希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

自称「エリート」だらけのこの社会はさぞかし立派なんだろう、とシニカルになってみる件

日本社会では、少し有名な会社の正社員だったり(しかも幹部候補であれば)、有名大学出身だったりしただけで「エリート」の称号を得られる。

日本国中、自称・他称エリートだらけの優秀で立派な社会である。さぞかし意識の高い市民社会が成立しているのだろう(すべて皮肉)。

ただ、ややもするとエリートという言葉を嫉妬や揶揄するものとして使用しているケースも多い。庶民のリアリズムからすると、一見ステータスの高い鼻持ちならない者たちはエリート扱いして、裏では小馬鹿にしていたりする。

 

表題にもした通り、日本では有名大学を卒業し有名企業や官公庁に勤めているだけでエリート扱いされることがある。

以前のエントリーでもふれたが、エリートとはグランドデザインを描けて、公益を優先し使命感・責任感に満ちた気概のある人のことだ。

単なる大企業や役所に勤める「労働者」がエリートとは随分ハードルが下がったものである。エリートの粗製濫造である。

 

大企業・有名企業や官公庁に勤める人たちは、単にそれらの組織に採用されただけの人である。ほとんどの人たちは自らがその会社を大きく発展させたわけではない。元々大きな組織に入っただけなのである。

ここで反論が出るだろう。大きな組織に採用された理由は、その人が優秀だったからで、ある意味エリートなのだと。

確かにヘッドハンティングで経営幹部・役員に採用されたような人はエリートに近いかもしれない。しかし有名企業や大企業の採用のメインは新卒採用である。新卒採用では過去の職務上の実績はゼロだし職務遂行能力は未知数である。その人の能力を測る物差しは、曖昧な基準となる。コミュニケーション能力や社風に合うか否か、協調性があるかどうか、忍耐力があるのか等のポテンシャル採用になる。結局は学校歴によるフィルターを通した無難な人選に落ち着く場合が多い。

繰り返しになるが、単なる仕事人間・会社人間である人、単なる労働者がエリートとは滑稽以外の何物でもない。

 

この「エリート」が大組織を辞めて、フリーランスになったり起業したりして失敗し、非正規雇用になったり無職になったりすると「元エリートの転落」とメディアに取り上げられたりする。庶民はそれらの記事を読んで溜飲を下げるという構図がある。

考えてみると、大企業等の勤め人に「エリート」というレッテルを貼っているだけなのかもしれない。勝手にレッテルを貼られた人たちにとってははた迷惑な話ではある。

 

と、ここで僕自身のことを振り返ってみると、一応有名大学を卒業して、大都市の役所の行政職として採用されたから、他人から見れば「エリート」の端くれだったのかな。その後、役所を辞めて、フリーランス・自営を経て非正規雇用に・・。まさに元エリートの転落じゃないか。

まあ、僕自身は転落だとは思っていないし、今の方が自分らしく生きているという実感もある。

 

単なる大企業等の勤め人を「エリート」とするのは、ある種の記号・ラベリングに過ぎないのかもしれない。人々は彼らのことを本当のエリートだとは思っていないし、揶揄する対象としてしか見ていない気がする。

 

「エリート」とは定義付けが厄介であり、でも使い勝手が良い、しかも変な幻想を生む言葉である。