希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「天職」なんてそうそう見つからない件

よく就職関係や自己啓発関係の本で天職の見つけ方という特集が組まれる。

この手の記事は天職があること、それが見つかることが自明であるという前提で書かれている。

これから就職をしようとする人たちや転職を考えている人たちの中で、自分に天職があるはずだと思い込みドツボに嵌る人も出てくる。

 

「天職教」というものはタチが悪い。

世の中には確かに天職らしきものに出会い、充実した日々を送っている人たちが存在しているからである。

天職に出会ったと思っている人たちはごく一部の幸運な人たちに過ぎない。

レアケースなのである。

多くの人たちは自分の仕事がつまらないと感じながらも、その仕事の中に面白みを見出し、かつ生活を成り立たせるために日々どうにかこうにか仕事をこなしているのである。

 

今の仕事に疑問を持つことは誰にだってある。

別の仕事をすれば今の閉塞した日常から逃れられるかもしれないと考えることは自然のことだ。

こういった人たちにとって、自分には自分だけの天職があると信じることは希望になることがある。同時に副作用として、自分の行動や思考を縛り付けるおそれもある。行き過ぎると天職を見つけなければならないという強迫観念となる場合がある。あるいは天職に就かないと実りのある人生を送れないと思い込み、今の仕事に身が入らずににっちもさっちもいかなくなることさえある。

 

天職なんてそうそう見つかるものではない。

そもそも「天職」という概念が正しいのかどうかも定かではない。たまたま自分に見合った仕事に巡り合い、必要以上にそのことを持ち上げて、天職という概念を作り出したに過ぎないのかもしれない。もっと言えば、「天職」という概念を作り出して、それを一部の人たちが商売のネタにしているだけなのかもしれない。このことは一面で事実であると思うが、天職という概念自体を全否定してしまっては身も蓋もないし、希望がなくなってしまうと僕は思っている。

 

人はなかなか今置かれている状況に満足しない生き物である。天職という概念は不満の捌け口やガス抜きに有益な面がある。いつか自分にフィットした仕事に出会うと思っていれば、将来に光明を見出すことができる。そういった意味において「天職」という概念は有意義なのである。

 

仮に「天職」という概念を肯定するとしても、その天職に出会わなくても僕たちは何事もなく生きていけるし、幸せになることができる。

そもそも仕事が即人生であり、即幸福であるという考え方は視野が狭すぎる。天職を肯定し賛美する考えは仕事(労働)至上主義に侵されたものに過ぎないといえる。

 

天職なんてそうそう見つからないし、天職に巡り合わなくても、十分に幸福になれると思って生きた方が肩の力が抜けてより良い人生を送れると僕は思う。

天職なんてひとつの幻想に過ぎないと突き放してみる思考様式が現在と未来の形を良きものにするかもしれない。