希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

カミングアウトを賞賛する風潮は果たして正しいのかという件

自分が社会において偏見の目に晒されるものを抱えているー例えば同性愛者、在日コリアン、被差別部落出身等ーことをカミングアウトするのを良しとする風潮がある。

確かに勇気ある行動ではあるし、それはそれで讃えられるものであると思う。

 

この社会ではいわゆる「普通」の人たちとは異なる嗜好や性質を持つ人たちに対する偏見もあるし、社会から排除しようとする力学が働く場合もある。マイノリティにとって生きにくい社会であることも事実である。

そんな社会で同性愛者であることや在日コリアンであることなどをカミングアウトする人たちが増えると、社会が変わる契機になる可能性もある。事実、一昔前に比べると同性愛者や在日の人たちへの差別や偏見がなくなってきている(完全になくなったわけではないが)。

 

しかしながら、僕は思う。

カミングアウトすることを手放しに賞賛することはいかがなものかと。

カミングアウトをしたくない人たちも沢山いるはずだし、その人たちに変なプレッシャーを与えやしないかと心配になる。

秘密にしておきたいことは、そっと自分の胸にしまっておきたいというのは自然なことではないだろうか。

 

同和地区の学校では、被差別部落出身者の子どもにカミングアウトさせる運動がある。島崎藤村の『破戒』の主人公の瀬川丑松になってはならないらしい。自分の出自を誇ることが、いわれのない差別を克服するひとつの手段となるという考え方だ。自分の出自をカミングアウトすることによって、差別や偏見の渦巻く社会の中で強く生きていく覚悟や気概を持つことが大切なのだと言いたいのだろう。

しかし、まだまだ幼い子どもたちにカミングアウトをさせるのは酷なのではないかと思う。大人たちの思惑に惑わされてはいないか、と心配になる。社会経験・人生経験を積んだ上で、自らが進んでカミングアウトするなら良いと思う。

差別や偏見が残るこの社会に問題があるのは確かなことであり、その解決は個人レベルでは図れないという厳然たる事実がある。

 

カミングアウトすることによって、その人の心の澱のようなものがなくなり、気が楽になることもある。この場合の効用は認められる。

他方、カミングアウトすることにより、その人の社会的地位等が脅かされることもある。自分の秘密を守りたい人たちもいる。

人に言えない秘密を他者に知られずに生きていく道を選んだとしても、決してその人は責められない。

誰しも人に言えないささやかな秘密を一つや二つは持っている。

それと同じことだ。

 

カミングアウトすることが無条件に素晴らしいことだという考え方は良いとは思えない。

秘密は秘密のままにしておくことが、ある意味人間らしいことなのだと思う。

 

カミングアウトした人たちに偏見の目を向けないことと共に、それができない人たちの心情を慮るということも忘れてはならない、と僕は思う。