初出 2016/3/1
人は太古の昔から助け合って生きてきた。
狩猟をメインとしたときも農耕をメインとしたときも共同体を作り、そこに属して自分の役割を果たしながら、成員として認められることにより自分の居場所を確保してきた。
近代以降は「個」の自立が尊ばれて、中間団体の縛りから逃れた生き方が善とされてきた。同時に剥き出しの「個」として生きていくことは孤立を招き、生きづらさが増幅するという負の事態も生じてきた。
人それぞれが自立した「個」として生きていくのは人類の進歩であり理想かもしれないが、人の持つ本質から乖離しているのかもしれない。
人は高邁な理想論だけで生きてはいけない。
自分の生活を成り立たせるために、目の前の色々な問題にその都度対処しなければならない。様々な人たちと関わり合いを持たなければならない。
困っている人を見かけたら、自分ができる範囲の手助けをする。助けられた人は「恩返し」としてまた他の困っている人の手助けをする。この連鎖が続く限り、生きやすい社会となる。
ありふれた言葉だが、少しばかりの「やさしさ」があればこの社会は生きづらさのない健全なものとなる。
人は時にはやさしくなるが、時には冷酷にもなる厄介な生き物である。やさしさと冷酷さを併せ持った存在であると常に意識しておかなければならない。
困った人を見かけたときに自分の中から生まれ出るやさしさを大切にしたい。そのやさしさを実際の行為として表出することに、ためらいや恥ずかしさという気持ちがそれを阻むことがないようにしなければならない。これはなかなかに難しいことである。
困ったときに誰かに助けられることを恥と感じることはない。
困っている人を助けるときに、その行為が偽善ではないかといらぬ心配をすることはない。
人は助け助けられてはじめて生きていける。助け合いによってようやく一人前になれるのだ。
この世知辛い世の中を変えようとするならば、身近なところで自分ができることからはじめることだ。特定のイデオロギーに捉われ寄りかかって性急に変えようとするとロクなことにならない。
困っている人を見かけたらちょっと手助けをすることが当たり前になれば、そんな社会であれば僕はまだまだ希望を捨てずに生きていける。