希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「労働」と「自由」は決して相容れることがない件〈再掲〉

雇われて働くということは、自分の時間を切り売りしていることに他ならない。自由を犠牲にしているともいえる。

労働の本質から目を背けた仕事論や働き方論では気休めにしかならない。

 

初出 2015/4/6

 

「労働すれば自由になる」。

これはアウシュビッツ収容所の入り口に掲げられていたスローガンである。

この言葉の持つ意味は恐ろしいものだ。労働(強制された作業)をしない者、できない者は死あるのみということを意味する。働けない者には死しかないという死亡宣告だ。

これはナチスの有する狂気だと切って捨ててしまうこともできるが、一概にそうとも言い切れない。

 

この国が、社会が、世間があらゆる人たちを労働にせきたてている一面があることを忘れてはならない。

生活保護受給者に対して「自立支援」という名目で無理に労働を強制する。無理をすれば働ける人に対して劣悪な労働条件の仕事でも無理やり当てはめようとしている。仕事を選ぶなと無茶な要求をする。劣悪な条件下で仕事をすれば、心身を壊すことは目に見えている。

 

自由を求めて世間で真っ当と認められないような働き方をしている人たちに対して、偏見を抱き、時として排除することもある。

 

大半の勤め人は会社や役所等の組織の枠組みの中で管理・統制されて働いている。

会社の利益追求という目的だけのために働かされている。公益を追求するはずの役所でも、利権を維持するために働かされている。

しかも、仕事のやりがい、自己の成長、自己実現という幻想を抱かされながら。

 

労働者が行う「労働」の本質は、利益を拡大することのみを追求する会社・経営者のエゴのために搾取され、使い捨てされる代替可能なものだ。

たとえ見映えがスマートでも、その本質は変わらない。

労働者が労働者である限り、心身を会社に隷属させて、その対価としていくばくかの報酬を与えられ自身の生活をようやく成り立たせている。

雇用関係が強固になるほど(正社員になるほど)隷属の度合いが強くなる。

「安定」という幻想を与えられ、際限なく会社のために働く。労働者は会社の手のひらの中で踊らされ続けるだけの存在なのである。

 

かつてはたとえ会社に隷属しようとも、経済成長の恩恵を受けて賃金は右肩上がりでそこそこ物質的に豊かな生活を享受できた。

物質的な豊かさを得ることが人生の目的ともなりえた。会社人間とか社畜とか嘲られようとも、マイホームやマイカーを持ち、モノに恵まれた生活を送ることが人生の幸福だと思い込んでいたのだ。これはこれで決して間違っていたわけではない。貧しい生活よりも豊かな生活の方が良いに決まっている。

 

しかしながら、「労働」に偏った生活は「自由」を犠牲にしなければならない。

完全なる自由なんて幻想だとは百も承知である。

けれども、人は幾ばくかの自由を謳歌してこそ、楽しい人生だと僕は思っている。

「労働すれば自由になる」なんてことなどない。

 

僕は「労働」を捨てて、「自由」に生きる人生を送りたい。